縁解き
仕事帰りに浜松町で電車を下りた。
狭苦しいモノレールに揺られて、十数分。迷うべくもないほど簡単で単純な道のり。大きな鞄を抱えた家族連れに交じって羽田空港国内線ターミナルで降車する。大きく掲げられた案内板の離着陸情報を横目で見た。今日は少し風が強いけど西へ飛ぶ出発便は全て定刻通り。ここで預け入れる荷物はないので、出発ロビーには立ち止まらずターミナルビルの屋上へ向かった。
展望デッキへ出れば少し肌寒い程の風がスカートの裾を絶え間なくはためかせる。いくつもの大きな飛行機が赤と緑のナビゲーションライトを明滅させながら滑走路をゆっくりと走り回っていた。私は夜の滑走路に重ねるように、夕刻の陽光が輝いていた春の日の景色を思い起こす。あの日、まだすべてがドラマのように美しく見えていた。
***
羽田空港は、――あるいは大きな空港はどこでもそうなのかもしれないが、――潔癖なほど清潔で、整頓されて、暑苦しい様な人情の入り込むすきなど無いように思える。会員制のラウンジに至っては都会の良くデザインされたカフェのように洒脱で冷たい空間である。滑走路の見えるカウンターで前を向いてしまうと空港が慌ただしい旅の拠点だと言うことを忘れてしまう。
目に映るものは遠くに海、コンビナート、それからモノレール、コンテナ、夕陽に光る飛行機の滑らかな白い機体。
穏やかな夕暮れ時。金色の光の中の景色は少し古いドラマのように香ばしくて魅力的だ。
二十分程遅れてやってきた四十過ぎの男は隣の席に黙って腰かけ、静かにコンピューターを開いて何かの仕事を片付けている。これからの短い休暇のために気がかりを済ませようとしているのだろう。私は窓から離陸していく飛行機を眺めながら、温んだコーヒーを飲む。短い休暇のために片付けるべき私の気がかりは全て昨夜のうちに片付け終わっている。することもないので、視線を前に向けたまま右隣の気配を探った。
男はパタンとコンピューターを閉じて、それから悠々とコーヒーを飲み始める。離陸まであと三十分を切っている。私は意味もなく広げていた雑誌を閉じて書棚へ戻し、いそいそとその場を立ち去る支度をした。後は立ち上がる以外にすることが無い。しかし男は急いだ様子もない。
もしかして、この人は飛行機に乗らないのではないか。
その閃きに腹の奥が竦んだ。何気なく乗り過ごし、残念だったねと一言つぶやいて、こちらを碌に振り返りもしないで家に帰るのではないか。その一つ一つの情景がはっきりと思い浮かび、私は悲しくなる。もしも行きたくないのなら、そんな酷い方法で断らなくても、ちゃんと聞き分ける。そのくらいの分別がなくて、どうして妻子ある男と付き合えるだろうか。
私は男を待たずに席を立ち、さっさと搭乗口へ向かった。振り返らず、背中の向こうの気配も探らず、すたすたと。金曜の仕事を切り上げて二泊三日の一人旅に出る旅慣れた大人の女のように。案の定、搭乗口についたときには既に優先搭乗は終了しており、一般の乗客の列も随分短くなっていた。何食わぬ顔で最後尾に立つ。
搭乗券代わりのバーコードを読み取らせている間に、私の後ろにもう一人の客が並んだ。私よりも大柄な、たぶん男性。
それでも振り返らずに、航空会社の係員に会釈を返して飛行機へ向かう。
短い通路の足元はカーペット敷きでオフィスでは軽快に響いてくれるハイヒールは沈黙している。男の足音もなく、鞄が揺れて金具が軋む音だけが規則的に聞こえる。
キシキシキシ。それが聞き慣れたものかどうか考えないように意識していたところで、後ろから声をかけられた。
「やあ。」
たった一言。
それだけで私はその男が誰だか分かったし、腹の底にあった悲しみは消し飛んだ。人目のない通路で半身だけ振り返る。
「乗り遅れるのかと思ったわ。」
