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星の王子さま

  星の王子さま


 あれはもしかしたら私の初恋だったのかもしれない。

 小学校3年生の春。私の隣の席に、千佳さんと言う女の子が座っていた。おさげのかわいい小さな女の子だった。恋と言うにはまだ早い、4月の雪のような、けれども、彼女の方を向くと、心の芯に一つ火が灯ったみたいな、温かい気持ちになった。

 彼女は寡黙な女の子だった。私も寡黙な少年だった。だから隣に座っているのに、用がなければずっと、何もしゃべらない。「おはよう」「さよなら」の二言だけの日もあった。すぐ隣にいるのに、ただ時だけが過ぎて行く。

 ある時、彼女は本を読んでいた。ぬめりとした乳色の裏表紙には、丸い校内図書館のスタンプが押してあった。

 私はちらちらと、盗み見るように読書する千佳さんを見ていた。まばたきする長いまつ毛、真剣な眼差し。今思えば、やはりあれは、恋だった。9才の恋だ。なぜなら私は、その髪に、そのやわらかそうな頬にそっと触れたかったのだから、きっと生まれたばかりの恋なのだろう。

 

 それに気付いた彼女が私の方を見た。

 私はきまりが悪くて、「本?」と言う。彼女はにっこり笑って、「これ?」そう言って差し出す。

 本当は、本なんかどうでもよかった。でも私は手渡された本に視線を落とす。

  

  ――星の王子様。……不思議な絵。

 

 私は何気なく本を開ける。ちっこい王子様が正面を向いて立っていた。服が、大き過ぎやしないか? それが最初に思ったことだ。

「お父さんに勧められて読んだんだけど。おもしろかったよ。私はもう読み終わったから、貸してあげる」

 そのころの私は、漫画ばかり読んでいた。文字の多い本は苦手だった。思わず借りてしまったけれども、もうそれは読むしかない。でも結果的にこの本が私の世界をがらりと変えることになった。


 最初は面白くなかった。ただ千佳さんと共通の話題を持つためだけに読み進めた。

 つまり9才の下心。しかしその内容の滑稽さにどんどん惹かれていた。いわゆる、そう、エンタテイメント的な面白さで読み進めたにすぎない。9才の私には、その本質を理解するのは早すぎた。ただ面白くて、そして悲しい本だと思った。毒蛇に噛まれて静かに倒れる王子様に心を持って行かれた。単なる悲しさとも淋しさとも違う、満たされない心のようなものを感じていた。


「読んだよ」

「そう。よかった?」

「うん。でも今日持って来るの忘れたから、もしよかったら、学校が終わってからM駅前で3時に待ってるから来ませんか?」

 今思えば、それはデートのお誘いだった。9才の子供にしてはなかなか巧妙な。

「うん。いいよ」

 千佳さんは、何か秘密めいたような、少し憂いのある表情をしている。


 学校から走って家に帰り、借りた本を抱えて、すぐにまた家を出て行こうとする私に、母は「これ、ちょっと」と呼び止め、「何?」と聞くと、「いや、気ぃつけて」そう言って、私に500円札と、なぜかお守りを持たせてくれた。

 

 待ち合わせの時間よりも10分早く駅前に着いた。

 青ペンキを塗りたくったみたいな空が広がっている。私は辺りを見回すが、彼女の姿はない。

 3時になった。彼女の姿はない。

 その後、30分経っても1時間経っても、千佳ちゃんは来なかった。


 その時、「ヒデ」と声がした。振り向くと母が立っていた。

「あれ? 母さん」

「あんた、待ってるんやろ?」

「うん」

「今日は、晩ご飯、どこかで食べて帰ろか」

「え? うん」

「その子、名前なんて言うの?」

「M崎千佳って言うねん」

「お母ちゃんが本、返しといたげるわ」


 結局私は、1時間半ぐらい待ったが彼女は来なかった。

 人生初のすっぽかしを食ってしまった。

 後に母は私に言った。

 誰も座っていない私の隣の机の上に置かれていた図書館の本――星の王子さま――を手に取って、一生懸命、独り言を言っている私の様子を心配した先生が母に連絡していたこと。

 どうやら私の妄想だと思われていたらしい。私は小さなころから、ちょっとおかしなところがあったから、先生もきっと気を付けていたのだろう。 

 

 それから母は、私の妄想でないことを証明した。

 M崎千佳さんは、ずっと過去に在学していたのだそうだ。そして彼女は3年生の1学期の中頃に、事故で亡くなっていたこと。星の王子様が大好きだったこと。

 

 毒蛇に噛まれて旅立った彼女。

 きみが星空を見上げると、そのどれかひとつにわたしが住んでいるから、そのどれかひとつでわたしが笑っているから……。

 

                            了



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