追いつけない
追いつけない
もう40年も昔のことになる。その頃私は、大分県南部のK町と言うところで働いていた。
今は高速が通ったので随分と行きやすくなったが、当時はJRの駅のあるS市からさらに県道を1時間近く走ってようやくたどり着く。町と言う名称が付いてはいるが、実際には信号機が一台きりしかないような小さな漁村だった。
そのS市とK町を結ぶ県道37号線は、普通車がかろうじて通ることができるぐらいの狭く急峻な道路であった。
その日私は、赴任して間もないK町からS市へとオートバイで向かっていた。
季節は春、時刻は確か夕暮れ近い午後4時ぐらいで、日の陰り出した山腹の山桜が美しく、止まってしばらく見上げたことを覚えている。
さて、K町から走り出して、しばらくは急峻な登り坂が続き、登りきると轟トンネルと言う狭く長いトンネルが現れる。この県道の一番標高の高い場所だ。そこからS市に向かっては今度はつづら折れの下り坂が延々と続く。そのトンネルもいろいろといわく付きの場所であったが、その日私が遭遇した怪奇現象はそこではなかった。
トンネルを抜けてしばらく走り、急なブラインドカーブを抜けたところで、距離にしておそらく100mぐらい先方に一台の自転車とそれを運転する人の姿を目にした。
自転車? こんな山道に? 確かに今は下りだけれど、あの人は、ここまで登って来たのだろうか? 私がヘルメットの中で首を傾げているうちに、自転車は遥か先のカーブに消えて行った。
どうせもうすぐ追いつくに違いない。すぐ私もそのカーブに差し掛かる。
そしてカーブを抜ける――。
え? 驚くことに、再びその自転車は遥か前方を走っていた。とんでもないスピードで下っているはずだ。遠目で見たところ、スピードの出るスポーツ車ではなく、ごく普通の実用車のように見えるし、おまけに運転しているのは、作業着のような黒っぽい上着を着た年輩の男性のようだ。
そして自転車は再びずっと先のカーブに消えた。私もすぐにそのカーブに入り、そして抜ける。
と、芥子粒ほどの自転車の後ろ姿が目に入った。まただ、また追いつけない。一体どうなっているのだろうか……。
県道は、ふもとの町まで、直線、カーブ、直線、カーブと、同じような道がずっと続いていた。いくつもカーブを回り、抜け、その度に、遥か先の自転車の後ろ姿が目に入る。
いつまでたっても追いつけない。まるでこちらが走った分の距離を自転車も同じ速度でそのまま走っているみたいだ。まったく差が詰まらない。こんなことがあるのか? まるで狐か狸に化かされているのではないのか?
かなり怖くなり出した時、遥か前方を走る自転車がふっと消えた。
私はその消えた場所でオートバイを停めた。左手には崩落防止のセメントを吹き付けた斜面、右手には崖。ガードレールはない。ただ崖側ぎりぎりのところに太く大きな杉の老木が一本生えていて、その幹の部分だけ道路が狭くなっていた。ただでさえ細い道なのに、崖から道路にせり出した杉の老木のせいでさらに道路は狭く、普通車でもそこを通過するには徐行が必要だろう。
私はオートバイを下りて、崖下を覗き込んだ。谷は深く、自転車らしきものは見当たらない。遥か下に川が流れている。せせらぎが聞えていた。
異常のないことを確認してから、再びオートバイに戻ろうとした。
しかし、その時、異常は起こった。
右足が動かないのだ。まるで地面にぴったりと磁石か何かで貼り付いているような感じだ。
思いっきり力を入れると、何とか上げることはできたが、めりめりと音がしそうだった。
かろうじてその場を離れることはできたが、それからずっと右足に違和感が付き纏っていた。重いような痛いような、奇妙な感じだった。
その夜、うちに帰って、風呂に入った時、右足を見たところ、足首が青黒く腫れている。よく見ると、その青痣は足首をぐるりと回っている。これは……。背筋にぞわぞわと悪寒が走った。
――指だ。人の指の跡だ。
間違いない。地面に足が貼り付いた時、足首を掴まれていたのだ。あの消えた自転車に違いない。また拾ってしまったようだ。
翌日、私はすぐに知り合いの修験者を訪ねた。
「またおめさんか!」 と叱られてしまった。私のせいじゃないのに。
了