そう言葉にした口元には笑みさえ浮かんでいた。男はにやりと笑って「まさか」と返した。もう仕事は終わり、これから飛行機に乗るのだというのにネクタイ一つ緩めていない。男のそういうところが良いと思う。男はいつも身だしなみがきちんとしている。さらに言えば、お腹もそれほど出ていない。男は見た目に気を配っているまだ現役の男性だ。
飛行機のドアをくぐり、席に着く。ほんの一時間ほどのフライト。私たちの席は離れ離れになったが、お互いに一週間の疲れを癒している間に飛行機は離陸し、そしてつつがなく着陸した。
出雲へ行きたいと言いだしたのは私だ。
急に旅行へ行こうと言われて、ふわふわとした気持ちで帰りの電車に向かっていた駅の中で出雲大社の式年遷宮の広告を見た。拝殿の凛とした佇まいと静けさに、すぐに私たちの旅行に相応しいと思ったのだ。
「随分渋いところを選ぶね。君、二十代でしょ?」
男はにやりと笑って、それから読んでいた雑誌に視線を落とした。私は少しだけがっかりして、皮肉っぽい笑顔を浮かべて見せた。
「いいえ、去年三十路に入りました。お祝いもいただきました。」
男は「へえ」などと初めて知ったように頷いている。男が私の全てに注意を払っているわけではないことは承知の上だ。むしろ男が私に関して気にかけていることは僅かだ、と言った方が正しい。だからこの話はもう終わりだ。私は皮肉な顔を止めて、少し声を高めにっこり笑う。
「それよりほら、パワースポットだし、温泉にも寄れるし、いいじゃない?北海道や沖縄じゃちょっと移動に時間がかかり過ぎるし、かといって大阪や京都じゃ知り合いに会うかもしれないし。」
交通の便を考えるなら、名の通った観光地が良い。人目を避けるならほどほどに寂れたところが良い。男には合理的な理由を説明した。直感で決めたとは言わなかった。いかにも女が言いそうだと思われていることを言いたくなかったから。男は私に同意して初めての旅行の行く先は出雲に決まった。私はその後、飛行機の予約をしようとしてようやく出雲が縁結びで有名であることを知ったが、男がそのことを知ったのがいつかは良く分からない。
二十時前に出雲縁結び空港を出ると町は既に真っ暗に沈んでいた。都会慣れしていると、この時間に町が眠り始めていることに驚くけれど、町中が繁華街のように賑わっている都市はほんの一握りだ。
レンタカーを借りて、空港を後にする。宿には今夜の夕食は要らないと言ってある。宿へ向かう途中で聞いたことが無い名前のファミリーレストランに入った。金曜の夜だからなのか、本当に家族連れが多い。それも三世代というところもちらほら見える。
「誰もいないよ。」
男がおかしそうに笑った。
「何が?」
「ずいぶんと居心地悪そうにしているからさ。知り合いなんていないよ。心配いらない。」
落ち着かない気持ちを見透かされていた。きょろきょろしていたからかもしれない。私は小さく頷いた。
落ち着かない気持ちでいることまでは分かるのに、どうして落ち着かないのかまでは男には分からない。そのことに少しがっかりし、それ以上にほっとする。誰かに見咎められはしないか。もちろんそれは気になる。でも、こんな会社からも家からも離れた町の国道沿いの、へんてこな名前のファミリーレストランに知り合いがいるなんて私も本気で思ってはいない。気にかかったのはファミリーではないのに、ファミリーみたいなそぶりで、この男とファミリーレストランにいることだ。男の子供はまだ小学校にあがったばかりだったはず。ファミリーレストランは男にとって、本当のファミリーと訪れる、馴染みの場所だろう。そこに、今日は私と二人でいるという事実。その背徳感。そして、見てくれだけを真似しても私はこの人のファミリーではないのだという失望。私が目を彷徨わせたのは、そういうものだ。
でも、それを男に説明するつもりはない。彼も聞いても不愉快なだけで、他には何もないだろう。
途中で何度も「ファミレスなんて久しぶりだわ」と言いそうになって堪えた。
