トマドイとミチビキさん
トマドイとミチビキ
人が他の人に向けて発する思いは、それがネガティブなものであれ、ポジティブなものであれ、強ければ強いほど、「思念」もしくは単に「念」となる。
そして、時に「思念」は、元の主あるじの肉体に似せて仮の器を形作ることがある。僕の前に現れる〝彼ら〟は、いつも怯え、さまよい、何かを訴えかけようとしていたので、僕は、〝彼ら〟のことを『トマドイ』と名付けて呼ぶようにしていた。
トマドイは世間で言われる、幽霊のことではない。なぜなら、それらは、本体の生死に関わりはなく、本体から発せられた強い「思念」が変異したものであるからだ。
主あるじ亡きこの世界に思念だけが残って主の記憶の断片を形成した物もあれば、未だ存命の主の強い思念だけが主を離れて漂っている物もある。これを俗な言い方をするなら、いわゆる生霊と言う。
〈1〉 トマドイ
6月下旬の朝。梅雨空。雨は降るでもなし止むでもない。ただ、酷く蒸し暑かった。
僕はいつものように満員の通勤電車で揺られていた。次はJRと大手私鉄の乗り換えのある大きなターミナル駅だ。
駅に電車が着く。たくさんの人が降り、またたくさんの人が乗る。僕の降りる駅はここではない。もう2駅向こうだった。しかしその駅は比較的乗降する人が少ないために、扉付近にいなければ、降りるのに骨が折れる。下手にこの乗り降りの多いターミナルで奥のほうに押しやられたら、朝っぱらから「降ります!」を連呼しなければならない。あれはとても疲れる。だから自分が降りる駅ではなくとも、この大勢が乗降するターミナルでは一度降り、再び最後にうまく扉付近に乗ることがコツだと、もう何年も前に学習していた。
その日も僕は、そのターミナル駅でたくさんの人々と一緒に電車から吐き出されて、再び乗り込む。まるで機械のようだ。しかしドア前のいつもの位置は僕のものだ。
「扉が閉まります。ご注意ください、駆け込み乗車は、おやめください!」
アナウンスがけたたましくがなり立てる。もう誰も来ないだろう。
だが、自分が最後だと思って乗っても、その後から駆け込んで来る人がいることも知っていた。
運悪くその日も扉が閉まる寸前に、客が一人勢いよく飛び込んで来た。
「駆け込み乗車は~」のアナウンスなど聞く耳を持たぬようだ。
その時、一瞬、なぜか不思議な違和感を覚えた。
それは僕よりも少し背の低い、年の頃は三十前後ぐらいの女性だった。結局、扉前の定位置を彼女に取られてしまい、仕方なく僕は一歩中へ。女性専用車両にでも行ってくれよと僕は忌々しく心の中で呟いた。
毎日決まった時間の電車に乗っているが、彼女を見たのは初めてだった。おそらく普段はもう少し前の電車に乗っているのだろうが、今朝は何かしらの理由で遅れたために慌てて飛び乗って来たのだろう。
必然的に彼女の背後にぴったり寄り添う形となった。満員電車ではいつもそうするように、斜め掛けのショルダーバッグを自分の前に回すようにしていた。横だと邪魔になる。それに前に回せば、こういう時にあらぬ疑いをかけられずに済む。間に挟まれたバッグだけが彼女の尻との接触を阻止していた。懸命だ。
おそらく彼女は改札からホームまで、階段を一気に駆け上がって来たに違いない。大きく襟元の開いたカットソーから覗く華奢な肩峰が小刻みに上下していた。
そして無造作にくくり上げた髪。その下にのぞく白いうなじには、玉のような汗の粒が滴っていた。何と言う美しさだろう。僕はその白いうなじに心を奪われる。
時折吹き付ける冷房機の風は信じられないほど冷たく、風の通った場所は、瞬く間に水蒸気を飽和させ、露出した肌に不快な湿り気を残した。
超が付くほどの満員電車だ。あくまでも自然に、僕は見入っていたうなじからその視線を左下にゆっくりと移す。
その次の瞬間、僕は戦慄を覚えた。最初の違和感の正体がわかった。
――彼女の左手、肘から先が、なかった。
それは僕の中にある種の痛みをもたらした。
と、その時、彼女のものではない気配をかすかに感じた。
ふと下を見ると、小さな男の子が僕の方をじっと見上げている。3、4才ぐらいのかわいい坊やだ。いつの間に乗ったのだろう。
よく見ると、坊やは、その小さな左手で彼女のカットソーの裾をしっかりと掴んでいた。彼女は子連れで乗って来たのか? いやいやそんな筈は無い。たった一人、閉まりかけた扉をかいくぐって乗り込んで来たのだから。
