プール――ナナちゃん奇譚⑯
プール――ナナちゃん奇譚⑯
コロナ自粛の続く、8月下旬のこと。勤めている夜のお仕事も当分お休み。いつもの堂山町の店は早じまいで、まるで水飲み場を失った野良ネコみたいに、行き場を無くしたナナちゃんは、子供が寝た後、毎晩のように家飲みが続いていた。
しかし、30代の女性が、さすがに一人で飲むにはちょっと淋しすぎるのだろう。うちにリモートのお誘いがかかった。そこまでして飲みたいのか、それともやっぱり淋しいのか。たぶん後の方だろう。ナナちゃんなら、いくらでも彼氏はできそうなものだが……。
新型コロナの蔓延に関係なく今年の夏も猛暑だった。しかしその日は、夕方から天気は下り坂。ひと雨降った後には、気温もぐんと下がり、リモート飲みの始まる頃には、時折、雷鳴とどろく荒れ模様に変わっていた。ようやく長い猛暑が過ぎ去るのかもしれない。
「ごめんな、付き合ってもらって。そっちは雨降ってないの?」
「うん、ポツポツかな。そっちはかなり降ってそうやね」
「うん、さっきから雷がすごいねん。ゴロゴロ言うてるし、怖いわ」
「ナナちゃんでも怖いことあるんやな」
「あるわ。あたしめっちゃ怖がりやねん」
「そうは見えへんけど。ところで、ナナちゃん、何かネタないの?」
ネタに困った時のナナちゃん頼みである。
「そうそうあるかいな。あたしはアマさんのネタ帳ちゃうで」
と、いいつつも「しゃあないなあ」と、きちんと仕事をしてくれるのが彼女の良いところ。
「オバケは出て来ないけどええ?」
「ええよ。教えて」
「うん。アマさん、集団催眠って知ってる?」
「詳しくは知らんけど、まあ大体は。せやけど、集団催眠て、また今回のは、ヤマ、でかいな」
「あはは」
笑いながらナナちゃんは静かに話し出した。電波状況があまり良くないのか、稲妻の影響なのか、映像が途切れ途切れになる。
それはナナちゃんが小学5年生の頃のお話しだった。
やはり、夏。7月。体育の授業はプールだった。プールでの体育の授業は別に珍しくも何ともないが、その日は少しどこかがおかしかった。
たぶんそれを感じていたのはナナちゃんだけだった。
水の感触が、いつもと違っていた。もちろん水温が温んでいたこともあるのだろうが、どうもそれだけではなく、水が体にまとわりつくような気持ちの悪さがあった。
しかし授業は何事もなく済んで、皆が着替えを終え、教室に戻り、そして次の授業が始まろうとしていた時のこと。
ナナちゃんはさっきから何となく息が苦しい。深く吸い込もうとすると、胸の奥に鈍痛のようなものを感じていた。それで隣の子に「なあ、息苦しくない?」と聞けば、その子も「え? うん。何となく息苦しい」と言った。そしてその隣の子も後ろの子も前の子も、やがて、その胸のつかえのような感覚がどんどん広がり、皆が「胸が苦しい」と言い出した。
経験の少ない、若い担任は、慌てて職員室に駆け込み、その現状を訴えた。
「児童たちが口をそろえて胸の痛みを訴えています!」、
知らせを聞いた教頭がすぐに養護教諭を連れてナナちゃんのクラスにやって来た。
皆の症状はほぼ同じで、大きく息を吸うと胸を圧迫されるような痛みを感じると言うものだったが、それほど重篤でもなかったので、指導として「静かに息をしましょう。激しい水泳の後で、子供にはよくあること」と言うことでその場は治まった。
ただし、用務員が殺菌のために投入したのカルキの量を間違えた可能性もあったので、その日、それ以後のプールはすべてのクラスで中止とされた。昔は割とその辺りはいい加減だった。しかしほぼ全員が訴えたところに怖さがあった。
その日の給食後の5、6時限目の授業は図画工作で、内容は校内写生だった。皆、手に手に絵の具と画板を持ち、運動場や、屋上、廊下、等々、好きなところへ移動して描き始めた。
その中でプールは人気の写生スポットだった。例の騒ぎのおかげでその日は水泳が中止になったことに加え、夏だし、おそらく、構図的にも簡単だから、と選ぶ子が多かった。それでプールサイドのスタンドには10人以上の児童が陣取っていたらしい。狭い教室を出て、子供たちには息抜きにちょうど良い。もちろんナナちゃんもそのメンバーの中に混じっていた。