あなたにとっては日常なのでしょうけれども、というあてつけに聞こえてしまうように思ったからだ。もしかすると、考え過ぎだったかもしれない。
旅行に行くなら絶対に温泉旅館だと言ったのは男の方だ。私もそれは賛成だった。出張の度に泊まらされる惨めなビジネスホテルなど興ざめもいいところ。程度のいいホテルも駄目だ。それでは、東京で男と会っているときと何も変わらない。
その晩、はじめて畳に敷いた布団の上で男と一緒に寝た。
太い腕も、温かい体温も、伸びかけの髭も、いつもと変わらないのに、いつもよりどことなく湿って感じた。その正体を確かめるように、私は執拗に男の肌に触れた。私のまだ知らない男を見つけることは喜びだ。二人の関係にも意義があるように思えるから。
翌朝、寝ている男を置いて大浴場へ朝風呂を浴びに行く。温泉宿に来たらどんな二日酔いでも寝不足でも朝風呂を浴びるべきだと私は思う。
誰もいない明るく静かな脱衣所で服を脱ぐのは心許ないのに、いざ全裸になると一番乗りを誇らしく思うような、堂々とした気持ちになるのはなぜだろう。大きな鏡に裸の自分を映して眺める。まだ三十という加齢による衰えは感じない二十九の延長にきちんと繋がっている身体。どこにも昨夜の跡はなかった。男はそういうところをしくじったことがない。
晴天だった。こうなれば断然、露天風呂だ。扉を開くと爽やかな春風が吹いている。裸で浴びるには冷たすぎる風だ。体を洗った薄っぺらなタオルはあっという間に水に浸したように冷え切った。タオルが体に触れないようにまとめて握り、早足に風呂に飛び込んだ。
少し温い湯に体が弛緩する。そのままだらしなく足を投げ出し、腰の後ろに手をついて体を伸ばした。
薄青い澄んだ空。温泉から立ち上る湯気を運ぶ風。線の細い春の日差し。
今日一日、朝から晩まで二人で過ごせる。誰の目をはばかることなく。帰りの時間に急かされることなく。私は一人でにんまりとして手に掬ったお湯を宙に放った。きらきらと滴が光った。
こんなことは初めてだ。東京にいるときには、外では絶えず人目に気を遣ったし、一日一緒に過ごすことはなかった。それは私が彼を家に呼ばなかったせいもある。彼が私を家に招くことが絶対にない以上、私も彼を招かない。それが私なりの矜持だ。不倫の二人の関係を対等に保とうとする努力は滑稽だが、重要なことだ。私は自分に男が必要であるのと同じだけ、自分が男に依存していないという証拠も必要としている。煩わしい女になりたくなかった。男の目にも、自分の目にも。
煩わしい女はいけない。いつでも自分の上に注目を集めようとし、必要以上に怒ったり、悲しんだり、笑いさえも楽しんでいる自分を演出する道具に過ぎない。大げさな感情表現の影で、そっと相手を窺い見て、慌てたり、同情したりしていることに満足する。私はそういう女を良く知っている。愛する人に自分を見てほしくて、たまらなくて、そういうお前が煩わしいと打ち捨てられた愚かで哀れな若い女だ。愛する人に去られて以来、心が砕けたようになって、しばらくは見られたものじゃなかった。もう二度とあんな風にはなりたくない。今日だって男を独り占めできることを心底喜んでいるなどと、男に思われてはいけない。男を独り占めすることを楽しんでいるように見せなければ。煩わしい女にならないために、私の心から男をなるべく遠ざけておく方が良い。
部屋に戻ると、男はまだ寝ていた。布団に対して四十五度傾いてまっすぐになった変な寝相で寝ている。布団で寝かせるとこうなるのか、とまた新しい発見をした。
出雲大社の大きな鳥居は赤くない。でんと構えた銅鳥居は静かで端正だった。
「金属の鳥居っておかしな感じがするね。」
おかしな感じの正体を求めて首を傾げると、男は軽く頷いた。
「神道の神々は自然に寄り添っていると思っているのに、この金属が工業的な香りをさせるからおかしいのかな。」
「ああ、そう。工業的な香り。そういう感じ。」
