転生者の私に挑んでくる無謀で有望な少女の話

作者: 小東のら

『十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人』


 そう言った諺がある。

 幼い頃に人より能力が優れていても、それに慢心していては大人になった時その能力が通用しなくなるという戒めが込められた諺である。

 あるいは小さい時に賞を取ったとしても、大人になり広い世の中を知れば自分の能力が足りないことを知る、という意味合いでも使われるだろうか。


 とにかく、まぁ、幼い頃に褒められ認められてもそれに満足せず努力を続け、ただひたすらに己の向上を図っていかなければならないという教えが込められているということだ。


 …………ただ、

 私にとってはこの諺は少し違う意味合いを持っていた。




* * * * *


「ジークッ!さぁっ!テストの結果で今日も勝負よっ!」

「アーニャ……またか…………」


 授業が終わるか否か、目をぎらつかせながら1人の少女が私の目の前に駆け寄ってきた。

 薄い青色の髪を短く纏め、カチューシャを掛けたアーニャという名の小さな少女である。

 年齢は私と同じ8歳。魔法小学校2年生の幼い子供である。


 ……いや、私と同い年なのだが…………


「またもくそもないわ!あんたとの勝負にあたしはまだ一度も勝ててないのよっ!」

「君……普段はクールな癖に私との勝負ごとになると猛烈に熱くなるよな…………」

「当たり前でしょっ!ほらっ!テスト結果さっさと出しなさいっ!」


 アーニャは片手に自分のテスト結果を持ちながら、急かすように私の肩を揺さぶった。やれやれと思いながら、カバンの中に仕舞い込んだテスト結果をもう一度取り出す。


「いくわよ……せーので見せ合うからね……覚悟はいいわね……」


 アーニャの頬が紅潮している。口角が上がるのが抑えきれていない。


「……アーニャ、君、今回の魔力基礎計算のテスト、自信あるのか?」

「ふん!それはテストの点数で判断しなさいっ!仰天させてやるんだからっ!」


 そして、彼女ははやる気持ちを抑えられないようで、早口で「せーの」と言った。

 慌てて私も手に抱えていたテスト結果を机の上にさらす。


「…………」

「…………」


 ほぅ、凄い。アーニャの点数は97点だ。今回のテストは応用問題が多く、ここまでの点数が取れる生徒などほぼ0だろう。

 実際彼女は成績優秀、運動神経抜群、保有魔力もピカ一である。

 優等生中の優等生。それが彼女であった。


 その彼女の顔が青ざめていく。

 口をあんぐり開けて、驚きが表情にこびり付いている。


「…………100点?!ジークッ、あんた……100点?!あれだけ難しかったテストが100点…………?!」

「あ……あぁ……今回のテストも上手くいったよ…………」


 しかしそれでも私は彼女に負けたことはない。

 それは単純に私の方が成績が良いからであった。


「~~~~~~~~~~~ッ!」


 アーニャが涙目になる。

 口をぎゅっと締め、歯を食いしばり涙が零れ落ちるのを必死で耐えていた。

 今回のテストではかなりの自信があったのだろう。かなり勉強をしてきたのだろうし、テストは難しく、97点を取るのもとても大変だったのは想像に難くない。

 断言してもいい。97点という点数は私を除けば彼女は学年で1番だろう。


 それでも私には及ばなかった。


「―――ッ!」

「あっ!ちょっとっ!アーニャッ…………!」


 そうしてアーニャは走り去っていった。

 口惜しさからか、涙を見せないためか、とにかく風のように私の前から走り去っていった。


「今回は……本当に自信があったんだな…………」


 彼女のテンションはいつもより高かったし、いつも負けても泣くほどまではいかなかった。今日のテストではかなりの努力をし、かなりの自信があったのだろう。


 ……申し訳ない気持ちになる。

 彼女は精一杯頑張っている。

 でも私はズルをしている。ズルをして100点を叩き出している。

 本来ならば私は勝負の土俵に上がってはいけない人間であり、アーニャのように一生懸命努力している人とは付き合ってはいけない人間なのだ。


 でもその事情は誰にも言うことは出来ない。

 言えば正気を疑われるし、言っても信じてもらえるとは思えない。


 実は私は……


 ―――転生者なのだ。

 前世の記憶を持っているのだ。




* * * * *


 その日は記録に残るような大雪が降り注ぐ特別な冬の日の事であった。

 寒い……日の事であったと思うが、そこらへんはあまりよく覚えていない。覚えていないというより、感じていなかった。


 前世での死因は病死であった。

 大きな雪の粒が大量に降る光景を窓から眺めていた。ベットの上でなんとか首を上げ、真っ白な病室から見える真っ白な光景に羨望を抱いた。


 私はその時28歳であり、どこにでもあるような魔法道具製作会社に勤め、どこにでもいるような人と同じように働いていた。

 どこにでもあるような仕事ではあったが、苦労は絶えなかった。どうやら私は凡人と言われるような性質の人間であるようで、他の人と同じ仕事をしても人一倍努力しなければ他の人と同じ成果を出すことは出来なかった。


 だが、それは他の人も同じだっただろう。人一倍努力しなければ社会が要求する仕事量には達せられない。それが社会というものだった。

 特に秀でていなく、特に劣ってもいない。そういう意味で私はまさしく凡人であった。


 人一倍頑張らなければならない仕事にかまけて、恋人とも別れたこともある。まぁ、よくあることではあるのだろう。


 そんなよくあることだらけの人生で私は病気にかかった。皮肉なことにそれが唯一、人とは違う私の特別であった。


 体は動かなくなり、なんとか首だけを回して窓から外を見る。そこから見えるのは雪が世界を覆いつくしている光景であり、類を見ない特別な大雪であるとぼんやりと霞む意識の中、誰かから聞いた。


 羨望を抱いた。

 大雪が羨ましかった。

 その大雪は確かに特別であり、たくさんの人の記憶や記録に残るのだろう。


 私も特別になりたかった。

 特別な人間になりたかった。


 気候という、人にはどうしようもない神の如き自然に勝手に羨望を抱きつつ、私はゆっくりと目を閉じた。

 そして意識は途絶え、私の人生は幕を閉じた。




 ―――しかし、転生は起こった。

 何故かなど、知る由もない。

 ただ、私は前世の記憶を引き継いだ。




* * * * *


「しかし、特別な人生を歩むことになったとはいえ……なんだか罪悪感が拭えないな」

「なにぼそぼそと小さな声で独り言言ってんのよ、ジーク。ほら、今日も勝負するわよ」


 教室の隅の席、あの大雪の日とは対照的な、太陽の陽がさんさんと降り注ぐ暑苦しい校庭の様子を窓から覗きながら独り言を呟いていたのだが、気が付いたら傍にアーニャがいた。

 しまった、誰にも聞かせないぼやきのつもりだったのだが、彼女はいつも私の傍によって来るものだから私の声が聞こえてしまっていたようだ。


「……何言っているか聞こえていたかい?」

「全然?聞かれたくなかったのなら口に出さない方がいいわね」

「……全くもってその通りだな。沈黙は金ってやつか…………」


 今、私たちは11歳である。魔法小学校の最高学年だ。

性懲りもなく私たちの勝負は続いている。彼女が一方的に攻めよってくる訳ではあるが。

 ペーパーテスト、魔法の実技試験、なんかしらの特別課外授業。何かにつけて彼女は私に勝負を持ち掛け、そしてその全てに私は勝利している。


 当然と言えば当然だ。小学校のテストなど、大人を一度経ればほぼ全て100点が取れるような代物だ。私が負けるようなことは一切ない。

 ただ、前世であれだけ特別に憧れていた私でも、彼女の勝負に勝ち続け、その度に悔しそうな表情をさせてしまうのは流石に罪悪感を覚えてしまう。


 結局、私のこの成果は『転生』という特別な経験を経たからであって、自身の能力によるものでも努力の結果でもない。自身の能力を信じ一生懸命頑張っている彼女を打ち破るのに罪悪感を覚えてしまうのは当然の事なのか、それとも私は結局精神的にも凡人であるということなのか。


