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【2−9】肉球の代用品

 リディル王国には三人の王子がいるが、誰が次期国王になるかを現国王は未だに明言していない。

 現在、国内貴族達の間では、第二王子のフェリクスを次期国王に据えようという動きが強くなっている。

 何と言ってもフェリクスにはクロックフォード公爵家の後ろ盾があり、勢力は日に日に強くなる一方であった。このまま第二王子派の勢力が拡大していけば、フェリクスが王になるのは間違いないだろう。

 だからこそ、貴族の令嬢達は誰もが目の色を変えて、フェリクスの婚約者の座を狙っている。

 無骨な第一王子、影の薄い第三王子と比べて、第二王子のフェリクスは飛び抜けた美貌の持ち主だ。彼を一目見ただけで恋に落ちた少女が何人いることだろう。

 故に、フェリクスの姿を一目拝もうとする女子生徒が生徒会室付近をうろうろしていることが、しばしあった。今もそうだ。数人の女子生徒が固まって、そわそわとフェリクスがやってくるのを待っている。

 そんな少女達の背後から近づいてくる、一人の女子生徒がいた。

 その生徒の名は、シェイルベリー侯爵令嬢ブリジット・グレイアム。

 セレンディア学園が誇る三大美女の一人に数えられている彼女は、その美しい顔を女子生徒達に向けて、冷ややかに告げる。

「通行の邪魔よ。通してくださる?」

 その一言で、少女達は恥じらうように頭を下げて、その場を立ち去った。

 ブリジットは成績優秀で、常に高等科三年上位の成績を維持。特に語学分野においては、総合成績一位のフェリクス王子に並ぶ才女である。

 容姿も家柄も申し分なく、フェリクス王子と幼馴染ともなれば、当然に周囲は彼女をフェリクス王子の婚約者候補として見ていた。

 なにより、ブリジットはフェリクスが指名した生徒会役員である。現生徒会で唯一フェリクスが指名した女子生徒。それがブリジットなのだ。それだけ、彼女はフェリクスに信頼を置かれている。

「……あら?」

 生徒会室のドアノブを回したブリジットは眉をひそめた。扉の鍵が開いている。今日は自分が一番乗りだと思ったのだけれど、と少し不思議に思いつつ、彼女は室内に足を踏み入れた。

 生徒会室に人の姿はない……が、隣接した資料室から微かに物音が聞こえる。誰かが作業をしているのなら声をかけようと、ブリジットは資料室を覗き込み……そして、絶句した。

 資料室の棚の一つが空になり、床には資料が積み上げられている。

 そして、奥にある作業机では、見覚えのない薄茶の髪の少女が黙々と資料を読んでいるではないか。

「お前は誰です。誰の許可を得て、この部屋に入ったの?」

 ブリジットが声をかけても、小柄な背中はピクリとも反応しない。

「答えなさい」

 強い口調で言ってもなお、少女は反応しなかった。

 焦れたブリジットが更に声を張り上げようとした時、背後から二人の男子生徒が現れた。どちらも生徒会の人間だ。

「おや、今日はブリジット嬢が一番乗りか……ってなんだこりゃ!?」

「資料がぁ……えっ、あの、そちらの方は、どなたなんですかぁ?」

 鳶色の髪の背の高い青年は書記のエリオット、明るい茶の髪の小柄な少年は総務のニールである。

 エリオットはブリジットを見て、困ったようにへらりと笑った。

「あー、そっちの女子は? ブリジット嬢のお友達?」

 ブリジットは返事の代わりに、山猫のようにギラギラと輝く金色の目でエリオットを睨みつけた。

 エリオットは「おぉ、こわっ」と肩を竦ませて、即座に言葉を訂正する。

「うんうん、お友達な訳ないよなー。ブリジット嬢にお友達なんているはずないし……」

「見たところ、僕と同じ二年生みたいですけど……初めて見る子ですねぇ」

 エリオットの陰に隠れて様子を窺っていたニールは、一歩だけ机に近づいて、少女の背中に声をかけた。

「あのー、すみませーん。お名前をお伺いしてもよろしいですかー?」

 やはり返事はなく、少女は黙々と資料のページをめくっては、時折、小さい紙に数字を書き込んで資料に挟み込む。その目は常に資料に向けられており、ブリジット達の方を振り向く様子は無い。