先生が、日向で絵を描く人は必ず帽子を被ること、と注意しただけで、ずっと傍にいるわけではないのをいいことに、皆、楽しくおしゃべりしながらも、けれど、描く時には、額に汗しながら、一生懸命に描いていた。その頃にはさっきの胸の痛みはすっかり忘れていたようだ。ただ「あれどうする?」とか「描いたらおもしろいんちゃう?」と言う、ぼそぼそとしゃべる声が聞えていた。ナナちゃんはそれには気にも留めていなかった。目の前には、夏の太陽を反射してキラキラ光る水を湛えた25mプールがある。何の変哲もないプールと、そのきれいな水だ。ナナちゃんには、さっきの、ぬるぬるした水の感触が、ずっと気になっていた。
と、その時、さっきまで誰もいなかったプールサイドに、おそらく1,2年生ぐらいの小さな女の子が体育座りをしていることに気付いた。
あれ、あんな子、おったかな……。不思議に思ったナナちゃんは隣の子に尋ねた。
「なあなあ、あんな子、おった?」
「え? おったよ。来た時から」
隣の子は怪訝そうな表情でナナちゃんを見ていた。
「ほんまに?」
「おったって。何してんのかなとは思ってたけど。ほら」
その子が見せてくれた絵には、その小さい女の子もしっかり描かれていた。
「せっかくやから一緒に描いたら面白いかなって思って」
「ほんまや。あたしが見逃してたんかな」
「そうなんちゃう、みんな描いてると思うけど」
「え?」
慌ててみんなの絵を見ると、色のすでに入った絵も、まだ鉛筆の下絵だけの絵も、そのすべてに女の子が描かれていた。描いていないのは自分一人だけだった。中にはその女の子に焦点を合わせて大きく描いている子もいた。スクール水着を着た、小さな女の子はじっと水面を見つめている。
「ちょっと、みんな、変やと思わへんの? 今授業中やで、しかもプールは今は誰も入られへんはずやん」
「別に」「別に」「別に」「別に」「別に」「別に」「別に」「別に」
みな口裏を合わせたように同じ答えだった。
「ちょっと、みんなどないしたん? おかしいわ」
急にその場にいた全員が立ち上がり、一斉にナナちゃんを取り囲んだ。
「いやっ、怖い! やめてっ!」
ナナちゃんが危険を感じて逃げようとしたその時、ふらっと眩暈が起こり、同時に先ほどの胸を押さえつけられる感覚が襲った。見ると、皆が手を伸ばしてナナちゃんを強く掴んで離さない。
「あかん! あかん! やめて、ちょっと、やめて! 助けて」
このままではどこかへ連れて行かれる。全員がナナちゃんの体を引っ張る。
その先には、輝きを失った水面が待ち構えていた。
助けて! 助けて! 誰か助けて!
と、その時だった。
「こらっ! お前ら何してるんや、やめんか!」
男の声がした。身回りに来た用務員のおじさんだった。教頭からプールの水質管理について指摘を受けたので、塩分濃度を測りに来たのだと言う。それでこの騒ぎに遭遇したのだ。
しかしあともうちょっと遅ければ、きっとナナちゃんはあのぬるぬるの水に放り込まれていただろう。
用務員のおじさんは、てっきりイジメの現場だと思ったらしい。
ナナちゃんは後日、用務員さんにお礼を言いに行った。その時、おじさんはこんなことを話してくれた。
「あれ見た時な、わし、またかって思ったわ」
それは10年以上も昔、用務員さんがこちらの学校に来て間もない頃。ナナちゃんと同じように、泳げない子を皆で面白がってプールへ放り込んで遊んでいたのだと言う。
「十分怖いな。集団催眠?」
「せやろ。たぶんそうちゃうかな。あたし、あの時真剣にヤバいって思ったもん」
「けど、なんでナナちゃんだけその子、見えへんかったんやろな」
「見えへんかったと思う?」
「うん。そう言ってたやろ」
「プールサイドにはいなかったけどな、あたしの左隣に座って、ずっと絵を見てやったよ。言うたらみんな怖がる思って黙ってた。でもその子な、自分が描かれていない絵をね、淋しそうに見てやった」
「描いてほしかったのかもな。自分のこと」
「あたしもそう思った。存在を、知ってほしかったんやと思うわ」
了