「もうっ!もうっ!なんでまた100点なのよっ!そんなの勝ちようがないじゃないっ!ずるいわっ!ずるいわよっ!ジークッ!」


 アーニャはまた泣きべそをかく。

 しっかりと明言しておくが、彼女は正真正銘の天才で努力もぬかりなく行っている。私のような凡人とは本来比べるべくもない人材であることは確かだ。

 このままいけば、彼女は良い高校を出て、良い大学を出て、立派な会社に勤めることとなるだろう。今からでもそれが分かる程の立派な能力を持っている。


 ただ、『二十過ぎれば只の人』とあるように、彼女が今後努力を惜しまなければ、の話ではあるのだが。


 拗ねた彼女を慰めるために、予め買っておいたお菓子を与えて機嫌を取る。

 これは勝ってしまった私への罰ゲームのようなもので、このお菓子を買うために子供の少ない小遣いの大半は消費される。

 彼女の好みや季節もの限定などと言った特別感を考慮してお菓子を選ばなければならず、複雑な女心を慰めるためのお菓子を選ぶことに私は非常に苦心している。下手なお菓子を選べば、その日は一日むすっとした彼女の横顔を眺めて過ごすこととなる。


 普段の彼女はとてもクールであるのに、私と関わるとかっと熱くなり、負ければいつも悔しそうにして、それでもずっと私に突っかかってきて、そしてお菓子の種類で機嫌が左右する。

 彼女(女性)の心の機微を把握することはどんなテストよりも難しい。




* * * * *


「くっ……今回はしっかりと100点をとってきたわね…………」


 いつものようにテスト用紙を抱え、悔しそうに頬を赤らめ歯ぎしりするアーニャの姿があった。

 彼女はここ数年で少し変わった。

 首に掛かる掛からないかといったぐらいのショートの髪が、肩にかかるくらいの長さの髪になった。

 少し女性らしさが増した。


 更に衣装が変わった。それまでの自由な服装が学校指定のブレザー姿となった。

 ―――つまり私たちは中学生になったということだ。


 アーニャと私は当然のように同じ中学に進学した。

 その地域で1番と2番の成績を取り、その地域で1番の進学私立校に入ったのだから当然と言えば当然の結果である。

 むしろ28歳まで生きて平凡な給料を貰ってきた私としては、私立進学校に入れて貰えたことに対し親に申し訳ない気持ちが多分にある。この学校の毎年の授業料と前世の私の平凡な手取りの年収を考えると少し目がくらくらする。


 私が普通の公立中学校でいいと言うと、『子供はそんなこと気にしなくていい』と親は言い、アーニャも『じゃあ私も公立中学校にするわ』とさも当然のように言ってくるものだから、私には選択の余地がなかった。

 親には申し訳ないが、アーニャほどの天才を私のために地元の公立中学校で腐らせるわけにはいかなかった。


 バイトでもするかと思い立ち、でも中学生で雇ってくれるバイトなんてどこがあるだろうか、などと考えていたら、中学校初めてのテストで97点を取ってしまった。

 28歳までの経験をもってしても流石にほとんど勉強無しに100点は取れなかった。中学校は小学校とは違うのだと考えさせられた。


『ふふふっ!遂に100点の牙城が崩れたわねっ!あたしがあんたから勝利を掴む日もそう遠くないわねっ!』


 と、高らかに語っていたアーニャの目は涙目だった。

 彼女は89点だったのだ。彼女からすると屈辱であろう。進学校ゆえ、テストも難しかったし十分な成績であるとは思うのだが、私も彼女も中学を甘く見ていたということだ。それでも彼女は学年で2番の成績を誇っているわけだが。


 それから私は何とかアルバイト先を見つけ、勉強もしっかりと行うようになった。


「くっ……今回はしっかりと100点をとってきたわね…………」


 そして先に語った彼女の台詞へと通じてくるのだ。

 しっかりと勉強すればまだ前世の28年分の経験は十分に活かせるようだ。


「ジーク、あんた一体どんな勉強をしているのよ。あんたアルバイトもして、家にお金入れて、それでもまた100点だなんて……なんかズルしてるんじゃないわよね………?」

「…………」


 …………ズルはしている。『転生』という最大のズルはしているが、そんなこと言える筈もない。

 アーニャに頬っぺたを抓られる。でもその指に込められた力が弱い。

 彼女は今回のテスト、93点だった。もちろん学年で2番目の成績であるが、必死に勉強して4点しか上がらなかったことに彼女は少し落ち込んでいた。


 私から見れば十分であるし、ここは進学校。前世で通っていた普通の中学校のテストよりずっと難しいように感じている。その中での93点なのだから、もっと自分を誇っていいと思うのだが、私が100点を出してしまったためだろう。

 アーニャは少し弱気になっていた。


 私は新作が発売されたお菓子を取り出しながら言った。


「……勉強のコツとしては、まずどこがその単元の根幹であるかを掴むことだ。その単元の基本は全てそこにあり、他の全ての勉強内容はその根幹から派生…………」

「あぁっ!待ったっ!待ったっ!やっぱダメっ!ダメだわっ!何も言わないでっ!」


 アーニャは身を捩らせながら慌てて私から離れた。


「敵から塩を送られるわけにはいかないわっ!」


 そう言って一目散に教室を飛び出し、家へと帰宅していった。

 私は呆気にとられながらぼうっとして、そしてそのままバイト先へと向かった。




* * * * *


「…………やっぱり勉強方法、教えて……」


 アーニャは私の机の前にやってきてそう小さな声で呟いた。顔を真っ赤にしながら恥辱に耐え、私と目を合わさないように顔を少し背けて私に勉強を教えてほしいと頼んでいた。


 それは大きな期末テストの事であった。

 私は何とか前世28年間の体面を全教科満点という形で保つことに成功した。自分で言うのもなんだが結構勉強をした。

 アーニャも勿論学年で2番の成績を誇り、8教科750点という数値を叩き出していた。


 立派な数字ではあるが、アーニャにとっては不満な得点であったらしい。

 私との差が50点ということは彼女にとって許しがたいことであるようだったし、後で聞くと私との勝負関係なしに、彼女自身このテストは失敗したと感じていたらしい。とても難しいテストだったから仕方ない点数ではあるが、それでも彼女は初めて私とは関係のない悔しい思いをしたのだという。

 

 彼女は自身のプライドを自分で曲げ、私に勉強を教わりに来たのだ。


 彼女との付き合いから7年目で初めての事だった。

 体が小刻みに震え、顔は真っ赤になり、端から見ているだけなのに彼女の高い体温の熱や早まっている心臓の鼓動を感じるかのようであった。


「……分かった。勉強を教えるよ」


 簡潔にそう答えた。

 私の席の対面に席を用意し、固まった彼女のをすぐに座らせる。

 間を置いては可哀想であるので、すぐに勉強の話を始めた。そっちの方が彼女の性格的に気が紛れると思ったからだ。

 もちろん机の横に買ってきたお菓子を用意して。


「前も言いかけたけど、勉強で大切なことはその単元のどこが根幹であるかを掴むことだ。その単元の基本は全てそこにあり、他の全ての勉強内容はその根幹から派生するものなんだ」

「…………派生?」

「そう。教科書に載っていることを端から端まで全て暗記するなんて大変なことはしないで、まずはその内容の根幹を抑える。そこから枝葉を伸ばしていくように勉強を進めていくんだ。

 例えば歴史で言ったら……そうだな……今回のテスト内容で一番大事な事件は『レスボキスの戦い』だ。これより後の歴史は全てこの戦いの影響が残っている。そして、この戦いよりも前の歴史もまた『レスボキスの戦い』が起こる原因、要因であったことが多い。この時代の多くは『レスボキスの戦い』を中心に回っていて、それはこの国の歴史だけでなく、他の国の歴史にも影響を与えている。

 時代の縦の影響を考え、横の結びつきを考え、事象を結びつけながら勉強すると頭の中で考えが纏まり易く、ただ文章を読むだけよりも理解が深まる…………」

「結びつき…………?」

「そう、結びつき」


 あれだけ震えていたアーニャも凄いもので、たった少しの講釈だけでもう頭は勉強モードのようだ。凛々しい顔つきで集中して私の話を聞いている。


「他の教科でも同じことが言える。

 数学だって、まず大事なのはこの公式だ。この単元での基本的な考え方は全てこの公式を元にしており、他の公式や応用問題は全てこの基本的な公式を元に成り立っている。応用問題で困ったときはまず基本に立ち返り、ゴールを見定めてみることだ。