 エリオットとニールが途方に暮れている中、ブリジットは手にした扇子を振り上げ──それを少女の頬に振り下ろした。

 バシン! と派手な音が響き、少女の動きが一瞬止まる。

 エリオットとニールが同時にひぃっと息を呑み、恐ろしいものを見るような目でブリジットを見た。

 そんな中、ブリジットは振り下ろした扇子を広げ、冷ややかな声で少女に告げる。

「目は覚めて?」

「…………」

 少女はほんの数秒手を止めていたが、やがて何事も無かったかのようにページをめくりだした。


 * * *


 ──いたい。


 数字の世界に没頭していたモニカは、突如、頬に強い痛みを覚えた。


 ──いたいは、こわい。こわいは、つらい。


 痛いことや怖いことがあった時ほど、モニカの思考は数字の世界に沈んでいく。

 だって、そうして数字のことを考えている間は、ツライと感じなくて良いのだ。

 美しい数字の世界は、モニカを傷つけたりはしない。酷いことを言ったり、痛いことをしたりはしない。

 故に、頬に痛みを感じたモニカは、現実から目を逸らすように、再び数字の世界に没頭する。


 * * *


(やっべぇぇぇぇ、モニカのやつ、完全に暴走してやがるーーー!)

 校舎の探検をしていた黒猫のネロは、生徒会室の窓の外からこの光景を見ていた。

 モニカが扇子で頬を叩かれるところも、全てだ。

(ダメだダメだ! 引っ叩くのは逆効果なんだよ! 今のモニカは恐怖を与えると、ますます数字の世界に没頭しちまう!)

 ネロはこの状態のモニカを正気に戻す方法を知っている。

 ──ずばり、肉球だ。

 肉球で頬をプニプニしてやると、モニカは正気に戻る。そのためにも、なんとかモニカに近付きたいのだが、窓は鍵がかけられていて中に入れない。

 ネロは窓をカリカリと引っ掻いて、ニャウニャウ鳴いた。

 一番小柄な少年が真っ先にネロに気づいて「あ、猫」と声をあげれば、他の二人も窓に視線を向ける。

(よし、ここだ!)

 ネロは窓枠にちょこんと座ると、渾身の可愛いポーズをして「にゃぁん」と鳴いてみせた。

(どうだ! オレ様必殺! 渾身のセクシーダイナマイトポーズ! これで、小娘どもはみんなオレ様にメロメロよ!)

 このポーズをすれば、大抵の人間はネロにメロメロになって、中に入れてくれる。

 ついでに毛繕いをしたり、ご飯をくれてもいいんだぜ! とネロが得意げに鼻を鳴らしていると、扇子を持った令嬢はピシャリと言った。

「あたくしは、媚びるしか能がない生き物は嫌いです」

(にゃ、にゃ……にゃにおーーーーーーーーーう!!)

 ネロは激怒した。こんなことが許されるのだろうか。否、断じて許されて良いはずがない。だってオレ様こんなに可愛いのに!!

(だぁぁぁぁれが、媚びるしか能がない生き物だ、人間の小娘風情がぁぁぁ!! オレ様の本気を見せてやろうかぁぁぁぁっ!!)

 ふぎゃーふぎぃー、とネロが鳴いて地団駄を踏んでも、やはりモニカはネロに気付かない。

 やはり、モニカを正気に戻すには肉球で頬をプニプニするしかないのだ。

(いーいーかーらーあーけーろーよー! 肉球でプニプニさせろーーーーー!!)

 ネロがガリガリと乱暴に窓を引っかいていると、更に二人の人間が資料室にやってきた。

 モニカの護衛対象である生徒会長の第二王子と、その側近らしき銀髪の青年だ。


「やぁ、何の騒ぎだい?」


 * * *


 フェリクスが資料室に入って真っ先にしたことは、鍵束の確認だ。

(……最初の位置から動いていない)

 自然な態度で他の棚に目をやるが、荒らされた様子は無い。中身が丸ごと抜き取られているのは、会計記録の棚だけだ。

 フェリクスは足元に並んだ資料を一つ手に取り、中身をパラパラと確認した。

 今から二十四年前の会計記録は、修正箇所に正しい数字を記した紙が挟んである。他の資料も同様だ。

 フェリクスの横で資料を確認していたシリルが、ギョッとしたように目を剥いた。

「これは……馬鹿なっ!? 五年分どころか、過去の記録全てではないかっ!? 何故、こんな古い物まで引っ張り出しているのだ、この小娘はっ! おい、小娘っ! 状況を説明しろ!」

 シリルがワァワァ怒鳴り散らしても、モニカは反応しない。シリルの白い頬は、怒りのあまりピキピキと痙攣していた。このままだとモニカに殴りかかりかねない。

 その時、フェリクスは気がついた。モニカの右頬が腫れている。

「……これは、どうしたんだい?」

「あたくしの方から、無礼者に躾を少々」

 ブリジットはすました顔で答えて、広げた扇子で口元を覆う。

 なるほど、モニカの態度は彼女の怒りに触れたらしい。

 フェリクスは手袋をした指先で、モニカの頬をするりと撫でる。やはり、モニカは瞬き一つしない。

「彼女にはね、私の方から五年分の会計記録の見直しをお願いしたんだ」

 生徒会のメンバーにそう説明し、フェリクスは訂正の紙が挟まれているページの数字を暗算した。

 なるほど、モニカの指摘通り不備がある。

(……しかし、過去の記録全部の見直しをするなんて)

