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木枯らし舞う――ナナちゃん奇譚⑰


 木枯らし舞う――ナナちゃん奇譚⑰ 


ある寒い冬の日、ナナちゃんは街で、小さな男の子を連れた老婆とすれ違った。クリスマス前の繁華街。あちこちからジングルベルのメロディが聞えている。大勢の客でごった返す梅田のデパートの前の歩道でのこと。

 男の子はたぶん4つか5つぐらい。お婆さんの方は70才をとうに越えているだろう。

 何気なくすれ違うその瞬間。ナナちゃんはちらりと男の子の顔を見た。と、その瞬間、ゾクゾクッと首筋に冷や水を掛けられたような寒気が走った。ナナちゃんアンテナだ。


  ――この子、この世の人じゃない

 

 瞬時にわかる。お婆さんの方は、どう見ても血の通った生身の人間のように思う。それに対して男の子の方は、まるで映画の中から抜け出して来た人物のように、現実感、いや、この世に存在する物の持つ熱量とでも言うのだろうか、それがまったく感じられない。特にその顔は、まるで立体映像みたいに見える。

 (え? ちょっと待って)ナナちゃんは思わず呟いた。お婆さんは、ごく普通に男の子の手を引いている。つまりお婆さんにはこの男の子がわかっている。おそらくナナちゃんのような特異な人間には見えたり感じたりはするのだろうが、普通は何も見えないはず。このお婆さんはどうなのだろう。ナナちゃんは疑問に思った。

 すれ違った後、ナナちゃんがそっと振り返ると、男の子も振り返り、ナナちゃんと視線が合った。その目はにやりと笑っている。ナナちゃんは久しぶりにその男の子に邪な気を感じた。

 放ってはおけない。そう思ってすぐに二人を追いかける。


「あの、すみません」

お婆さんは驚いたように振り返った。

「あの、突然すみません、その子……」

 ナナちゃんが男の子の方を指差しながら話しかけようとした時、急にお婆さんが憤慨した様子で言う。

「何ですか!」

「あの、わかっておられますよね?」

「失礼ですよ。あなた」

「すみません、でも、その子は」

「そう。あなた、この子、見えるんやね」

 ナナちゃんはゆっくりと頷く。

「誰にも渡しませんよ」

「は?」

「この子はわたしの大事な子供です。もう離しません」

「このままではあなたもきっと命を落としますよ。ちょっとお話ししませんか?」

 咄嗟にナナちゃんは勢いで言ってしまったが、実際そのお婆さんの顔は怖かった。

 顔色の悪さもさることながら、その視点は定まらず、眼球は血走り、左右のこめかみにまで青黒い毛細血管が幾筋も浮き出ていた。まるで酷く何かに囚われているようで、見たことはないけれど、カルト宗教の狂信者と言うのはきっとこのような顔だと思った。

 何よりも、お婆さんに手を繋がれている男の子がナナちゃんをきつく睨みつけていた。放って置いたら、いずれきっと悪いことが起きる。それは確信にも近かった。


 初めのうちは、お婆さんもナナちゃんを怖い顔で睨んでいたが、あまりにナナちゃんが熱心に言うものだから、お婆さんも根負けしたのか、話をすることになる。

 喫茶店に入った。テーブルの上には ナナちゃんとお婆さんのコーヒーと、チョコレートパフェが置かれている。パフェはお婆さんが注文した。持って来た店員が、少しためらってナナちゃんの前にコーヒーとパフェを置こうとした時、お婆さんが冷ややかな表情で、すっと男の子の前に置いた。店員は怪訝そうな顔だ。男の子は依然としてナナちゃんをじっと睨みつけている。その眼差しに一切の隙は感じさせない。

 

 お婆さんは名前をY崎さんと言った。Y崎さんは男の子について、ぽつりぽつりと語り始めた。

 今から40年も前の、Y崎さんが、今のナナちゃんぐらいの頃のこと。

 Y崎さんには、子供が一人いた。修一郎と言う。当時4才で、一番かわいい盛りだった。修一郎の父親であるY崎さんの夫は、修一郎が生まれて1年経つか経たないうちに離婚して家を出ていた。