 基本の中にゴールはあり、そこに辿り着くためにはどのような経過がいるか、どのような数値がいるかを考えていくことだ」

「……基本?」

「そう、基本。今回のテスト、どこを間違えたんだ?見せてくれないか?」


 そうして私たちは教室の隅でじっと勉強をして、日が暮れ行く中、先生に注意されるまでその場から離れようとしなかった。

 気が付いたら太陽が地平線の向こうに下りようとしており、教室は太陽の最後の光で赤く赤く染まっていた。


「ジーク……あんた、教え方上手いわね…………」


 彼女の薄く青い髪が暖かな色に染まっていた。




* * * * *


「ねぇっ!ジーク君が勉強教えてくれるって本当っ!?」


 ある日、クラスの女子から勢いよくそう尋ねられた。

 数名の女子が私の机の傍に駆け寄ってきて、顔を近づけながらそんな質問をされたのだ。


「え?ま、まぁ……尋ねられれば断る理由なんかないけれど……その話、どこから……?」

「ほら、最近何度も放課後に学年1位のジーク君がアーニャに勉強教えているって話が広まっていて…………私たちにも教えてくれるのかなって噂になってるんだ!」

「そ……そんな噂が…………?」


 クラスの女子に囲まれ、戸惑いながら横目でアーニャの事を見るが……あぁ、アーニャはお澄ましモードのようだ。我関せずと言わんばかりにてきぱきと次の授業の準備を進めている。

 私との勝負事が絡まないと基本彼女はクールなのである。


「おいおいおい!このモテ野郎!女子には勉強教えて俺たちには教えねえってのか!?」

「お前だけ女子に囲ませてやるものか!俺たちにも勉強教えやがれっ!」

「うおっぷっ!」


 バカ野郎の男友達が俺の首に腕を回しながら妬み半分、女子目当て半分、あとほんの少しの学習意欲から俺に勉強を請うてきた。

 ちょ……ちょっと締まっている…………

 タップするが私の口から言質が取れるまでは離してくれそうにないようだ。


「わ……分かった…………ほ、放課後に…………」

「わーい!ジーク君と一緒におべんきょーっ!」

「よっしゃあ!次のテスト、小遣いアップがかかってんだ!頼むぜ!ジーク!」


 首絞めが解かれ周りが騒がしくなる中、私は疲れたように笑うことしか出来なかった。

 一体どうしてこうなったのか。


 でも不思議と全く悪い気分はしなかった。


 放課後になる。

 予想よりもずっと多い生徒の数に私は眉を引き()らせ、困った困ったと言いながらみんなの勉強を見て回った。


 アーニャにも言った私の勉強に対する考えを述べ、私が行っている勉強方法を伝え、そしてみんなの机を回り実際の勉強を見ていった。

 ちなみにアーニャはこの勉強会には参加していない。確かに彼女は皆とわいわいと言った雰囲気が好きではなかった。


「ジーク、ここの問題がよぉ……答え見れば計算内容もその過程も分かるんだけどよぉ、なんでこんな計算するべきなのかが分からねえんだ。これじゃあ、同じ問題がテストで出ても暗記ものにしかなんねぇ。

 なんつーか……説明が難しーな…………俺の言っていること……分かるかぁ……?」

「あぁ、分かるぞ、マルコ。

 答えを見るだけじゃ、その問題の考え方の根本が分からない場合も多い。そこで大切になってくるのが…………」

「さっき言ってた基本、って訳か。で?どこがこの問題の基本なんだ?」

「これはだなぁ……教科書の…………ここだな。結局、この問題はモーメントの応用に過ぎないんだ」

「へぇ…………」


 こうして皆の勉強を見て回って思うのが、やはりここは進学校というだけあって皆頭がいいということだ。

 私の教えを簡単に吸収し、すぐに理解し活用する。そして、質問の内容も少し私もドキリとする内容だったりする。と、いうのも、前世の中学生の頃では到底考えなかったであろう思考を目の前のこの子たちはしているということだった。

 私が高校生、大学生でやっと気付いた物事の考え方について、この子たちはもう既に悩み始めている。


 私は凡人と天才の差を垣間見ていた。

 そしてそれはアーニャに勉強を教えている時も感じているものであった。


 この時からだったのだろうか。

 私は私のこの人生がどのような道筋を辿るのか、その先がちらつき始めていた。


「それにしても本当にジーク君は勉強を教えるのが上手だね!」


 クラスの女子がそう言った。

 私は照れて笑うしかなかった。


 これも私の『転生』という経験が元になっていると思う。

 それはただ人よりも勉強が出来るからという訳ではなく、一度大学受験までを行い必死に勉強した後、二度目の小学、中学の授業を受けているからだと思う。


 大学受験は一般の人が皆そうであるように、私も必死に勉強をした。

 そうすることで勉強に対し見えてくるものはまるで違ってくる。勉強の効率化、勉強の意味、勉強の仕方、勉強のコツ……そういったものを煮詰めて煮詰めて煮詰めて煮詰めて、浪人してまで煮詰めて考え、勉強した後に、私はまた小学校の授業を受け直している。


 そのような経験をした後の2度目の授業は、1度目の人生の授業とは見え方がまるで違った。

 1度目の人生では理解できなかった先生の授業の意図が見えるようになり、何が要点であったのかが見えるようになった。

 あるいは1度目の先生の授業より、今回の先生の授業の方が教え方が上手いなと思ったり、その逆を感じたりもしている。


 1度繰り返した私から見て、教え方上手いなと感じる時と、もっとあの部分を重視して教えるべきではなかったのだろうかと、生意気にも先生の授業に対しての評価が生まれてしまっているのである。


 …………いや、こんなこと生意気すぎて誰にも言えないけれど。

 中学生の時期にこんなことを誰かにぺらぺらと喋ったらそれだけで黒歴史になりかねない。誰の目から見ても鼻が天狗になっている中坊である。


 だからこのことは胸にひっそりと閉まっておくが、私は授業というものに対し一家言を持つようになってしまったのである。


「はいはい!ジーク先生!私ここが分かりません!」

「はいはい、ちょっと待っててね、リナ君…………」


 嬉しかったんだと思う。

 友達の役に立っているということが嬉しかったんだと思う。

 それは私の『特別』が役に立っている喜びだったように感じていた。




 すっかり日は暮れ、勉強会は終わり、日の沈んだ夜の暗い道を1人歩いている時の事であった。

 今日の勉強会に私は確かな満足感を覚え、友達の役に立てたことへの充足感が胸を満たし、軽い足取りで家への帰路を歩いている時にその人物はいた。


 仁王立ちで私の帰宅路の真ん中に立っている人物がいた。

 口をへの字に曲げ、大きく足を開き、固く腕を組んで仁王立ちをしていた。

 その大きな目で私のことを睨み続けているので、私が標的であることは間違いがなかった。


 うわぁ、と思った。

 どう見ても不機嫌だった。


 アーニャが私の帰路をとうせんぼしていた。


「…………ふん!」

「あの……アーニャ……?アーニャさん……?どうしてそんなに不機嫌なのでしょうか?」


 つい丁寧語になる。


「別に不機嫌じゃないわっ!別にジークは何も悪いことしてないものねっ!」

「うわぁ…………」


 これ……どうしよう…………

 どうしたらいいのか分からないし、どういう不機嫌さなのかもよく分からない。

 ……いや、皆と仲良く勉強会をしたことが原因なのは分かるが、それが彼女の中でどう整理されているのかが分からない。


 …………お菓子与えたら機嫌治らないかな?


