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悲しきIさん――ナナちゃん奇譚⑬その5

 悲しきIさん――ナナちゃん奇譚⑬その5


 バルコニーを叩く雨音はもう聞こえない。サッシの硝子窓が白く曇り始めていた。私はその前に立ち、少しだけ窓を開ける。生温く湿った夜の空気がじんわりと肌に纏わり着く。思いのほか部屋は冷やされていたのだと気付く。

「冷房少し緩める?」

 振り向いてソファーに腰掛けていたナナちゃんに問いかける。

「うん……」

 サッシ横、壁のリモコンの設定を⒉度ほど上げ、そしてそのまま再び私は深夜の戸外に目を向けた。よく見ると、向かいの常夜灯の光の中に、霧雨が映っていた。雨はまだ止んだわけではなかった。ふと気付くと、ナナちゃんが私の横に立ち、同じように暗い外をじっと見ていた。


 それから約6年間、Iさんは来る日も来る日も、翔一君の介護に追われた。

 翔一君の症状はほとんど改善されなかった。年を取り、それに伴ってある程度、脳も発達したが、依然として肢体不自由、目、耳、鼻などの感覚機能もほとんど役目を果たさず、生命維持に必要な、例えば、食べ物や飲み物を嚥下することすらできなかった。

 嚥下ができないので、唾液、痰なども呑み込んだり排出したりもできず、当然横にもなれない。

 そのため風邪を引けば即、命の危険があった。誰かが傍について常に涎を拭き、いつでも吸引できる用意が必要だった。

 ただ意思疎通はある程度できるようになっていた。「いいえ」は、ゆっくり首をふること。「はい」は頷くこと。それだけはできるようになっていたので、快、不快はかろうじてIさんにはわかるようになっていた。それだけでも相当な進歩だった。


 さて、ナナちゃんもIさんも、幼い子供を持つ母だったので、お店ではどちらも昼出勤だった。いつもほぼ同じぐらいの時間帯に出ていたので、客待ち時間にどちらともなく話すようになり、そのうちにすっかり打ち解けて仲良くなった。おそらく二人ともその性格が合っていたに違いない。

 やがてナナちゃんはIさんの抱えた事情の一部始終を聞き、Iさんの大変な身の上を案じて、できるだけ協力したいと言ったのだそうだ。

 もちろんナナちゃんは翔一君とも会った。協力と言っても、障害児を乗せる専用の大きな車椅子を押す手伝いをする程度ではあったが、いつも親身になってIさんの話を聞き、困ったことがあればできる限りの協力を申し出た。ナナちゃんらしい。

「Iさんな、めっちゃ明るかったよ。いっつも楽しそうに笑ってやった」

 ナナちゃんは言う。でもそれは、気丈なIさんの辛い心の裏返しであった。


 そしてある日を境に、ナナちゃんはIさんを見かけることはなくなった。

 仕事の内容柄、従業員同士の、特に女の子間のプライベートは秘密保持されているのでスタッフに尋ねても教えてはもらえなかった。電話すると留守電になっていたので電話をくれるように、とだけ入れて電話を切った。

 その後、3日経っても1週間経ってもIさんは店に現れることはなかった。ナナちゃんはいよいよ心配になり、再び電話すると、なんと「この番号は現在使われておりません」と冷たいコールが流れ、再度スタッフにしつこく尋ねると、「Iさんはもう辞めた」とだけそっけない返事が。

 慌てて家に行ってみる。すると、すでに引っ越した後で、部屋は空室になっている。

 一体どうしたのだろうと心配していたところ、翌日、ナナちゃんの家にIさんから手紙が届いた。


「これ」そう言ってナナちゃんは私にその手紙を差し出した。

「読んでもいいの?」

「うん。ええよ。けど心して読んでな」

「ああ」


 七菜さんへ

心配かけてごめんなさい。

私が翔一をこの手に掛けました。私は罰を受けなければなりません。

朝、私がシャワーを浴びている時のことでした。翔一は、早朝に入れたエンシュアを嘔吐してそれを誤嚥してしまいました。吸引してほしかったのでしょう。翔一は私を懸命に呼んでいたようです。でもわたしはいつものようにシャワーを浴びていました。たぶん時間にすれば十分にも満たないほんの僅かな間でした。

浴室から出て来た時、車椅子から転落して床で苦しんでいる翔一を見つけました。おそらく何かのはずみで転倒してその反動で胃から逆流してしまったのでしょう。私は、慌てて駆け寄ると、翔一は眼をほとんど閉じ、ほんの少し開いた瞼は白目をむいて、ひゅうひゅう喉を鳴らしながら一生懸命空気を吸おうとしていました。

今ならまだ間に合う。私は吸引しようと、慌てて翔一に触れたその瞬間、翔一は僅かに残った力で、いやいやと首を左右に振りました。それはいつもの拒絶の合図でした。六才の翔一の必死の意思表示を目の当たりにした私は、その場で動けなかった。手が出せなかった。これ以上翔一を苦しませることはできません。もう十分です。この子は十分苦しみました。おそらくこの先もずっと苦しむ翔一をこれ以上見ていることはできませんでした。私にそんな権利があるとは思わないけれど、もう解放してあげたいと思いました。

徐々に翔一から命の光が薄れて行って、やがて動かなくなりました。

警察の方に正直にすべてをお話しました。警察の方は私にこう言いました。これは事故や。あんたはやるだけのことはやった。すぐには無理かもしれへんけど、あんたはまだまだ若い。これからいい人にもめぐり合うこともあるやろう。お気の毒やけど息子さんのことは諦めて、新しい未来に向かってしっかり歩いてください。いいですか? これは事故やから自分を責めたらあかん、と。

そんなこと到底私には納得できません。翔一がこんな不自由な体になってしまったのも元はといえば私に責任があります。ですから翔一ひとりで逝かせるわけには行きません。この子はとても弱く、私を必要としています。警察が私を裁かないと言うのであれば私もいっしょについて行こうと思います。どこまでもいっしょに行こうと思います。翔一と私は一心同体です。

七菜さんには感謝してもしきれません。こんな私と翔一に親身なって接してくれたのはあなたが初めてでした。世の中にはこんなにやさしい人もいるんだと感動いたしました。そのやさしさはきっと世の中を明るく照らしてくれるはずです。私はあなたに会えて本当によかった。ありがとう。

翔一が待っています。さようなら。

次に生まれ変わっても、また友達でいてくださいね。

                                  I     


                         

                                     続く   





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