――と、すると……この子は、『トマドイ』だ。どんなに小さくてもこの子はトマドイに違いない。
しかもこのトマドイは、じっと僕を見ている。その表情はまるで何かを訴えるがごとく。
普通は、トマドイと言うものはただの囚われた思念の塊であって、よほどそれが強くない限り、それ自体が自由意思を持つことは滅多にない。けれどもこのトマドイはしっかりと意思を持っている。
にもかかわらず、この左手のない彼女はこの子にまったく気付いた様子はない。
あれほどしっかり服の裾を掴まれていると言うのに。
そうこうしているうちに、電車は次の駅に到着して、目の前の扉が開いた。大勢の人々がどっと吐き出される。もちろん扉前にいる彼女も僕も例外なくホームへ降りるが、なんとその男の子も彼女といっしょに外へ出た。
そして彼女は乗って来た時と同様に急ぎ足で出口へと向かう。男の子はまるで母親に手を引かれているように見えた。ないはずの左手に……。
雑踏に紛れる寸前に、男の子は一度だけ振り向いてこちらを見た。その表情はにっこりと笑っているように見えた。それはほんの一瞬だったが、僕にはまるで周りが一枚のモノクローム写真のように止まって見えた。
〈2〉 見知らぬ駅
既視感のある街をバイクで走っていた。クリアーシールドに小さな水滴がぽつり、またぽつりと付き始める。
降って来たか……。
前方の信号が黄色から赤に変わり、僕はゆっくりと止まる。
もう何度見たことだろう。グレーの濃淡を繰り返しながらずっと向こうの果てまで続く空。辟易する。まるで僕の心模様だ。ああ、青い空が見たい。
信号が青に変わり、僕を乗せたバイクがするすると動き出す。その途端、じっとりと湿り気を帯びた風が容赦なく襲い掛かった。
灯りの消えたファミレス、よく知っている車のディーラー、セルフのガソリンスタンド、大きな工場、それらを過ぎるとまた両側には寒々とした堅田が広がっている。見渡す限り人っ子一人いない。ここはまるで廃墟のようだ。
――またここにいるのか……。
この道は片側二車線の国道か、あるいはバイパス道路だろう。両側にはどこにでもありそうな郊外の風景が広がっているが、それがどこなのかはわからない。けれど、もう嫌になるぐらい何度も見た景色だ。
道は東から西に向かってまっすぐに伸びていて、もう少し進んだ先にある大きな川が南北に道路を分断している。
やがて市街地を抜け、左右にはくすんだ茶色の農地が広がる。随分と大きな畑だ。何の畑だろうか。特産の野菜でもわかれば、ある程度地名に予想ぐらいは立てられそうなものだが。
頭の中には、地名表記のまったくない道路地図がはっきりと映っていて、その道を、まっすぐ川に向かって走っている。
吹き荒ぶ雨混じりの風は、やがて衣服をしっとりと濡らした。シールドが曇り始めた。気温が急に下り始めたようだ。いやこれはたぶん現実ではないはずなので実際の皮膚感覚としての冷たさではない。脳が冷たいに違いないと僕に認識を促している。だから季節の設定は、おそらくは冬もしくは春先だろうか。
不思議なことに、こんな大きな道路なのに、すれ違う車もなく、前を行く車もない。たった一人で走っている。ここはまるで都市の抜け殻だ。もしかしたらこの世界には僕以外、誰もいないのではないか。
目の前に大きなトラス構造の鉄橋が見えて来た。何という名前の川だろう。大きな川だ。きっと名のある一級河川に違いない。土手の上に河川の名前を記す青い看板が立っているが、その名前はぼんやりとしていて読めない。河川標識だけでなく、道路の案内標識も、交差点名もその場所を示す手掛かり的な物は一切読むことができない。まるで意図的に隠されているようだ。
道は橋に向かって緩やかな上り坂に差し掛かる。でも僕は川を渡らずに、橋の手前の交差点を右折しなければならない。正面の信号は赤だ。車が一台も走っていないのに信号が青に変わるのを待っていた。
結局一台も対向車のないまま信号は青に変わり、そして僕は川沿いの道を北に向かう。
左側に川の土手が、右手には目立った大きな建物もない平坦な田舎の風景が広がっていた。土手は枯れ草色の斜面がずっと向こうまで続いている。ということは、やはり季節は冬だろうか。
ここでバイクを停めて左の土手の上に登れば、遠くくすんだ乳白色の空の下に大きな川とその向こうに広がる街並みが見渡せたに違いない。