「……アーニャ……お菓子……食べるかい…………?」

「ふん!」


 素早い手つきでお菓子の箱丸ごとひったくられるし、機嫌も直らなかった。

 失敗。


「あの……次からはアーニャも勉強会参加するかい…………?」

「別にいいわっ!あたし、多人数での勉強は好きじゃないのっ!」

「そうでしょうね…………」


 まぁ、分かっていたことではある。そしてお手上げでもある。

 目の前で鼻を鳴らし仁王立ちをしている女の子が、学内では『氷の女神』などという異名をとっているとは思えない。

 普段はクールなんだよ、この子。私の前では全然違うけれど…………


「…………なんかイライラするのよ」

「…………何に?」

「……分かんない」


 アーニャは仁王立ちしながらそう言った。


「あーーー!もう、いいから!あたしにも勉強教えなさいよっ!思いっきり勉強するわよっ!今からっ!」

「えっ!?今から!?もう夜だし、学校開いてないぞ?!」

「あたしの部屋でやればいいじゃない!今日は夜遅くまで2人きりで勉強会よっ!」


 夜の勉強会……?

 私はどきっとした。


「今日は夜遅くまでジークがもう嫌っていうまで勉強してやるんだからっ!いや!もう嫌って言っても勉強してやるわっ!覚悟しなさいっ!」

「おっ……ちょ、ちょっと待って…………」


 戸惑う私の手をアーニャは引張り、強引に彼女の巣へと連れていかれた。

 胸がバクンバクンと強く打たれ、体が熱くなっていった。血流が物凄い速さで私の体中を駆け巡っていた。


 夜の勉強会、アーニャの部屋、2人きり、嫌って言うまで、嫌って言っても…………


 変な単語が私の頭の中をぐるぐるぐるぐると回り、私はされるがままにアーニャに手を引かれ、よろけながら夜の道を歩いて行った。






 結論を言おう。

 ……何もなかった。

 ……ただの勉強会だった。


 そりゃそうだ。当たり前だ。私たちはまだ13歳だ。

 嫌悪感。自身への嫌悪感が赤い血潮のように私の中に駆け巡っていった。

 嫌っていうほど勉強して疲れ果てて眠ってしまったアーニャを彼女のベットに運び、綺麗に布団をかけ、そのままアーニャのお父さんに家まで送ってもらった。


 そりゃそうだ。

 嫌悪感だ。ただもう自分への嫌悪感と恥ずかしさで穴があったら潜りたくなった。

 あんなにドキドキした自分を殴り殺してやりたい。

 いくら体が若返っているとはいえ、13歳の彼女に欲情してしまうなんて…………


 ロリコンか?ロリコンなのか?

 28歳に13歳を足した私が13歳の彼女に胸を熱くして、男としての期待を抱いてしまったと?

 やばいやばいやばい。

 有り得ない。やばい。やばい。

 人生としての大きな罪、大罪である。死罪にも値するほどの大罪である。


 家に帰ってから私は自分の部屋の机に何度も頭をぶつけてみた。

 私の奇行に気付いた母に止められるまで私は何度も自戒をし続けた。


 あぁぁぁぁぁぁぁ………………………………

 自戒ぃぃぃぃ………………自戒ぃぃぃぃぃぃぃぃ………………………………


「おはよー……って、ジーク、どうしたの!?その額!?赤いっ!そして目の隈やばいっ!」


 朝、学校に来たアーニャに開口一番そう驚かれた。

 私の額はこれでもかという程赤く腫れ、目の下には隈がしっかりと出来上がっていた。


 眠れなかった。これだけは言っておこう。

 すっきりすることすら罪のように感じて、私は自戒していたのだ。モヤモヤした夜を過ごしていたのだった。私は自戒していたのだ。


「…………なんでもない」

「ふーん……まぁ、いいけど……今日も夜、私の部屋で勉強会だからね!約束よっ!」

「きょ……今日も…………?」


 それだけ言って自分の席に戻っていった彼女を見届け、私は机の上に突っ伏した。

 口から魂が抜け落ちそうになっていた。


 次のテスト、私は100点を取れなかった。




* * * * *


 そして月日が経ち、私たちは高校へと進学した。

 通うのは勿論有名進学校である。

 しかも、全国的にも有名な進学校に特待生として進学できたのである。


 学費は無料。大きな親孝行であった。どうしても前世で得ていた給料と比べてしまう。


 私は『転生』という恩恵があったため、『特待生』という権利を取れたことはある種当然のことであるが、自力でその地位を勝ち取ったアーニャは本当に凄いと思う。

 幼馴染として誇りに思う。


 そうだ。もう幼馴染なのだ。

 10年近くライバル視し続けられ、傍でともに勉学に励み、一緒に人生を歩み続けてきた。

 私にとっては前世も含め、43年間の内の10年。しかし、彼女にとっては15年の内の10年なのだ。


 そうだ。もう10年なのだ。

 ……もう10年なのだ…………


『高校中が勝負よ!その間にあんたに追いついて、テストで勝って見せるわ!覚悟しなさい!』


 入学式の直後、アーニャに威勢よくそう宣言された。

 高校生になって心機一転、しかし私にとっては小さい頃からと何も変わらない宣言を聞き、どうしても笑いが零れてしまう。

 小さく頬を膨らませて『余裕ぶっていられるのも今の内よ!』と言ってふんと鼻を鳴らしていた。


 そんな彼女もまた、学内で3ヶ月ほど過ごすと『氷の女王』という異名を得てしまうのだから、ほんと、人というのは分からないものだ。


 そして入学から9ヶ月、事件は起こった。

 周りからはまるで事件と思われていない事件。それでも私とアーニャの間では大きな大きな事件であった。

 特に、私にとっては、ここが転換点、私にとっての折れ目(・・・)だったのだと思う。


「…………あれ?」


 アーニャは目を丸くして昇降口前に大きく張り出された3学期の中間試験の順位表に目をやる。

 彼女は目を何度もぱちくりぱちくりさせてテストで好成績を出した人の順位表をじっと見ていた。一度自分の目を擦ってからもう一度見直していた。


『1位 ジーク 785点

 1位 アーニャ 785点』


 順位表にはそう貼り出されてあった。

 ぱあぁっと彼女の頬に赤みが差し、目がキラキラと輝いた。


「ジークッ!」


 一目散に私の下に駆け寄り、満面の笑みをもって私のことを見上げていた。

 まるで喜びが湯気となって彼女の体から湧き出ているように見えた。


「ジークッ!」


 間近でもう一度呼ばれた。意味はないがただただ嬉しかったのだと思う。


「やっとあんたに追いついたわっ!初めてっ!初めてよっ!初めてなのよっ!初めて並んだのよっ!」


 嬉しそうに、何度も『初めて』を繰り返していた。

 小学校の頃はよく共に100点で点数が並んだことがあった。でも彼女はそれには満足しなかった。彼女にとって両者100点は計測不能の証、つまり検査機器の不調であったのだ。

 それについてはただの引き分け。しかも彼女にとってはあまり嬉しくない引き分けであった。


 だから両者満点以外の同点引き分けは初めての事で、彼女はただそれをひたすらに喜んだ。


「並んだっ!並んだわっ!後は追い抜かすだけよ!勝つだけよ!並んだの!あたし、ジークに並んだのよっ!」


 嬉しそうに、本当に嬉しそうにしていた。見ているこっちまでもが嬉しくなってしまう程、彼女の目はきらきらきらきらと宝石のように輝いていた。


「覚悟しなさいっ!」


 そう言って笑っていた。未来が宝石箱でできているかのような、そんな希望を胸に抱えながら笑っていた。




 ……でもね、アーニャ。


 もう10年だ。

 10年なんだ…………

 私たちが競い合ってから10年経っているんだ…………


 綻びは出始めているんだよ、アーニャ…………




* * * * *


 綻びが大きくなり始めるのに、そんなに時間は必要なかった。


「勝った!…………勝った!勝った!勝った!勝った!勝った!」


『1位 アーニャ 786点

 2位 ジーク 781点』


 2年目の2学期の中間試験、私は初めてアーニャに負けた。

 テストの点数の勝負において、今回の人生で初めての敗北だった。


 始めアーニャがその順位表を見た時、彼女はぽかんとしていた。

 信じられないものを見た、というよりかは何が起こっているのか分からず、頭の中が真っ白になっていた。ただただ、ぼぉっと顔を上げ、口を開け、目を丸くしながらただただ頭の中が宇宙になっていた。