男との会話はときどきこうなる。私が探しているものを、男が簡単につかみ出して見せる。迷っていると、間違えのない正解を取り出して見せる。私はこの人は先の見通せない靄の中でもすいすいと歩いていけるのではないかと思う。私が手を伸ばせば、間違えずに掴んでくれる気がする。
白い砂利道を、拝殿までゆっくりと進む。若い葉の茂った木々。木立は深すぎず、光を多く参道へ導きいれる。清々しい空気は神社に相応しく、私はいっそう背筋を伸ばした。一歩一歩。神様の住まうところを目指す。毎年、日本中の神様を集めて縁結びをしてくれる大事な神様だ。
手前に立っている立派なお社が、しかし御仮殿。遷宮の間、神様に仮住まいしていただく場所だという。そのさらに奥に、御本殿がある。通常、まずは御本殿に参るものだと思うが、今日は御仮殿に神様がいらっしゃる。さて、こういう場合はどちらに先にお参りすれば良いのか。
「手前にあるし、御仮殿の方でいいんじゃないか?大事なのは建物じゃなくて、神様の方だろう。」
男の差し出した答えに、私は迷わず頷く。そう。私もちょうどそう思っていた。そんな気がした。
行列に加わって順番を待つ。明るい日差しの下で、大勢の人の中で、堂々と並んでいられることの幸福を噛みしめて待つ。
順番がやってきて、二人並んで手を合わせる。二礼四拍手。
目を閉じて神様に名乗った後、何を伝えようかと考えた。
男に出会ったことを感謝しようか。いや、神様が男の縁を繋いでやった相手は私ではない。むしろ私は神様の定めた縁に傷をつける邪魔者だ。感謝の言葉は不適当だ。でも、この縁も同じ神様が結わえた縁ではないのか。恋に落ちよと男と私の縁を結んで、そこから先はどうしたの?
そこで私は考えることを放棄した。これ以上考えたら、私は間違いなく罰当たりに神様を詰る。頭を真っ白にしたままじっと頭を垂れた。
隣で静かに手を合わせる男は何を考えているのだろうか。
それから境内に並ぶいくつものお社に手を合わせて回った。頭を真っ白にしたまま、何度も頭を下げ、手を打って、目を閉じる。何度繰り返しても、感謝もお願いも心から湧き出てはこなかった。神に祈りたいような私の望み、それは一体何なのか。いつものように男に教えてほしいと思ったが、この質問が煩わしいことこの上ないものであるのは間違いない。私は何も言わず、共犯者めいた笑顔を心がけてお社に背を向けた。
門前町、一畑電車、日御碕。
私達はお定まりの観光コースを当たり前の夫婦のようにして廻った。若い恋人のようにべったり寄り添うのではなく、適当な距離を保って歩く。お互いのことよりも、目に映るものの話ばかりをして。夢のように幸福なはずなのに、私の心は妙に静かだった。心の中にずっと、あの立派な拝殿を目の前にして現れた空白が残っている。二人の過去と未来に関する私の感情が、すっぽりと抜け落ちたその場所。それは空白のくせに冷たい温度と僅かな重量感を持って胸の内側に存在していた。
「元気がないな。」
日御碕の灯台の下。青い海を並んで眺めていた男が振り返る。
「疲れたのか?」
問いかけながら、そうではないと知っている。そんな顔だ。
「ううん、大丈夫。すごく、綺麗ね。」
紺碧の海にそびえる白い灯台。青空。白い雲。苔の生えた岸壁の合間に黄色い花がちらほらと咲いている。強い風。どっしりとした男の姿。間違いなく美しい景色だ。
目を細めて水平線を見るふりをして、男から目を逸らした。
これ以上、見つめ合ったら男は靄の中から私の手を掴みだしてしまう。引きずり出される女を、私は見たくなかった。それが男に出会った過去を悔い、未来のない関係を悲観する煩わしい女であったら、私は無力感でもう一度粉々に壊れてしまいそうだ。
男は靄の中に手を突っ込む代わりに、実体を持った大きな手で実体を持った私の手を握った。相変わらず力に満ちた熱い手のひら。
