深海の声

作者: 左右

微かにノイズの混ざったような頭に響く声。

―ねえ、誰か、聞こえる?ねえ…。

どこか不安げなその声に俺は頭の中だけで答える。

『聞こえている』

―…その声は――ね?

『ああ。…お前、どこにいるんだ?』

―…どこって言われても、分かんない。なんか目も見えないし聞こえないし、ヘレンケラー状態?

『…あ、そう』

―もうちょっと何かリアクションはないのかなあ!

『…声だけでも騒がしいんだな、お前』

―…――は声だけでも嫌なやつね。

『…だったら?』

―さようならしたいところだけど、ほかに私の声が聞こえる人もいないみたいだから我慢する。

『…あっそ』

そのあとも彼女は俺の頭の中でほぼ一方的な会話をした。

―そういえば、ねえ、――と回線繋げたら視野とかも共有できるかな。○○っていう芸人コンビが見たいんだけど。

『…なんで』

―だって彼ら、今消えるか消えないかの崖っぷちなんだよ。そのがんばってる感じがよくってさ。

『…ふーん?…ちょっと待ってて』

俺はそういうと部屋の隅にあるテレビのチャンネルを付けた。テレビだけが視野に入るように座ると、あいつとの回線をつなげた。

『ほい』

―わーい!テレビだ!でもこれN●Kのチャンネルじゃん!替えて替えて。

『…うるさいやつ…』

ご所望通りに回していくとお目当ての芸人はいなかったらしいが再放送中の時代劇に食いついてみていた。俺は興味がなかったので正直寝たかったが、うつらうつらしているとたいていあいつの声が騒いで俺の目を覚まさせた。…本当に面倒な奴だ。

テレビが終わると俺はあいつとの回線を外した。いつまでも共有なんてしたくはない。でもその瞬間、あいつはひどく切なそうな、悲しそうな雰囲気があった。その後もちょっと落ちこんだようになっているのでまた見せてやるというと一気に明るくなった。現金な奴だ。

―じゃあね、私、今、無性に青空が見たいな。

『…今日は雨だよ』

―えー。

『テレビのはさっきまで見たいただろ?』

―生が見たい。生!

『どうせ俺経由じゃねえか』

―あ。

『…馬鹿だ』

―…それでもいい!君の見る青空が見たいな!

『だから今日は雨だ』

―じゃあ今度ね、晴れたときね。

『…気が向いたらな』

―えー

『煩い』


そんな感じで数日間、俺はあいつの一方的な会話とテレビの視聴につきあった。


そして俺はその場所を見つけた。

低いモーター音のようなものがこだまする、うすら寒い場所。

―ねえ――。

いつものノイズの混ざったような音ではなく、異常にクリアな声がいつものように聞こえた。

『なんだよ』

―テレビ見たいな。つないでよ。

「今は無理」

口に出してみる。

やはり聞こえてはいないらしい。

『今は無理』

頭の中だけで返す。

―えーーじゃあ青空

不満げないつも通りの声。

『それも無理』

―えー、けちー

『こっちにも事情ってもんがあんの』

―ふーん?…にしても今日は声がよく聞こえる。なんでかな?

まあ悪いことじゃないよね、とつぶやくように言う声が頭の中でする。

『さあ、なんでだろうな』

目の前にある透明な大きなパイプを満たす液体に、その中に鎮座する白っぽい塊。塊にはたくさんの管がついていて、何だかとても賑やかだ。

パイプに触れる。指を滑らせる。パイプは冷たかった。

『なあ、お前、今どこにいるの?』

唐突に聞いてみる。

―だからわかんないって言ってるじゃん。何にも感じないんだってば!

軽く怒ったような声。

『あ、そう』

パイプに指を這わせる。冷たい滑らかで固い感触がするだけだ。

―うーー。…じゃあ――こそどこにいるのよ。テレビを見してはくれないしさ。

『…内緒』

「君のそばだよ」

声に出す。

パイプの中にその声は届かない。

頭の中であいつは騒ぐが、外はモーター音だけが響いていた。


翌日、俺はあいつにテレビを見せているうちに寝てしまっていたらしい。あいつの抗議の声で目を覚ました。

―もう――!もう少しで終わるところだったのに!