 5分ほどたってからだろうか。

 やっと体に意識が戻ってきて、視界からの情報を理解して、喜びに明け暮れていた。


「やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった………………!」


 ぴょんぴょんと飛び跳ねながら顔を真っ赤にし、『氷の女王』という異名が全く似つかないほど全身で喜びを露わにしていた。


「やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった!やった………………!」


 そしてまた私の元に一目散に駆けてきて、敵であるはずの私の両手を取り、ぶんぶんと手を振った。顔をほころばせ、熱のこもった視線を私に投げかけてきた。

 私は困ったように笑う他なかった。

 その他に道などなかった。


「やったーーーーーーーーーーーーーーーー!」


 そう言ってアーニャは校門の外へと猛烈に走り去っていった。


「あ!ちょっと待て!アーニャ!戻れ!戻れ!まだ授業が残ってる!」


 そのまま授業を忘れ、衝動からアーニャは学校の外に走り去ってしまった。我を忘れて走り去ってしまった。

 私が止める間もなく、10年越しの喜びという熱に浮かれ竜巻の如く走り去ってしまったのだ。

……彼女は次の日、先生からたっぷりとお叱りを受けていた。

 その姿はとても滑稽ではあった。


 滑稽ではあったが、その日以来、私は私の中の綻びが明確に浮き彫りになったことを実感していた。敗北によるショックではない。初めて負けたことが悔しい訳でもイライラしている訳でも愕然としている訳でもなかった。


 ただ、ある覚悟が私の中に芽生え始めていた。

 来るべき時が近づいている。そう感じ、覚悟を決めなければいけないと感じ始めていた。


 綻びはもう始まっている。

 その綻びはきっと中学生の頃から……いや、きっともっと前から…………


 私と彼女の別離の時はそう遠くないのだと感じていた。




* * * * *


 最初はただひたすらに彼女は喜んでいた。


 あの負けの日を境に、私とアーニャは勝ったり負けたりを繰り返すようになった。

 高校2年生の時の戦績は総合して私の方が勝ち越していた。

 だけど、高校3年生になってその勝率は5分……いや、若干彼女の方が上回っていただろうか。丁寧に記録をつけている彼女に聞けば一発で分かるだろうが、聞くのは恥ずかしかった。


 そのころから彼女はとても楽しそうに勉強をするようになった。

 今まではどこか鬼のような形相で必死に勉強をして、ただただ打倒私を掲げ特訓に励んでいたものだが、私と接戦を繰り返し、どっちが勝つか分からなくなって来てからというもの、彼女は学ぶことが楽しくなってきているようだった。


 一つ新たな発見をすると笑みが零れる様になった。

 そうなると不思議なもので、鬼の形相で必死に勉強していた頃よりも学力の伸びが明らかに上がり始めたのだ。


「楽しいか?」


 私は聞いた。


「……分かる?」

「あぁ……長い付き合いだからな…………」

「もう10年以上だものね。あぁ、長い長い。困っちゃうわ」


 そうだな。もはや腐れ縁というやつだ。

 こんな風に学力が拮抗した今でも何故か2人での勉強会は続いている。もう意味はないのでは?と言ったこともあるが、それでも彼女は私に分からないとこを聞き、私も彼女に分からないとこを聞くようになった。


『ジークの教えは先生よりも分かり易いわ』


 そう彼女に言われると、もう勉強会をやめようなどと言うことは私には出来なかった。


「そうだな……長かったなぁ…………」


 私は彼女の部屋の天井を見上げながら、それまでの道のりを思い出していた。

 小学校の頃、中学校の頃、そして最近の高校生活。

 …………いや、もっとだ。それよりもっと昔、私は前世での生活を思い返していた。最近はよく前世での生活の事を思い返すことが多くなってきた。


「…………ちょっと、なに『長かったなぁ……』なんて過去形にしているのよ。ジークもあたしも同じ大学に行くんだからまだまだ腐れ縁は続くわよ」

「……あぁ、そうだな。そうだった」


 私たちの第一志望の大学はこの国一番の大学である。

 当然と言えば当然だ。私たちは全国でも有数の進学校に通い、その中で1番2番を競っている。この国の最難関の最高学府を目指すのも道理というものだった。

 更に私たちの模試の結果は上々のA判定。油断するわけではないが、このままいけば私たちは同じ大学に入るのだろう。


 だけど、それだけである。

 私たちの……いや、私の綻びはもうどんどん大きくなっていって、もう修正の付かない域にまで達しようとしている。いや、元より修正の効くものではない時限爆弾であったのだ、これは。


 私たちは同じ大学に行く。

 でも、私たちが(たもと)を分かつ時は、もうそう遠くない。


「ねぇ……ジーク、どうしたの…………?」


 アーニャに声を掛けられ、はっとする。


「あぁ、すまない。ぼおっとしてた。なんでもない」

「嘘……」


 すぐに彼女に見抜かれた。


「ねぇ……聞いてもいい……?」

「な、なにを……?」

「ジークの隠し事…………」


 ドキリとした。一瞬で心臓が揺さぶられ、身震いが起きた。


「最近、あんた……なにかよく考え事をしている……何かを抱え込んで……悩んでる……

 最初はそれがただの悩みだと思った。もしかしたらあたしに勉強で追いつかれて悩んでるのかなーって思いもした。

でも違う。長い付き合いだからわかる。絶対違う……」

「―――――」

「隠し事なんだって思った。それは誰にだってものだから、大して気にするものでもない。お悩み相談くらいなら乗れるけど、ジークの持っているものは少し違う。最近出来た隠し事とは……少し違う……」


 部屋は静かだった。彼女の言葉以外には物音ひとつなかった。

 だから、私は強く打たれる私の心臓の音がよく聞こえた。


「……最近まで気づかなかった。ここまで長く付き合いがあってやっと初めて気づいた。

 君は隠し事をしている。……ずっと。……長いこと。……初めて会った時から。

 ……ずっと……ずっと…………君は悩んでいたんだ……」


 私は呆然とするしかなかった。誰にも言ったことのない私の秘密が彼女の目には透けて見えていたのだ。

 アーニャは膝を抱え、顔を半分隠しながら、上目遣いで覗き込むように私の事を見ていた。


「ねぇ……それって……あたしにも言えない…………?」

「……………………」

「……………………」

「……………………」


 長い沈黙が降りる。かろうじて聞こえた音は私がごくりと唾をのむ音だけであった。


「…………言えない」


 私が言えるのはその言葉だけであった。

 彼女の顔に失望の色が混じる。


「あと数年……数年待って欲しい…………」

「……え?」

「その時に……全て話すから…………」


 私がそう言うと、アーニャは小さく何度も頷いた。真剣な顔でこくりこくりと頷いていた。


 私は体を傾け上を見上げた。もう既に彼女の部屋の天井は見慣れた景色となっていた。

 あと数年。あと数年で全ては明るみに出る。


 その時に終わる。

 綻びからすべては崩れ去り、彼女が私に失望する時だ。


 アーニャ、知ってるかい?