活力というのは手で触れられるものだと教えてくれたのも、この男だった。男はいつも力強い。今、海の上を滑って行く船のように風にも波にも負けずに、志した方へ進む力がある。その力を分け与えるように手を繋いだまま駐車場まで戻った。行きがけに、帰りに食べたいなと言っていた干物は結局買わなかった。
夕刻、雲行きが怪しくなってきたので早いうちに宿へ戻った。お茶を淹れて一服する。
「俺は、君と付き合うことは正しいことだと思っている。」
唐突に男がそう言った。夕食の時間から逆算して、いつ大浴場へ行こうかと計算していた私は時計から顔をあげて男をみやった。男は至極真面目な顔をしていた。
この言葉を、以前にも聞いたことがある。二年前。私ももう少し若く、まるで勢いのままに男と関係を持ってしまった後のことだ。無かったことにすべきだ。直前までそう思っていたのに、男に断言された瞬間に、自分もそう思っているような気がした。付き合おうと言われて、何の疑問も持たずに頷いていた。
男は、私が元気をなくしている理由に薄々勘付いている。そしてあの日と同じように私の心の中に熱い手を突っ込んで、もう一度、自分と同じ方向を向かせようとしている。
しかし、今日の私は全くその通りだとすぐに信じることができなかった。胸の中の空白から疑念が滲み出る。二年間、一度も問いかけなかった疑問がするりと口をついて出た。
「どうして?」
どうして正しいのだろう。愛し合っているから正しいのか。彼の家族を悲しませない程度に上手くやるから正しいのか。そもそも一夫一婦制の方が間違っているのか。男は黙って私を見返した。静かな瞳で私を見つめる。無言のうちに諭すように男から流れてくる空気が変わる。しかし、男は鮮やかな答えを披露してくれることはなかった。
私は微笑んでから男に背を向けた。
「お風呂に行ってくるね。夕食前に部屋に戻るけど、あなたもお風呂に行くんだったら部屋の鍵はフロントに預けておいてね。」
私はそそくさとタオルを抱えて襖を閉めた。失望は胸の中の空白に放り込んだ。
夕食の席では、難しい話はしなかった。
夜半、男は昨夜の私がしたように執拗に私の肌を探った。いつもと何が違うのか探し出すように。手のひらで、あるいは鼻を添わせて。それでも彼の熱い手のひらは最後まで私の空白に触れることはなかった。
日曜は早朝に目を覚ました。足音を忍ばせて部屋を滑りだし、朝湯を浴びに向かった。あまりに早い時間で宿に一つきりの貸切風呂も空いていた。
貸切風呂には薄暗い洗い場と、小さな露天風呂がついていた。露天風呂の縁では若い椿の紅色の花が雨に打たれている。いくらかの花が昨夜来散ってしまったようであった。
私は風呂に浸かり、だるい手足を伸ばした。目には降りしきる雨と椿だけが映る。雨に打たれ、艶やかに輝く深い色の硬い葉。まだ色も柔らかで食めば甘そうな若葉。雨に昂然と顔を上げる若い蕾。その隣に咲く完璧な造形の赤い花。でも、私の心を一番捕えたのは端が茶色く変色し、くったりと身を投げ出したような赤い花弁だった。疲れ果て、雨に打たれ、崩れ落ちるときを待っている。惨めに傷つき、萎れ、それでもなお鮮やかな、恋の終わりの予感。
椿を眺めながら私は悟った。この旅は、恋を終わらせるための旅だった。出雲の神様が私を呼んで、間違って結ばれてしまった二人の縁を解いた。あの御仮殿の前で手を合わせた時に、神様の手は私たちの間に伸びてきて、するりと二人を解いていったに違いない。解かれた瞬間に幻想ははじけて消えた。遊戯のような甘い秘密の恋は、互いに本心を見せない孤独な恋になった。煩わしくない大人の女は、出会いに感謝せず、未来に期待しないつまらない女になった。幻想の消えた後で振り返れば、もはや恋は恋の形をしていない。煩わしいと男に厭われることなく恋ができることを証明したくて私は男の隣に居続けた。もう同じ失敗を繰り返さないと過去の自分に胸を張るために大人の女を演じていた。これは恋ではない。出演私、観客私の究極の一人芝居だ。