 流石のフェリクスもこれには驚いた……こんなにも、なにかに驚くのはいつ以来だろう。

 ちょっとした感動を覚えつつ、フェリクスはモニカの肩をそっと叩く。

「ノートン嬢、ご苦労様。そろそろ休憩してくれてかまわないよ」

 モニカは返事をしない。

「ノートン嬢」

 フェリクスがモニカの肩を少し強めに揺すると、モニカは右腕を持ち上げ……あろうことか、フェリクスの腕を煩わしげに払った。

 生徒会メンバーがざわつく。特にシリルに至っては、激昂して氷の魔力を撒き散らし始めた。

「貴っ様ぁぁぁ!! 殿下になんという無礼な態度を!! 万死に値するっ!!」

 怒鳴りながらシリルが詠唱を始めたので、フェリクスはそれを片手を持ち上げて制した。

 そして不思議な生き物を見るような目で、モニカを見る。

 今のモニカは計算をすることだけに意識の全てを使っている。あんなにもビクビクしながらフェリクスの顔色を窺っていた少女が、今はまるでこちらのことを見向きもしない。

 フェリクスの容姿より、数列を褒めた時と同じだ。

 それが妙にフェリクスの心を擽る。

 ……数字よりも、こちらに振り向かせたい。

 フェリクスは唇に淡い笑みを浮かべると、モニカの頬に指を添え……


 赤く腫れた頬に、口づけを一つ落とした。


 生徒会の面々が絶句する中、モニカの動きがピタリと止まる──ただし、視線は資料に向けたまま。

「…………ネロ、待ってて……もうちょっとで終わるから……」

「ネロって?」

 フェリクスが小首を傾けて問えば、モニカの薄い肩がビクリと跳ね上がり、手の中から羽ペンがポロリと落ちた。

 やがて、その全身がガタガタと震えだし、小さい頭がゆっくりとゆっくりとフェリクスの方を向く。

「でででででで、でんっ、でんっ、ででっ……」

「うん、小気味良いね」

 珍妙な声を発するモニカにフェリクスがニコリと笑いかければ、モニカは椅子から転げ落ち、そのまま床に平伏した。

「たっ、たたっ、たい、たいへ、大変っ、しつ、失礼しまっ……ひゃふぅ!?」

 どうやら最後は舌を噛んだらしい。

 モニカは口元を押さえて「いひゃいよぅ」とメソメソ泣きだした。

 なんとも愉快な動きをする玩具を見ているような気持ちで、フェリクスはモニカの頭をそっと撫でる。

「顔を上げて? 君は私のお願いを一生懸命叶えてくれたのだろう? 何も咎められることなんてない」

「ひぃん……ひゃ、ひゃい……」

 モニカが鼻を啜りながら頷けば、シリルが「お言葉ですが」と片手をあげて口を挟む。

「殿下、この小娘はやりすぎです。殿下が命じたのは五年分の会計記録の確認のみ……殿下が命じた資料以外も見たという事実は、咎められるべきかと」

 シリルの指摘にモニカは再び真っ青になって、哀れにガタガタと震え出す。

 フェリクスはシリルではなく、モニカに訊ねた。 

「君は、会計記録を見てどう思った?」

「え、えっと……その……」

「怒らないから、正直に思ったままを言ってごらん」

 フェリクスが穏やかな声で促せば、モニカは指をもじもじと捏ねながら言う。

「……動くお金がびっくりするほど大きいのに、びっくりするほど管理が杜撰で、びっくりしました」

「貴っ様ぁ!」

 シリルが激昂して怒鳴り、モニカは「怒らないって、ゆったのにぃ……」と頭を抱えて泣きじゃくる。

 フェリクスは口元に薄い笑みを浮かべて、生徒会のメンバーを見回した。

「これが歴代生徒会の現実だ。生徒会役員は皆、お金に困らない立場の人間だったからこそ管理が甘い。私ですら、アーロン・オブライエンの不正をすぐには見抜けなかった……その反省を生かし、私はここに宣言しよう」

 フェリクスは泣きじゃくりながら縮こまっているモニカの手を取り、高らかに告げた。


「高等科二年、モニカ・ノートン嬢を生徒会会計に任命する」


 次の瞬間、モニカは白目を剥いて、その場に崩れ落ちる。

 窓の外では黒い猫がニャウニャウとうるさく鳴いていた。

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