 私はずるをしていたんだ。


 実をいうとだ…………

 私は中学校の頃から高校の勉強、大学受験の勉強をしていたんだよ。

 綻びが見え始め、恐くなって先の先の勉強をしていたんだよ。


 それでも君に追いつかれているんだよ。

 そして、追い越されようとしているんだよ。


 私はそういう人間なんだ…………




 大学受験は2人とも無事に通過することが出来た。

 危なげなく、この国の最難関の最高学府への入学の切符を手に入れた。


 入試の自己採点では私はアーニャの点数を上回った。

 アーニャも強く気合を入れていたものだからかなり悔しそうにしていた。

 それを見て、私は笑っていた。


 これが私の最後の意地だった。




* * * * *


 夢を見た。


 大雪の夢だ。


 前世の私が死んだ日の特別な大雪の日の夢だ。

 真っ白な部屋で、窓からその大雪を眺めていた。


 一面が真っ白だ。雪という粒ではなく、最早雪という群生が上から下へ、上から下へ絶え間なく落ちていく。

 記録的な大雪であった。


 私はこの雪に羨望を抱いた。

 『特別』に羨望を抱いた。

 前世の私はどうしても平凡の域を抜け出せず、どう思い返しても凡庸な人生から外れた試しなどなかった。

 泣いたり、笑ったり、怒ったり、困ったり、頑張ったり、工夫したり、努力したり…………


 人生というのは大変なもので、自身の力の120%を用いてもその道を簡単には歩ませてくれない。人生という困難が用意した壁は高く、泣いて、地団駄踏んで、不公平だ、理不尽だと叫びながら体をボロボロにして、なんとか乗り越えていかなければならないものなのだ。


 そして、それは平凡な人生というものだ。

 前世の私は凡人であって、私が歩んできたものは平凡な人生であった。

 幸せがあり、苦しみがあり、もう駄目だとぼろぼろになって……それが平凡な人生であったのだ。


 ……『特別』に憧れた。

 この大雪のような『特別』に憧れた。


 そして『転生』が起こった。


 さぁ、今回の私はどうであっただろうか。

 『特別』になれただろうか。

 確かに私の学校の成績はほぼ全てが1番で、良い高校を出て、1番難しい大学に入ることが出来た。

 『特別』だ。他の人から見たら『特別』である。


 だが、どうだ。

 この大雪と比較して、私はどうだろうか。

 世界を一変させるほどの力があるのだろうか。この大雪のほんの一欠片の力でも私には備わっているだろうか。

 羨望を抱いた大雪に私はなれたであろうか。


 ……なれるはずもない。

 私の性質は前世の時から何も変わっていない。

 この窓ガラスは鏡にはならず、私の姿が大雪に化けることはなかった。


 綻びの正体は簡単だ。

 私はアーニャに見合うだけの器ではなかったということだ。




* * * * *


 大学に入ってからもアーニャとの競争は続いた。

 相も変わらず、と言いたいところだが大学の課題はレポートが多く、テストのような点数が付くものは少なかった。


 彼女は憤慨した。

 どうやって勝負しろと言うのよ!

 私は一度大学を経験しているためそのことが分かっていたから、彼女のその言葉に困ったように笑うしかなかった。


 学期末ではテストがある教科もある。

 アーニャはそれに意気込み、私に勝負だ!勝負だ!と楽しそうに宣戦布告をしていた。しかし、彼女は知らない。大学での学期末のテストの結果は返却されることが少なく、私たちは自身の点数を知ることが出来ないことに。


 休み期間に入って彼女はまたも憤慨した。

 そして驚くことに、彼女は私の腕を引っ張って教授の部屋に直接乗り込み、期末テストを返してくれ、期末テストの点数を教えてくれという要求を出したのだ。


 教授たちも困っていた。

 規定で良いものか、悪いものか調べる間もなく彼女の凄まじい熱気に当てられ、ついつい採点したテストを返却してしまっていた。

 教授陣の中でたちまちアーニャは有名人となった。


 テストの結果は私の負け越しである。

 私の勝率は3割と言ったところだろうか。ふふーんと誰からでもわかる自慢げな表情を顔に張り付け、彼女はとても嬉しそうにしていた。

 『最近調子悪いんじゃないのぉ?』とアーニャは私の事を煽るが、私は『次は見てろ』と返すしかなかった。


 『次は見てろ』なんて、心にもないことを言った。

 そう言うしかなかった。




「……え?あたし……ですか……?」


 きょとんとした顔で自分を指さしながらアーニャは言った。

 アーニャは大学でのレポートが高く評価され、学外での討論会に参加しないかとある教授から推薦を受けたのだ。

 凄いじゃないか、流石はアーニャだ、と私は彼女に激励の言葉を贈ったのだが、彼女は戸惑いの色を隠せなかった。


 その顔色からはある考えが透けて見えていた。

 『なんでジークは選ばれていないのに、あたしだけ……?』

 そういった考えが透けて見えていた。


 そしてアーニャは別の大学間で行われる討論会に参加し、優秀な成績を収めていった。


 またある時、学年での年間成績優秀者として彼女の名前が挙げられた。

 それまでのレポートの成績、学期末テストの成績、それらの全てを加味した成績で彼女は上位に名を連ねていた。

 その時もまた、彼女はただただ困惑をしていた。


 差が明白になっていく。


 私たちの大学では2年生からゼミの選択が始まる。と言ってもゼミの体験入学のようなもので、1年を通して代わる代わる色々なゼミを体験していく形式だったのだが、そんな試用期間でもアーニャは期待の的であった。

 是非うちのゼミに、是非うちのゼミにと、1学年に華やかな成績を残したアーニャは各方面から引っ張りだこを受けた。

 もちろん私にはそのようなことはなかった。


 さて困ったことに、彼女の中ではもう当然のように私が彼女と同じ研究室に入ることは決まっているようで、さぁ、どこに入る?と一緒に入る研究室のことで相談を受けた。

 私は苦笑するしかなかった。


 「お互い興味ある分野をそれぞれ決めればいいんじゃないか?」と意見を出してみると、彼女の機嫌は見る見るうちに悪くなったのだが、「そうね……それが正しい選択ね…………」と何とか渋々了解を得ることが出来た。

 私はカバンから季節もののお菓子を取り出し、なんとか彼女の機嫌をとった。


 結果として、アーニャは魔法道具研究開発のゼミに入った。

 そして私も魔法道具研究開発のゼミを選んだ。


 ……いや、待ってくれ、これに関しては本当に誤算だったのだ。

 せーので指さしたゼミが私も彼女も魔法道具研究開発のゼミであったのだ。


 私は前世の仕事で魔法道具製作会社に5年ほど勤めていたから、その経験が活かせるかもしれないと思い、その研究室を選んだ。ただ、彼女はなんかなんとなく面白そうだったからという理由でこのゼミを選んでいた。


「なんてこった…………」


 何故か自慢げな彼女を横に、私はそう呟く他なかった。


 そして3年生になり、彼女の躍動はますます激しくなった。

 論文は評価され学会で賞を取り、別の大会にへと招待され、着実に成果を伸ばしていった。学生の内から他大学の教授陣とも交流を持つ機会を得て、忙しそうに飛び回っていた。

 他大学や企業との共同研究にも招致され、そこでも優秀な成果を出し続けた。


 特に私には特別なことはなかった。

 言うなれば、平凡な、他の人と変わらないゼミの生活を送っていた。


「なんでよっ……!」


 アーニャは私の前だけで叫んだ。


「なんで私だけなのよっ…………!」


 そんな、どうしようもない、どこにも向けられない怒りが私の前で露わになった。

 彼女は自分の中の、いつまでも私と張り合っていたいという幻想、虚構が上手く現実にならないことに苛立ちを覚えていた。


 でもそうはならないんだ。そうはならないんだよ、アーニャ。


「…………ごめんな」


 そう一言言うと、彼女は悲しそうな顔をして、「ごめん」と私にも聞こえるか聞こえないかという位の小さな声を発し、その場を後にした。


 綻びはもう綻びではなく、れっきとした崩壊の形になっていた。




* * * * *


「コンテスト?」

「そう、コンテスト!」


 研究室に持ってこられた魔法道具製作のコンテストの張り紙をばんと私の前に突き出し、アーニャは鼻息を荒くして叫んだ。


「これで勝負よっ!」


 それは簡単に言うと、決められた所定の性能を満足するような魔法道具を開発、製作し、その効能、デザイン、発想などあらゆる観点でその魔法道具を審査するコンテストであった。

 大学間で行われるコンテストであり、魔法道具製作と言う実際の実務に近い能力を要求される。


 私は少しばかり胸が躍った。

 実務に近い能力を求められたコンテスト。それは前世で5年間の実務経験を積んだ私にとっては好条件のコンテストであったからだ。

 久しぶりにアーニャと張り合える。そう思うと少しだけ笑みが零れた。


 そんな私の機微を察したのか、彼女もまた期待を込めて笑っていた。


 私は全力でそのコンテストに打ち込んだ。

 朝も昼も晩もその魔法道具の事を熱心に考え、何通りも何通りもアイディアを出しては紙に書き留める。試作品を作っては問題点を洗い出し、修正品を作り出す。製作に失敗はつきものであることは前世での仕事の時に学んでいる。だから大切なのはまず手を動かしてみることだ。