私は風呂を上がり、鏡に映る自分の体を眺めた。
温まり、紅潮している白い肌。あれほど執拗に触れていたのに、男の痕跡はどこにもない。私の体の中でさえ昨夜のことを覚えているのは脳と、膣くらいのものだろう。それだっていつか忘れてしまう。細胞たちは薄情に、着実に生まれ変わっている。
部屋に戻れば男は起きてテレビを見ていた。天気予報だ。この雨は、私達を宿に閉じ込めて考え直せと帰りを阻むために降っているのか。それとも私達の関係を神様が諌めたものなのか。耳を澄ませば、若く可愛らしい気象予報士は気圧の関係だと言っていた。
「つまらない理由ね。」
「涙雨だと言われるよりは、こっちの方がいいけどな。」
「私は泣かないわ。」
「知ってるよ。」
男はにやりと笑った。気の利いたやりとり。上手くやれた。昨日だったらこれで私が笑い返しておしまいになるところだ。
「何を知っているの?」
笑顔のまま、問い返したら男は黙って私を見上げた。その目の奥に恐れがある。物わかりの良い女が、駄々を捏ねだしたと辟易している。煩わしい女への嫌悪。私がもっとも恐れていたもの。割り切った関係のはずだろうという男の無言の抗議。
ねえ、あなた。私の何を知っているの?
心でもう一度問いかけながら、私は笑いが堪え切れなくなってふふふと笑った。
「変な顔ね。」
これも、この旅行で発見した男の新しいところだ。力強くて明晰だけれど、同時に我儘で横暴。予想外の出来事にはひどく臆病であるようだった。
帰りの飛行機を待つ間、男はまたどこかへ行こうと言った。
「どこか?」
「ああ。こうやって遠くまでくればゆっくり一緒にいられる。たまには外に出るのも楽しいだろう。幸い、会社がこきつかってくれるおかげでマイレージは大量に余っているし。君も、どうせ使いきれていないだろう。」
男は悪い気配を確かに感じたはずだ。それでもご機嫌取りのようにこう言うのだから少しは惜しいと思ってくれているのだろう。私を惜しんでいるのか、都合のよい女を惜しんでいるのかは分からないけれど。
私は静かに頷いた。最大限の敬意を払って。
「そうね。確かに。」
週末は男に会えるかもしれないと思えば旅行などいけるはずもなかったから、出張に出る度にマイルは貯まる一方だ。
「じゃあ、週末にかけて出張が入ったら知らせるから次に行きたいところを考えておいて。」
男は甘く微笑む。私は少しだけ首を俯かせた。視線の先、男が手にする白いビニールの中には家族へ持ち帰るお土産が入っている。縁結びクッキーという文字が透けて見えた。
***
暗闇の中、轟音を立ててまた一つ飛行機が飛び立った。こんなにたくさん飛行機が飛んでいては、どれがどれだか分からない。男は一人で飛行機に乗ったのだろうか。それとも私が誘いを断った時点で、旅は諦めて家に帰っているのだろうか。別の若い女を見つけてくるには出立前日というのは忙しすぎただろう。そのくらいの意地悪は笑って許してほしいものだ。
あの旅行を最後に私は一人芝居の舞台を降りることに決めた。たった一日であのお芝居は本当にすっかり色褪せてしまった。人の感情を煩わしいと退ける卑怯な男も、それを恐れて決して踏み込んでこない都合のいい男も、古臭い舞台の片隅へ置いて行く。今度は、私は私のためにありのままの自分を演じようと思う。物わかりが悪くて、寂しがりの面倒な女を許してくれる人に出会うまで、恋はしない。恋が私を偽らせるなら、恋などいらない。
私は、滑走路に背を向けてデッキを下りた。旅慣れた大人の女のようにすたすたとターミナルビルを横切り、モノレールに乗り込んだ。一駅、国際線ターミナルまで。今週末はシンガポールへ海南鶏飯を食べに行く。
海南鶏飯は作者の好きな食べ物の一つです。シンガポールチキンライスとも言います。あと、出雲空港は本当に出雲縁結び空港という名前です。