悲しきIさん――ナナちゃん奇譚⑬その3
悲しきIさん――ナナちゃん奇譚⑬その3
――やめて!
浴室内にIさんの叫び声が響く。
K谷の手を振り払い、慌てて後ずさった彼女は洗面所の框にかかとを引っ掛けて派手に尻餅をつき、その衝撃であろうことか翔一君を手放してしまった。
白いフリースのブランケットから転がり出た翔一君は一瞬の沈黙の後、火の付いたように泣き声を上げた。
Iさんは急いで立ち上がろうとしたが足と手に力が入らない。
恐怖でその場から動くことができなくなってしまった。
浴室の入り口で仁王立ちになったK谷が泣き喚く翔一君の方をじろりと見た。咄嗟にIさんが翔一君を守ろうと手を伸ばすが、それよりも先にK谷は獲物に跳びつく獣よろしく目にも留まらぬ速さで翔一君に近付き、そして掴み抱き上げ、大声で言った。
「お、お前、こ、こいつ、ど、どこで拾って来たんや」
呂律が回っていない。完全に酩酊している。
「あかん、やめて、何すんの! 翔ちゃんから手を離して!」
Iさんが懸命に翔一君を奪い返そうとするが、K谷の体はまるで全身が鋼のように硬く、そして血管の浮き出たその丸太のような腕はがっしりと翔一を抱いたまま離さない。
「う、うるさい、こいつ、何や」
「うちの子や、離せ!」
「こ、こいつが子ぉやと? こ、こいつは、でかい、気色の悪い……」
そう言いながらK谷は翔一君を顔の高さに抱え上げた。
「こ、こいつはなぁ、ミ、ミミズや! ミミズの塊やないけ、気色の悪いミミズが体じゅうから噴き出しとるやないか、お、俺が退治したる」
「あかん、何するんや、やめて! お願い、酷いことやめて。翔ちゃん返して!」
「じゃかましい!」
そう言うや、K谷は泣き叫ぶ翔一を勢いよくバスタブに投げ込んだ。
ドボン! と言う音と供にバスタブに沈む翔一君。
Iさんは慌てて助けに行こうとするが、丸太のような腕が彼女を掴んで離さない。
バスタブの底でもがく赤ん坊。時間にして十数秒、しかしその僅かな時間が確実に翔一の命を削ってゆく。
咄嗟にIさんは、足元にあった頑丈なヒノキの風呂椅子を掴み、闇雲に振りかざした。
非力な女性の腕力では重い椅子を片手で掴み上げるだけでも精一杯だったが、偶然にも力任せに振りかざした椅子の角が金谷の右目を直撃する。
ぎゃっ! と言う悲鳴を上げて顔を押さえながら崩れ落ちるK谷。
その隙に横をすり抜け、湯船に駆け寄り、ぐったりしたわが子を底から抱え上げた。息をしているのかいないのかさえもわからない。その時Iさんの恐怖は頂点に達した。
額から血を流してうずくまるK谷には目もくれず、靴さえも履かずに玄関を飛び出した。隣近所に助けを求めることも忘れ、ただ一刻も早くその場を離れたかった。その腕にはしっかりと翔一を抱いたままで。
幹線を外れたマンション前の道路はこの時間帯、通る車もない。雪混じりの冷たい雨が、街灯に照らされて白く舞っていた。
誰でもいいから助けて! Iさんは半狂乱になりながら、びしょ濡れでぐったりした翔一君を抱いたまま、街灯もまばらな夜道を走った。素足の痛みすら忘れて。
その間にも氷点下まで下がった真冬の冷気に晒されて翔一君がどんどん冷たくなって行くのがわかった。それはIさんの正気まで凍らせてしまいそうだ。
その時、遠くにこちらへ向かう車のヘッドライトが見えた。彼女は一目散に走った。
ハイビームの白い光の中に突然飛び出した人間に驚いたドライバーは力任せにブレーキを踏んだ。真夜中、辺りには水の枯れた田んぼしかない。静寂に耳をつんざくタイヤの音が響き渡った。そしてぎりぎりのところで車は止まった。
「あほんだら! 危ないやないか! 死にたいんか!」
「助けて!」
運転席から飛び出した男の罵声にも負けずにIさんはその腕に付いて離さなかった。最初、運転席から車に向かって突進して来るIさんを見た時、男はただの酔っ払いかと思ったらしい。
だがよく見ると、この寒空に靴さえも履かず、目の前に飛び出して来たびしょ濡れの赤子と女性。これは尋常ではないと状況を理解した男はすぐに近くの救急病院へ二人を運んだ。
四の五の言う状況ではなかった。
結局、翔一君が湯船で溺れてから病院で蘇生術を受けるまで30分以上も要したが、奇跡的に一命は取り留められた。
本来ならばそれほど長い時間心肺停止状態が続けば助からないことが多いが、湯船から救い上げられた後、全身びしょ濡れのままで、雪混じりの雨の降る寒い夜、家から病院までの移動に時間を要したことが偶然にも幸いした。
体温はぎりぎりまで下がり、生命維持活動が抑制され、その結果、翔一君の体は低体温状態となり奇跡的にその一命は取り留められた。
続く