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悲しきIさん――ナナちゃん奇譚⑬その2

 悲しきIさん――ナナちゃん奇譚⑬その2


「翔一くんが生まれてまだ一年経つか経たないかの頃やった……」

 バルコニーを叩く雨音が再び大きくなった。私は藍黒い夜をじっと見ていた。窓から洩れた光が、降り止まぬ雨を針のように白く光らせている。長い夜が始まったのだなと思った。

 それまで5年近く北新地でホステスをしていたIさんには、ある程度のまとまった額の預貯金があった。しかし入院出産にかかる費用や、翔一君を迎え入れるための新居への引越し、その他育児にかかる費用などを出せば、彼女の蓄えはあっという間に底をついてしまった。

 Iさんは蓄えが底を尽き掛けると、一才にも満たない翔一君を保育園に預けて、再び夜の仕事に戻った。それは以前勤めていた北新地のクラブではなく、近鉄I里駅からすぐのところにある場末の歓楽街だった。


 その場所は、保育園から近いことも選択理由の一つであったが、翔一君との生活を一番と考える彼女は、たとえ収入が減っても、スケジュールやノルマに縛られる北の高級クラブより、気取らないラウンジをあえて選んだ。

 とは言え、乳飲み子一人育てるぐらいの生活ならば、何も水商売になど戻らなくても、国から児童扶養手当をもらうことができたはずだし、衣食住に贅沢を言わなければ、他のシングルマザーと同じで生活ぐらいは何とかなったのだろうと思う。

 しかしIさんはその派手で勝気な性格もあり、自分も子供も含めて凡俗な庶民的生活に甘んじるタイプではなかった。服は古着や量販店のものは決して着ないし、車は小さいながらも欧州車に乗っていた。つまり身の回りの物すべてが銘のある物でなければ気が済まなかった。

 もっとも彼女の持って生まれた美貌はそれらを身に着けることによってさらに洗練されたものになった。また別の見方をすれば、翔一君を私生児として産んだことに対する罪悪感をその派手な振舞いで埋めようとしていたのかもしれない。

 ただ、その頃の彼女は、他人から随分と陰口を叩かれていたらしい。でも彼女はそんな誹謗中傷などにはびくともしない芯の強さがあった。それは自分の過去に対する戒めもあったのだろう。もう二度とあのような惨めったらしい生活には戻りたくないと言う。


 さてIさんが夜の仕事に戻っておおよそ三ヶ月が経った頃のこと。

 北新地からI里に移ったわけだが、場所柄が変われば客層もそれなりに変わる。

 Iさんはそのラウンジの常連だったK谷と言う男と親しく付き合うようになった。K谷は関西に拠点を持つ今で言うところの反社会組織、広域指定暴力団の下部組織の構成員だった。そう言えばまだ聞こえはいいが、代紋をちらつかせてユスリタカリを繰り返すどうにもならないただのゴロツキだったようだ。

 普通に考えるならば最悪最低の男だった。Iさんはそういう最低の父親、最低の義父に輝くべき十代を無茶苦茶にされて来たはずだ。

 なぜそんな男に惹かれたのか疑問だったが、ナナちゃんは「なんとなくわかる気がする」と言った。力で相手をねじ伏せるぐらい気勢のある男に惹かれたのか、彼女のもっとも深いところにある欲望がそう言う男でなければ満たされることはなかったのかもしれない。

 いずれにしても今はもう想像でしかない。その頃のIさんの体中には青痣が絶えなかったと言う。殴られても足蹴にされてもそれでも尚、彼女は気丈に耐えていた。自分を犯そうとした義父を包丁で刺すほど勝気なIさんが一度嵌ってしまえばこうも従順になるものかと言うぐらいに……。

「バカじゃろ、うち、気ぃ付いたら憎むほど嫌いで捨てて来た母親と同じやけん。うちの体にも同じ血が流れよるんよ」とIさんはナナちゃんに笑いながら話したそうだ。


 ある冬の日のこと。その日は、朝から降り続いた冷たい雨が、夜半にはみぞれに変わった。

 Iさんは店を終えて、日付が変わる頃、翔一君を深夜営業の保育園から引き取り、抱きかかえて部屋に戻った。

 鍵が開いていた。玄関には一目でK谷の物だとわかる黒い革靴が乱雑に脱ぎ捨てられていた。嫌な予感がした。

 灯りの点ったリビング。店でしこたま飲まされたIさんにもわかるぐらいビールの臭いが辺りに漂い、しかしK谷はいない。部屋の中央に置かれたコタツの上には酎ハイとビールの空き缶が数個、その内一つは横倒しになり、そこからこぼれた薄黄色の液体がコタツの天板に大きなビールの海を作っていた。

 そしてその海の中に目を疑う物が転がっていた。――注射器だった。

 IさんはK谷が覚せい剤の常習者であることは知っていた。そして今までも「決めてアレするととんでもなく気持ちがええから」と何度も勧められた。

 しかし彼女は頑なに断ってきた。明らかに非合法、犯罪だ。にもかかわらず、そういう世界がすぐ身近にあり、極めて非日常的なことなのにいつの間にか彼女自身も当たり前のことのように麻痺していた。

 だが、今、目の前にあるそれは、彼女を震え上がらせ、それが決して尋常ではなく狂気の世界の産物であると思い出させるには十分だった。

 Iさんは不安を覚えて、翔一君をしっかり左腕に抱きかかえたまま、恐る恐る右手で寝室のドアを開けた。暗い寝室。手探りで壁の灯りを点けると、ベッドにはK谷の着ていたと思われる上着や、ズボン、靴下、そして下着までが脱ぎ捨てられていた。しかし部屋にK谷の姿はなかった。

 その時、聞き覚えのある男の、呻きとも喘ぎともつかぬ情けない声がバスルームの方から聞こえた。

 あの声は何だっただろう? 

 咄嗟にIさんの脳裏に蘇ったのは、はるか昔に見た古い映画の中のワンシーンだった。

 豚だ。屠殺される豚の断末魔にも似ている。翔一君を抱くその左腕にさらに力が入った。そして右手でゆっくりと音がしないように洗面所に通じるアコーディオンドアを開ける。

 ――いた。

 洗面所と浴室を隔てる扉は開けっ放しで、K谷は湯気の上がる湯船にその半身を仰向けに浸し、刺青の入った右腕を動かしながら恍惚としていた。泡にまみれたグロテスクなK谷の狂気が目に入った。思わず翔一を抱くその手にぐっと力が入る。

 K谷はゆっくりIさんの方を見た。

 翔一君を抱きかかえたままのIさんを飢えたケダモノの視線が捉える。

(やばい!)咄嗟にIさんの背筋に戦慄が走った。

 K谷はザバッと勢いよく浴槽から立ち上がった。Iさんは凍りついたようにその場を動けない。

 次の瞬間、K谷は人間離れしたスピードで彼女に掴みかかろうとした。

 その目は完全に常軌を逸している。


  ――やめて!


                              続く


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