その景色が見たかった。その景色を知っているに違いない。けれど僕はバイクを停めない。
しばらく土手沿いに走ると、左前方にまた橋が現れた。先ほどの橋よりもかなり小さなた橋だ。車二台すれ違うのがやっとだろう。もちろんトラス式の鉄橋ではない。随分と古そうだ。
橋の手前で道は二股に分かれていて、左斜めに行けば、その小さな橋を渡ることになる。
僕は、一度止まって、左斜め向こうの橋の方を見る。併走して走っていた土手の向こうの大きな川は、いつの間にか、大河から分かれた支流になっていて、川向こうに鉄道の線路が見えた。
いつもここでそうするように、進路を左に取り、小さな橋を渡った。川幅は二十メートルぐらいだろうか。先ほどの大きな川と比べるとかなり小さい。流れによる川底の侵食を防ぐために、上流の方から小さなコンクリートの段差が幾重にも設けられている。今は水量も少ない。
その橋を渡ったところに小さな駅があった。川向こうから見えていた鉄道の駅舎だ。
駅前にはひなびたパン屋と喫茶店。どちらも扉は閉ざされたまま。依然として人の気配は無い。やはりゴーストタウンか、あるいはすべてが作り物の街か。
もう幾度と無く来ている駅。がらんとして誰もいない駅。いつもと同じ。ただどうしても駅の名前だけは、靄が掛かったようにぼんやりとしていた。
夢と言うものは、抜け落ちたり、忘れたりして散り散りになった記憶の断片を脳が適当につなぎ合わせて一つのストーリーに仕上げるのだと言う。しかし、この駅もさっきの川も道も、僕の記憶にはまったくないものだ。これは何度も繰り返し見る夢のようにも思えるし、そうでないようにも思える。数限りなく失敗を繰り返し、ゴールを目指すゲームのようだ。
前回もこの駅までは来たように思う。でも駅舎には入らなかった。そこでこの世界から、目的が一体何なのかもわからないまま抜け出すことになっていた。当然そこには僕の意思はない。だが今回は違った。そう、物語が進んだ。
駅前に到着した僕は、バイクに跨ったまま駅の中の様子をちらりと伺い、そしてバイクを降り、道から数段の階段をゆっくり上がって駅舎に入った。駅に入ろうと言う僕の意思が存在している。
今までとはまったく違う。もしかしたらそれは夢などではなく、誰かが意図的に作り上げた、まったく別の現実世界なのかもしれない。
駅に入ってすぐ左側に切符の券売機が二台。その横に有人対応の小窓のある窓口。その上には運賃を表示した路線図。やはり、駅名などの呼称は書かれていなかった。
入って右手、券売機の反対側には売り子不在の売店。その横には見慣れた清涼飲料の赤い自販機と青い自販機が二台並んでいた。
正面のプラットホームへと続く改札は自動ではない。随分と古いタイプの有人改札だった。いったいいつの時代のものか。駅舎自体がもう随分と昔の建物だ。清涼飲料の自販機の商品は今でも流通している物だが、そのパッケージは僕が子供の頃のものだ。おそらくここは忘れられた過去の記憶の世界だろう。
改札の奥に見えるホームには見覚えのある小豆色の電車が停まっていた。もちろん改札に駅員の姿はなく、ずっと開いたままになっている。僕は改札をくぐり抜けてホームへと向かった。ホームに停車している電車のドアは閉ざされたままだ。最近ではあまり見かけない片開きの一枚扉だ。
ホームから見る電車の中はがらんとしていて人影はない。まるで回送列車のようだ。
と、その時、プシューと言う鋭い圧縮音と共にガラガラっと扉が開いた。
この世界で初めて耳にする音だった。ここは沈黙の世界ではなかった。とても新鮮な気持
ちだ。開かれた扉の中は、明るい照明と木目調の化粧壁面。座り心地の良さそうな椅子。まるで僕を誘っているように思えた。
この列車に乗れば一体どこへ行くのだろう。湧き起こる好奇心が不安に打ち勝った。
僕は一歩前に進もうとしたがその時だった。突然背後で気配がした。
振り返る。人だ。それも一人ではなく大勢。さっきまで無人だった改札口の方から、いったいどこから現れたのかと思うほど、たくさんの人間がこちらに向かって迫って来ていた。
人がいたのだ。僕以外にも。親しみを込めた目でその人々を見た。
が、彼らは僕の存在をまったく気にも留めていない。いや、もしかしたら見えていないのではないだろうか。こちらに向かう人々の勢いは増すばかり。鬼気迫る。僕はその大勢の詰め掛けた人々の勢いに臆して道を開けた。