 いくつもいくつも試作品を作り、改良、改善を繰り返していく。時に頭を落ち着かせ、別の角度から自分の作品を眺めてみる。過去のアイディア、あるいはまったく別の製品にヒントが隠されていないか探ってみる。


 記憶を掘り出す。

 前世での実務期間5年の経験をもっと活かせないか、あの時働いていたことにもっと何かヒントは隠されていないか、もっと良いアイディアはないか、もっと良い改良案はないか…………

 ただがむしゃらに……がむしゃらにその魔法道具製作に打ち込んだ。


「ねぇ……ジーク、あんた……大丈夫なの?頑張りすぎじゃない……?」


 アーニャがおろおろしながらそんな私を心配していた。

 自分から持ち掛けた勝負にも関わらず、彼女は慌てながら自分のライバルの心配をしていた。

 大丈夫……大丈夫だよ…………と、言って彼女の頭をポンポンと叩いた。

 その時、少しだけ足がよろけてしまった。

 彼女には余計心配をさせてしまった。


 でも、私は全力を出さなければいけないんだ。

 もうこれが最後なのかもしれないのだ。

 彼女と張り合える最後の機会なのかもしれないのだ。


 私には分かっていた。

 彼女との差は埋まり、開き、そしてもう埋まることがないことを。

 私はもう彼女の全力に応えることが出来ないことを。

 もう彼女を満足させることが出来ないことを。


 私は『転生』しても、凡人のままであったのだ。


 だから最後にせめて。

 最後にせめて。

 全力で。

 全霊で。

 私の全てを掛けて。


 彼女との勝負に臨ませてください…………











 コンテスト当日。

 広い会場だった。多くの大学が参加しており、その広い会場が学生たちで埋め尽くされていた。

 長年続く権威のある大会で、数多くの企業や記者も学生たちの雄姿を見守り、未来につながる人材を探していた。


 コンテストは進む。

 コンテストは進む。

 コンテストは進む……


 やはりアーニャは優秀であった。

 彼女の魔法道具は独創性、機能性、デザイン、どれをとっても優れていた。

 テストで言えば100点……いや、120点のような出来であった。

 初めから彼女の凄さは100点満点のテストでは測れないものだったのだろう。


 結果が出る。

 彼女の作品はなんと準入選を果たした。

 1000人を超える参加者の中で2位と言う素晴らしい結果を叩き出していた。


 そして、私は…………

 私は…………


 …………









* * * * *


 雪が降っていた。


 大雪が降っていた。


 視界の全てが真っ白に染まっていた。

 この大雪は50年ぶりの特別な大雪であると気象学を学ぶ友達が言っていた。


 冷たい。

 真っ白だ。

 私の世界の全てが雪で覆われていた。

 前世で死んだ日と同じくらいの雪が降っていた。


「…………こんな日に、外に出ちゃ、ダメでしょ……」


 ベンチに座る私に傘を差し出す女性がいた。

 アーニャだ。アーニャが私を探しに来ていた。


「あぁ……すまない…………」


 そう言って傘を受け取るが、傘に何の意味もない。

 小さな傘ではこの特別な大雪を防ぎきれず、ただただ雪が自分の体の上に積もっていった。


「残念だったわね……選外…………ジーク、あんなに頑張っていたのに…………」


 そう、私の作品は選外。予選落ちであった。

 コンテストの早い段階で私の全力は舞台から姿を消していた。


「…………当然の結果だ」

「……そんなこと……言わないで…………」


 そのコンテストは規模が大きく、たくさんの大学から参加者があった。

 本当の天才が集う大会だったのだ。私の作品が通用しないのも無理のないことであった。


「ねぇ……こんな場所にいたら風邪ひくよ……家の中、入りましょ?」

「…………私は……もう少し雪を見ている……アーニャ、君は家に帰れ」

「……ジークが帰るまであたしも帰らないわ」


 そう言ってこの大雪の中、彼女は私の隣に座った。

 大雪がすべての音と色を飲み込んでいた。


「…………すまんな」

「え?」

「もう君には適わない…………」


 小さな声で、彼女だけに聞こえるようにそう言った。

 他には誰もいなく、雪しかないにも関わらず。


「私との勝負はこれで最後だ……これからは、本物の天才と競い合っていくといい」

「ジーク……何を言っているの…………?」

「もっと広い世界に目を向けるんだ。君は本物の天才で……君と張り合える別の天才は、どこかに必ずいる。今後、君の全力は……その天才たちに向けるんだ…………

 私はここまでだ。私とはここでお別れだ」


 私は彼女の目を見た。


「私は『特別』にはなれなかった。君のような『特別』にはなれなかった」


 私は自分の目から涙が零れ落ちないようにするのに精一杯だった。


「何を……何を言っているの……ジーク…………?」

「あの日もこんな雪の日だった…………」


 轟々と降る雪を見上げていった。上も下も右も左も雪が埋め尽くす変わらない景色が広がっていた。


「私が死んだ日もこんな雪の日だった。動かない体の首だけを回し、窓から雪の景色を眺めていた。その雪に強烈な羨望を抱いていた……」

「―――――?」

「それまでの28年の人生は平凡という名に相応しい人生だった。悪いものではなかったけれど……私は特に秀でたものを持たず、非凡な道を歩まず、学校の成績では1回も100点を取れたことはなかった…………

 …………『特別』に憧れた。『凡庸』な私は『特別』に憧れたんだよ……」

「…………どうしたの?……何を言っているの、ジーク?」


 高校の終わり、彼女に出来なかった返事を、今ここでする。


「私は『転生』しているんだ、アーニャ。一度死んで……その記憶を持って、生まれ変わったんだよ」

「…………………………え?」

「信じられるかい?」


 呆然とする彼女から顔を逸らし、私は語りだす。


「一度人生を経験している者にとって小学校のテストというものは簡単なものだ。それは当たり前だろう。そして、何も知らずそんな私に挑んできた君は無鉄砲と言うか、無謀というか……ただ仕方がないのが、君は何も知らないということだった。

 中学生までは私の全勝だった。前世での28年の財はいかんなく発揮された。

 でも高校から成績は並ばれ……最後の方は逆転されていたね。それは当然の事なんだ」

「―――――」

「高校の勉強というものは難しい。1度高校生を経験したからと言って、そう簡単に100点を取れるような問題ではなくなっていく。『もう一度高校生をやり直せたら最難関の大学に入れる自信がありますか?』と道行く人に聞いたら、『はい』と答えられる人は少ないだろう。

 私は中学の頃から高校、大学受験の勉強をしていたからなんとか君と張り合えていたが、普通ならこの国の最難関の大学に入れるほどの非凡な学力など有せる人間ではなかったんだ」


 私はその時既に限界を迎えていた。いや、限界をとうに超えていた。


「大学生活では全く勝負にならなかった。

 当たり前だ。学会で賞を取ったり出来るような能力は私にはない。私にかけられた魔法の有利は、前世での経験を活かすことだけだ。大学の難解な学問で優秀な論理を構築できるだけの能力は……私には……初めから無かった…………」


 彼女はぼんやりと私の話を聞いていた。

 大雪に吹かれながら、口を挟まず、ただじっと話を聞いていた。


「『十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人』…………

『転生』という魔法は15年近くで綻びが出始めた。時間が経てば経つほど有利はなくなり効果が消えていく魔法だった。アーニャ、君は私に追いつこうと必死に努力していたのだけれど、私は君に置いて行かれないようにするのに精一杯だった。