 Y崎さんは、たった一人残った家族である修一郎を溺愛していた。手塩にかけて育てていた。ところが、ある日、悲劇は起こった。


 修一郎を預けていた保育園にY崎さんが車で迎えに行った時、家の方向が同じだった、同じ年の男の子のお母さんが急用で迎えに来られなくなったので、Y崎さんがその男の子もいっしょに連れて帰ることになった。

 後部シートにその男の子が乗り込むことを確認したY崎さんはゆっくりと車を発進させた。その時「あっ」と言う声を聞いた。驚いて助手席を見ると、もう乗っていたと思った修一郎がいない。そして嘘みたいにドアが開いていた。同時にぼよんと、何かに乗り上げたような突き上げを感じ、慌てて車を停めた。

 車外に出ると、修一郎が車の横で頭から血を流して倒れていた。転落した修一郎をY崎さんが誤って後輪で轢いてしまったのだ。

 近付くと、こんな小さな頭からこれほど血が出るのかと言うぐらいに出血している。意識もない。息もしていない。すぐに救急車を呼び、レスキューが駆け付けたが、血まみれのままピクリとも動かない。レスキュー隊員は、修一郎の小さな胸に大きな手を当てて懸命に心臓マッサージをしていた。そのオレンジのズボンにしがみつくようにY崎さんは大声で叫んでいた。

「お願いです、お願いです、どうか、修一郎を助けてください、お願いだから、助けて、助けて! 修一郎、修一郎!」

 しかしその声も虚しく修一郎は帰らぬ人となってしまった。

 それ以来Y崎さんの人生はまるで抜け殻のようになってしまった。毎日が後悔の日々だった。

 それからY崎さんは今までの40年の間、何をしたか――毎日毎日、来る日も来る日も、修一郎の写った写真と、離婚した夫が撮ったビデオを眺めながら、ひたすら泣いて謝り続けた。

 あまりに毎日のように見ているものだから、ビデオテープが擦り切れそうになったので、今度はDVDに同じビデオをコピーして、延々と見続けていた。その映像を見て、詫びることが、Y崎さんのすべてだった。

 そんな時間が、40年も続いた、ある日のこと。

 家に戻ったY崎さんを4才の修一郎が迎えた。それは、Y崎さんの強い念が作り出した修一郎だった。でもY崎さんは、神様が願いを聞き届けてくれたのだと思い込んでいた。


「Y崎さん。お墓、行きましょう。修一郎君の。長いこと行ってないでしょう?」

 ナナちゃんはやさしく言った。

「お断りします。修一郎は、ここにいます」

「行きたくない気持ちはわかります。でもあなたが本当に修一郎君のことを愛しているなら、安らかな眠りを妨げるのはかわいそうです。わたしといっしょに行きましょう」

 時にナナちゃんはとても強い女性だと感じる。

 そして二人はお墓へと向かった。

 墓石に花を手向け、手を合わせる。でもY崎さんは手を合わそうとしない。念が作り出した修一郎の体は、最初見た時よりも何となくぼやけた感じに見える。ナナちゃんはしゃがんで修一郎の手を取る。

「修一郎君、ごめんなさい。でも、君は、お母さんのこともう許してしてくれてるよね? どうかお願い。お母さんを自由にしてあげて。お母さんはもう長い間苦しんで来たの。だからもう開放してあげて」

 修一郎はじっとY崎さんの方を見上げたまま動かない。

「お願いです。もう、この子を私から奪わないで、もういなくなるのは、嫌なんです」

 Y崎さんは修一郎の手を握ったまま泣いていた。 

 その時、修一郎がにっこり微笑んだ。

「修一郎君、おばちゃんのお願い聞いてくれるよね。お母さんを開放してあげて」

 でも執着しているのは、修一郎ではなく、本当はY崎さん本人だ。それをナナちゃんはわかっていて、そしてあえて修一郎に懇願している。

 少しずつ、Y崎さんの心が融解して行く。それと共に、修一郎の体もゆっくりと薄れて行った。

 

 真冬の、木枯らしが、だだっ広い霊園の中をひゅーひゅーと舞っていた。

 もうすぐクリスマスがやって来る。

                      了     

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