ノイズの混ざった声が脳内に響く。

『どうせ毎回結末は同じだろうに』

―違いますぅ!毎回どんなふうにお仕置きをするのかが気になっていたんですう!

『…はいはい』

うるさいやつだ。

―でも――?

『あ?』

―うなされてたよ。大丈夫?

『…平気だよ』

―そう?ならいいんだけど…。

『…急にしおらしくなったな。…何の番組が見たいんだ…?』

―別に何もねだりたかったわけじゃない!馬鹿にすんな!

『…そこもうちょいツンデレっぽく』

―べ、別にあんたが心配だったわけじゃないんだからね!か、勘違いしないでよね!

『…萌えねえなあ』

―やらせといて言わないでよ。結構傷つくのよ。

『照れ隠しなんかじゃないんだからね』

―低いトーンで言うと勘違いできないくらいだからやめて!

『本当だよ』

―え?…ってそれどっちが?!

ねえ、ねえ、どっち?と脳内で騒ぐ声に口の端が持ち上がる。

いやな夢を見た気がする。ふと覚えていない夢の中身が気になった。

『…なあ、共有しているときって夢も見たのか…?』

―…う、う~ん。あれは夢だったのかな…?

『どんな夢だった?』

―…内緒

『おい、』

答えろよという前に、あいつの声がさえぎった。

―ねえ、最近ね、だんだん起きてられなくなっているんだ。なんだか、自分の体と心がね、完全に分離しちゃったみたい。

『おい』

―ねえ、――、青空が見たいなぁ。

『…今日も雨だ』

―それ、四日連続だよ?

『お前の間が悪い』

―えー私のせい?

『…いや』

―んー、そういえば最近声が聞こえにくくなってるよね。昨日は異常に良かったけど。何か違うのかな?

『…雨のせいだろ』

―それも?

笑う声。それは確かに最初のときよりも混ざるノイズが増えているように思える。

『明日には晴れるらしいから、聞きやすくなるんじゃねえか?』

―本当かなー。じゃあ明日は青空見せてくれる?

『…気が向いたらな』

―えーまたそれー?


『おはよう』

―おはよう。おー聞こえるー。

『言ったろ?まあ、今日は曇りなんだけどな』

うすら寒い、低いモーター音のする場所にしゃがみ込んで、あいつの入ったパイプにもたれかかりながら話す。

『そういや、お前今跳べる?』

―無理じゃない?自分の位置が把握できてないし。今できるのはテレパスだけ。しかもあんたとだけ。

『あ、そう』

―なによー。

『なんでも。そんなんじゃあ、陸軍第二跳躍部隊の名が泣くぜ?』

―泣くぜ?って自分もそんな誇りに思ってる口じゃないくせに。

『いいんだよ、俺は』

そんな話をしながらあくびを一つ。

たぶんここがあまりに静かで寒いからだ。まるで深海か、墓場のようだ。

―……、……

あいつが何かを言っていたような気もしたが、やってくる睡魔に打ち勝てず、寝入った。


泣いている声がする。声が、泣くのをこらえようとする声がする。

だんだんそのイメージが人の形になり、しゃがみ込んで泣いているあいつの姿になった。

それをやめさせたくて声をかけるが、あいつには届かない。だって、だってあいつは今。


あいつの声が震えていることに気が付いて目が覚めた。

『…おい?』

―…えへへ。実はね、分かってたんだよ。自分が今、どうなっているか、くらいは。

『おい』

―今はテレポーターが少ない。そのメカニズムも不明。そんな時にテレポーターがまあ下っ端と言っても軍属のものが死んだり、それに近い状態になったら、調べたくなるのもね、わかっていたのよ。

『やめろ』

―ねえ、――。視界をつないで。大丈夫、分かってるから。自分の状況。…私、脳だけになってるんでしょ?

