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   声


 ある年の12月のことでした。年の瀬も押し迫り、気持ちも焦っていたのでしょう。私は仕事中に事故を起こしてしまい、すぐに救急車で病院へ搬送されました。

 膝蓋骨骨折でした。つまり、「ひざのお皿」を砕いてしまったのです。これは骨折の中でも完治までかなりの時間を要します。まともに歩けるようになるまでに半年、正座できるまでに1年はかかりました。

 入院していた病院は大都市郊外にある総合病院で、救急で運ばれて来た私が入っていたのは、様々な手術を終えた患者が一時的に入る外科病棟でした。

 病室は4人部屋で、入り口から窓際に向かって4床のベッドが並んでいました。私はその一番窓際のベッドに寝ていました。

 それは手術を終えた午後のこと。まだ腰椎麻酔から覚めやらぬ私は、ベッドに横たわりながら、左の窓の外をぼんやりと見ていました。冬の西日に照らされて、街は淡い色に染まっていました。

 ああ、忙しい年末年始をここで過ごすのか、皆に迷惑かけるなあ、と半ばあきらめの気分に浸っていると、その時です。隣でお年寄りの大声が聞えました。


 ――おい、ここの病院は北枕で患者を寝かせるんか!


 どうやら怒っているようです。考えたこともなかったですが、確かに、病人の中には縁起を担ぐ人もいるでしょう。まあそれにしたって厄介な患者さんには違いありません。あまり関りになるのはやめようと思いました。

「おっさん、また文句言うとるわ」

「ほんまうるさいクレーマーやなあ。個室でも行ったらええねん」

 数人の声が呼応するように聞こえました。きっとここではそれが日常なのでしょう。雰囲気の悪い部屋です。

 それ以後も隣からずっと何かをボヤいているような、文句を言うようなひそひそ声が聞えていました。私はカーテンの隙間からそっと隣を覗くと、やはり隣もカーテンが閉められていて中の様子間見えませんが、たぶん付き添いで奥さんか誰か身内の方が来られているのでしょう。わがままな年寄りの世話、ご苦労様です。

 

 さてその夜。麻酔が切れて、熱と痛みと、導尿カテーテルの気持ち悪さで、とても眠るどころではなく、うつらうつらとしていた時のこと。

 お隣のベッドからまた声が聞えました。

 

 ――うぅ痛い、ぅうぅ痛い、痛いなぁ、うぅぅ痛いなぁ……


 もういい加減にしてほしい。痛いのはわかります。でもここは外科病棟なので、みんな痛いのです。メスで切り刻まれてここへ放り込まれるのですから。もちろん私もじっと痛みに耐えていました。

 その時、「おい、うるさいで! ええ加減にせえ」とまたどこかで声がしました。

 確かに。安眠妨害です。こう痛い痛いと隣で言われると、こちらも気が滅入って来て、私の足の痛みまでさらに酷くなったような気がします。「痛いのはあんただけやない」そう思っても、まさか静かにしてとも言えず、朝になったら看護師に相談してみようと思いました。

 結局そのうめき声に夜明け頃まで付き合わされるはめになりましたが、それ以後はピタリと声は止みました。ようやく薬が効いたのかもしれません。

 

 翌朝。検温に来た看護師さんに、「あの、すみません、ちょっとお隣の方がうるさくて眠れないんですけど」と小声で言うと、その看護師さんは首を傾げます。

 私が不思議に思っていると、こんなことを言いました。

 「お隣の方は急遽、“昨日”の早朝からICUに移られましたよ。何かの間違いでは? まだベッドはそのままですけれど」

「ほんまですか? 今朝の間違いでは?」

「いいえ。ほら」

 と、隣のカーテンを少し開けて中を見せてくれました。荷物はまだ置いてありましたが、無人です。その上、ベッドはシーツも交換されていてまっさらの状態で、誰かが寝ていたとは思えませんし、明け方にシーツ交換にやって来たとも思えません。

「ね?」

 若い看護師がにっこり微笑みながら言いました。

「いや、でも、確かに昨日私がここへ来たその後からずっと誰かと話されていたようですが」

「そんなわけはないです」

「昨日の昼間にはもういらっしゃらない?」

「昨日の早朝に、容態が悪くなって移られましたから、あなたとは会ってないですよ」

「いや、昼間にけっこう大きい声で怒ってはりましたが」

 私は引き下がらない。

「ええ? 何て?」

「患者を北枕で寝かすんかって」

 その途端、看護師の顔から微笑みが消えました。

「それ、ひと月前に入院されてすぐにそう言われたので、急遽4床のベッドの向きを変えましたよ。せやから今は南枕です」

 そうだ。左の窓からは西日が射しこんでいた。南枕だ。どうして気付かなかったのだろう。

「で、では夜中に痛い痛い言うのは……」

「だから、お隣にはどなたも居ませんて」

 看護師はもう泣きそうな表情です。

「だって、私以外の患者さんもきっと聞いているはずです」

「いいえ、それは絶対ないです」

「どうして?」

「今この部屋に入院しているのは、天宮さんだけですよ。ほかには誰もいません」

「私、ひとり?」

「当分その予定です」

「当分?」

「ええ、お隣は今朝方、残念ながらICUでお亡くなりになったので」

 

  ――声だけが、残っていたのか。この部屋中に、声だけが……。


  部屋、変えてほしい……。私は小さく呟いた。

             

              了


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