 そして『転生』というメッキが剥がれ、『凡人』の私が浮かび出た。時間は私にかけた魔法を崩していった」


 我慢が出来なかった。

 私の目から涙が零れてしまった。


「雪のような『特別』になりたかった。『特別』な君とずっと張り合っていたかった。

 ごめん……私は『特別』にはなれなかった……ごめん…………ごめん…………」


 嗚咽(おえつ)が漏れる。

 ただ、ごめん、と繰り返した。彼女に追いつけなかった。20年かけても彼女には届くことはなかった。


「ごめん…………っ!」


 私は『凡人』のまま、何も変わってなどいなかった。


「バカ……バカ…………」


 泣いていた。

 彼女もまた泣いていた。

 崩れゆく私の姿を見て、泣いていた。


「何言ってるのか……全然分からないし……生まれ変わりとか……全然信じられないし……訳分からないし……意味分からないし…………」


 大雪が彼女を打つ。


「話全然分からなかったし……急に納得なんか出来ないし……本当に、本当に悪いと思うんだけど……あんたの言っている『凡人』っていうのがあたしには分からない…………

 その『凡人』っていう感覚が……あたしには全然分からない…………」


 仕方のないことだ。

 天才には凡人のことは分からない。アーニャは私のことを理解できない。


「でも、でもね……分かることはあるの…………」


 アーニャは泣きながら言葉を続ける。悔しそうに大粒の涙を流しながら私に言葉を投げ掛ける。


「ジークがもう限界だって……これ以上は先に進めないんだって……これ以上無理させちゃいけないんだって…………あたしには分かるの。

 分かるよ。それぐらい。だって、あたし……ずっとずっとあんたの傍にいたんだもの。ずっとあんたのこと…………見てきたんだもの」


 そうか……そうか…………

 もうすでに見抜かれていたのか……私のメッキが剥がれ落ちていることは見抜かれていたのか…………


 ならばこれで本当におしま………………


「でも……でもね…………」


 アーニャが私の体をぎゅっと抱き締めた。


「別れなんて……言わないでよ……さよならなんて……言わないでよ…………

もう……君と競い合えないのは……悲しくて……残念で……心が痛いけど…………でも……ずっとずっと傍にいてよ。ずっとずっと一緒にいてよ……………………

 ―――あたしは15年もあんたのこと、好きなんだから………………」


 心臓がどくんと跳ねた。血が体に巡っていく感覚があった。

 それでやっと…………気付いた…………


「…………寒い」

「うん」

「冷たい」

「……うん」

「君の体、冷たい」


 抱き締められている。

 冷たく白い腕に抱きしめられていた。


「ダメだ……君は……こんな外にいては…………風邪を引いてしまう…………

 君は……皆から期待されている……大事な体なんだから…………」

「言ったでしょ。ジークが帰るまであたしも帰らないわ」

「……………………」

「ねぇ、家に戻ろ?」


 彼女は笑っていた。

 泣きながら笑っていた。


「大雪ばっかりに憧れてないで……暖かい家に戻ろ?」




* * * * *


 まだ呆然としていた。

 彼女の部屋の天井を見上げながら、まだぼんやりとしていた。


 彼女に別れを告げたつもりだった。今日、全てを告白して彼女との別離を済ませたつもりだった。

 それが何故かまだ私は彼女の部屋にいて、あまつさえ彼女の家のお風呂まで借りている。

 

「あー!すっきりしたぁっ!」


 そう言いながらまだ湯気の立つアーニャが部屋に入ってきた。


「で?さっきの話ってのはどこからどこまでが本当なの?」

「……転生の話か?」

「そうよ。それ以外に何があるのよ」

「……全部だよ。信じられないのも無理はないが、私は何一つ嘘は言っていない」

「うっそだー」


 そう笑いながらアーニャは私の前世の話を聞いてきた。

 まだ放心と諦観に揺れる夢現の状態のまま、私は促されるままに話をした。

 前世の事。と言っても大して面白い話ではなかっただろう。平凡な人生であり、こんな大変なことがあった、こんな面白いことがあった、こんな変な友達がいた、こんな風にして私は人生を歩んできた。

 そんな取り留めのない話をした。


 そんな何でもない話をアーニャは嬉しそうに聞いていた。


「やっとあんたに追いついた気分だわ」

「……え?」

「なんて言うのかな……やっとあんたの幼馴染になれたような気分になった」


 そう言って笑っていた。

 私の誰にも知られていなかった28年が、少しだけ埋まった。


「で?あんた、これからどうするの?」

「……どうするって?」

「もう1人で抱える必要なんてないんだから、好きに生きればいいじゃない。なんか楽しいことしましょうよ、ね?」


 暖かいココアを飲みながら、彼女はそんな風に気軽なことを言う。


「なんだろう……確かに前世よりも学歴はいいのだから、どこに行くにも有利ではあるが…………」

「あーーー!もうっ!有利とか不利とか!そういうんじゃなくて!あんたは何が好きで、何が楽しいのかってことよ!」


 片手を腰に当て、片手で私の事をびしっと指差し、彼女は力強く言った。


「何が……何が、楽しいか……か…………」


 じっと目を閉じ考える。でも、簡単に見つかるようなものでもないような気もする。


「ゆっくりと考えてみるか…………」

「いや!あたしには分かるわ!教えてあげる!あんたは何が好きで、何が得意か!」


 え?なに?どういうこと?

 なんで私の好みをアーニャが宣言しようとしているの?

 呆然としながら私はアーニャの言葉を待った。


「あんたに合った道は『教師』よっ!だって、何故なら!このあたしをここまで育てたのだものっ!」


 胸を張って彼女はそう言った。

 『教師』。そう言われて何か自分の胸の中にすっと嵌まるものがあった。

 中学校の頃、友達相手に頻繁に勉強会を催していた。

 頼ってもらえるのが嬉しかった。私が言ったことを理解してもらえるのが嬉しかった。友達の役に立っていることが嬉しかった。


 アーニャとの勉強会、私は彼女に頼られていることが嬉しかった。


「幼馴染のあたしが言うんだもの!間違いないわっ!あなたはあたしの『先生』だったのよ!」


 私のことは何でも知っているのだぞ、と自慢げな顔をしながら彼女は笑っていた。

 それにつられて、つい私も笑ってしまった。




* * * * *


 大雪の日になると思い出す。

 私が死んだ日、私が『特別』に強く羨望をした日。

 『転生』という私の『特別』は、一体私の何を変えたのだろうか。


 『転生』によっていろいろなことが起こった。だが、平凡な私自身の性質に一体どんな変化が起こったというのだろうか。

 答えは出ないし、結局何も変わらず私は平凡のままであるような気さえする。


 ただ、


「せんせー!さよーならー!」

「先生、さようならー」

「あぁ、雪に気をつけて帰るんだぞ」


 今日もいつものように生徒たちの成長を見守りながら日々を過ごしている。

 平凡だけど、やりがいのある仕事である。


「皆帰ったが……私は残作業か…………」


 私にはまだ書類整理が残っている。あと、テストの点数付けも。

 ……そう言えばテストの点数で張り合っている子たちがいたな。今回の結果はどうなったのだろうか。

 採点する側になって思わず笑みが零れた。




「あら、あなた、お帰りなさい」

「パパー!おかえりなさーい!」


 家の扉を開けると、妻が顔を出し、娘が私の足に飛びついてくる。

 私が娘を抱きかかえると、娘は嬉しそうにキャッキャと笑った。


 妻は特別な人間だ。

 研究熱心で大学の教授を目指しており、たくさんの論文を仕上げている。とても優秀な成果を上げており、何度も何度も海外の学会に顔を出している。

 今やり手の若手研究員という訳だ。


 ただ、私にとって彼女はそういった意味での『特別』ではない。

 違う意味での『特別』を抱いている。


 つまり、愛している、ということだ。


「今日は君が夕飯を作ってくれたのか?」

「うん、しばらくは遠出もないしね。早めに帰れると思うわ」

「しばらくはパパとママといっしょー!」

「お土産のお菓子買ってきたぞ」

「わーい!パパ!ありがとう!」

「え?なになに?今日は何のお菓子?ねぇねぇ?今日は何味?」

「…………娘より食いつくな……」


 平凡な私ではあるが、生徒たちの成長を見守り、特別な妻と特別な娘と共に生きていく。

 そんな平凡な、心地よい人生を歩んでいる。


 私は今、暖かい人生を歩んでいる。


最後までご覧頂きありがとうございました。

ヒーロー文庫様からこの作品の書籍が出版されております。1,2巻が発売中で、3巻が2018/11/30に発売予定です。

もし興味があればご覧下さい。

これからも応援宜しくお願い致します。


小東のら