『…』

俺は無言で立ち上がり、パイプに向いて立った。

『…』

一呼吸おいて視野をつないだ。

―…。

『…』

―…んー、実感は、わかないね。

白いなーと言いながらもあいつの声は震えている。

『…』

―…うーん。やっぱり人間大事なのは中身と言っても、これだけだとねえ。

あはははと無理をした笑い声。

『…』

やめろと言いたかった。謝りたくもあった。でも何を言えばいいのかはわからなかった。

沈黙に耐えかねるようにあいつが言う。

―えーと、――。歌を歌おう。

『…なんで』

―この状態で一緒に出来ることがそれしかないから。

『…まあ、いいが。何を歌うんだ?』

―…時代劇のテーマ?

『…締まらねえなぁ』

―だってこのところそれしか聞いてないんだもん。

『…まあ、いいか』


その次の日も、その次の日も俺はあの墓場のような場所に行き、あいつと話、たまに歌った。

あいつはもうテレビを見たがらなかった。もう、この近くでないと話ができなくなったからだ。

ただあいつはたまに青空を見たがった。


青空を最後に見たのは、あいつの処分が決まった日だった。つかみかかるように上司に言い、最終的には手も出た。その結果がこの謹慎で、あいつがしきりに見たがる青空すら見せてやることができなくなった。俺は、あいつに何をしてやれるのだろう。薄暗い懲罰牢の中で考える。ノイズの混ざったあいつの声ももうここからでは聞こえなくなっていた。

目の前で吹き飛んだ小さな体。大きく見開かれた眼は俺を見ていた気がした。何度も繰り返して夢に見た過去の映像。俺はあいつを救えない。


その日、あいつは小型水槽に移されていた。あいつのいたパイプは誰か新たな住人を待つように空けられていた。

―ねえ――、私、死にたいな。

このままでいるくらいならいっそ、とつぶやく声は震えていた。

眩暈がした。もう限界だと思った。

『いいか?お前は回線をかき混ぜることだけ考えてろ。それができなきゃ、俺もお前もどっちもおじゃんだ』

小型水槽を抱きかかえ、こんなものに入ってしまっているあいつに言い捨てる。

回線をつなぎながら、跳躍までの計算を始める。

わかっている。俺にこいつは救えない。こいつはもうすぐでおれの声の届かないところに行ってしまう。だったら、俺にできるのは、こいつに青空を見せることだけだ。

現在地、目的地。どこでもいい、外に出られさえすれば、俺はこいつに青空を見せてやれる。天気も、今は、晴れているんだろう?

あいつはふるえを押し殺した声で、うん、といった。相変わらず、返事だけはいいな、と思ったかもしれない。

思考が分断される気配がする。跳躍に向けての計算が進むにつれて、抵抗が激しくなる。頭に響く警告音。無視をすれば身体に障害が残るとかわめいている。煩い。でも、あいつの泣く声に比べたら、BGMにちょうどいいくらいだと思った。

きしむ音を聞きながら、跳躍をした。


まぶしい、と思った。どこかの知らない草原で、俺たちのことをまったく知らないように、空は晴れていた。

青かった。

あいつは、何かを言っていた気がする。抱きかかえていた水槽が手から落ちそうになり、慌てたが、無理な跳躍のせいか、思考はぼんやりとして、身体はうまく動かなくて、でも少しでも長く空を見ていたかったから、仰向けに倒れた。

草に寝転んでみる空というのは笑えてくるくらい平和そうに見えた。

もうあいつとの回線がつながっているのかも分からなかったけど、あいつの意識がそばにいる感覚はした。あいつは何かを言った気がする。

おれは呼吸さえままならない口をこじ開けて、何かを言った。水の中にいるみたいに苦しかった。でも見えるのは空だけで、きっとここは空の中なんだと思った。そしていっそこのまま空の中でおぼれて死んでしまえればいいのにと思った。


深海でつぶやいた声は、君に届いたのだろうか。