すぐ目の前をぞろぞろと列をなして車内に入って行く人々。そのほとんどが老人だった。しかし中には若い人や子供の姿もちらほらと見える。お互いに喋ることも無く、ただ黙って電車に乗り込む人々。まるで機械のようだ。どこか薄ら寒い。
全員が乗り終わると、僕の目の前でぴしゃりと扉は閉まった。
取り残されてしまった……。そして電車がゆっくりと動き出した。僕をホームの上に置き去りにしたまま。
〈3〉ミチビキさん
電車が過ぎ去った後、向かいのホームにこちらを見ながら佇んでいる人がいた。白いカットソーにジーンズ姿の女性と小さな男の子だ。男の子はたぶん母らしき女性と手を繋ぎながら僕の方を微笑みながら見ている。ただ、その女性の左腕、肘から先が見えなかった。
「ねえ、そこの人」
向かいのホームにいるはずなのに、その声は僕のすぐ耳元で聞こえる。この世界で話す人に会ったのは初めてだった。
「聞こえないの?」
「い、いや」
「あなた迎えの人でしょ? いきなりで悪いんだけどさ」
「迎え?」
僕には彼女の言う意味がよくわからない。
「この子です。この子をお願いします。この子だけを」
女性は男の子の手を振りほどいてさっと自分の前に押し出した。
「電車に乗せてやってほしいのよ。そっちのホームの」
「え? どう言うことですか?」
「とにかく、悪いけどちょっとこっち側に来てくださらない?」
「なぜあなたが連れて行かないのですか?」
「あなた、迎えの人じゃないの?」
「わかりません」
「とにかく、わたしは行けないの。ここから動けないの。だから頼んでいるんじゃない」
そう言いながら彼女は僕を大きく手招きしている。
とても嫌な予感がする。僕は急いで向かいのホームへ渡る跨線橋を駆け上がった。
階段を降りてホームに出た時、通過列車を知らせる警告音が鳴り響いていた。
電車がスピードを落とさずに入って来る。
あっ! 二人の姿がホームから消えた。僕の目の前で。
猛スピードで通過電車は去り、僕は一人ホームに残された。二人の姿は見えない。 遅かった! と思った瞬間、僕の左手に何かが触れる。
見ると、さっきの男の子だった。男の子が僕の左手を掴みながらじっと僕を見ていた。でもお母さんの姿がない。ホームから落ちたのかもしれない。そう思って僕は下を見るが、それらしき人はいない。しかし枕木の間に敷き詰められたバラストにべっとりと血のりが付いていた。
――無理心中だった。瞬間的に僕は理解した。
「さあ、行こうか」
僕は男の子の手を引いて向かいのホームへと戻った。男の子は何度も何度も後ろを振り返る。
トマドイ……。これがこの子の持っている「トマドイ」に違いない。
「大丈夫だよ。お母さんはきっと後から来るからね」
そう言うと、男の子は静かにうなずいた。
元のホームに戻ると、すぐに次の列車はやって来た。扉が開く。
と、待ち構えるように、全身、白い服を着た男が列車から降りて来た。
「ああ、この子が修一君ですね?」
白装束の男は言う。
「いえ、僕はこの子の名前は知りません、お母さんからこちらに連れて来るように頼まれただけで」
「ああ、そうですか。それはご苦労さん。あなた、この仕事、初めて? 新人さん?」
「仕事?」
「ええ、現世にあって、自分で逝くことができない死者を我々のところへ連れて来る仕事ですよ」
「なぜ僕が?」
「いや、きっとそういう役割なのでしょう。あなたのような人にしかできない役割ですよ」
今やっとわかった。なぜ僕にだけトマドイが見えるのか。
「大事な仕事ですから、これからもしっかりお願いしますよ、新人のミチビキさん」
――ミチビキさん……。
トマドイを導く人。ずっと前からあった疑問はその男の一言でストンと胸に落ちたように思う。
「じゃ、坊や、行こうか」
白装束の男は、男の子を車内に迎え入れる。
「あ、あの」
「まだ何か?」
「この子のお母さんは……」
男の子は、どこからか、ちぎれた白い左腕を出して白装束の男に見せた。
「ああ、一人現世にとどまってしまったみたいだね。気の毒なことだけど、しっかり寿命を全うしてほしいものだよ。この子のためにも」
彼女は助かったのだ。この左腕だけをこちらに渡して。
白装束の男に手を引かれて男の子は列車に乗ろうとするが、最後に僕の方を振り返り、そして言った。
「ねえ、今度どこかでお母さんを見かけたら伝えて、僕は大丈夫だからって」
白装束の男も振り返り、一度ゆっくりとうなずく。
了