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悲しきIさん――ナナちゃん奇譚⑬の1

 

 まず、これからこのお話しをお読みになる方々には、私がこれを文章に起こすに当たって、悩んで悩み抜いた結果であることをどうかどうかご理解していただきたいと思います。


 

  悲しきIさん――ナナちゃん奇譚⑬

 

 あれはもう10年ほど昔になる。

 梅雨の長雨の続く、ある7月の夜のこと。どうしても聞いてほしいことがある、とナナちゃんから電話があった。いつものあっけらかんとした口調ではなく、かなり切羽詰まった声だったので、私は急いで彼女の家に車を走らせた。


 今はもうすっかり足を洗ったが、その頃ナナちゃんはまだ夜の仕事を続けていた。

 その店に昼間出ていたIさんと言う女性が居た。

 ナナちゃん曰く、Iさんはもうすぐ三十路を迎えるとてもきれいな女性だったらしい。Iさんには5才になる息子さんがいた。名前を翔一君と言った。気の毒なことに翔一君は、重度の脳性麻痺を持つ障害児だった。


 その夜、ナナちゃんの子供たちが寝静まってからのこと。

リビングで私とナナちゃんはソファーに並んで腰掛けて、正面のアルミサッシから見える暗い外を眺めていた。ナナちゃんの右腕が私の左腕にそっと触れる。これはもしかしたら私を誘っているのでは? と一瞬、邪な考えが脳裏をよぎる。

 と、その時、いきなりザーっと言う音が聞こえた。私は驚いてナナちゃんの方を向く。

「雨?」

「うん。バルコニーを雨が叩く音やねん。すごい音やろ。夜は特に響くねん」

「そうか。明日も雨って言うてたもんな。梅雨は嫌いや。頭痛が酷くなる」

 ナナちゃんはそれには答えず、ただサッシを流れる雨粒をじっと見ていた。――私は先ほどの邪な考えを恥じた。なぜなら、彼女の頬には涙の雫が光っていたから。

 どうしたの? とも、大丈夫か? とも私は言えなかった。気まずい時間だけが流れた。

 バルコニーを叩く雨音が少し和らいだ頃、ナナちゃんが口を開いた。

 

 ――なあ、人ってな、幸せになるために生まれて来るんやって昔、本で読んだことあるんやけど、そんなんウソやんな……。


「うん。たぶんウソやと思うよ……」僕は答える。

 ゆっくりとナナちゃんの方を向く。濡れた瞳にぶつかる。

「思うんやけど、それって苦労したけど最後には幸せになれた一部の人だけにあてはまることで、苦労したけど結局不幸のまま終わった人は、幸せになった人の足元で無数に転がってる。幸せになるために生まれて来た言うのんは、一見、もっともらしく聞こえるけど、励ましじゃなくて勝ち組の自慢なような気がする。僕の言うこと卑屈かな」

「ううん、卑屈やなんて思わへんよ。あたしもそう感じてるもん。……あのな、今日、お葬式に行って来たんよ」

 雨音がまた少し大きくなった。

「Iさんて言うんよ。やさしくてしっかりした人でね、あたし、ほんまのお姉さんみたいやって思ってた」

「聞いてほしいのはその人のことやな?」

「うん。聞いてくれる?」

「ああ」

 私はゆっくりと頷いた。


 さてここから、Iさんの事跡を辿ってみたいと思う。

 Iさんの出身は九州中部の小さな山村だった。彼女は18才で家出同然に大阪へやって来た。家を飛び出したことには次のような凄惨な訳があった。

 元々彼女の父と言うのが、双極性障害そううつがあり、おまけにひどいアルコール中毒で、毎日のように飲んで暴れて彼女の母に暴力を振るっていた。

 彼女は幼い頃からそんな母の姿を見て育った。ところが、彼女が中学2年の時に、そのアル中の父が首を吊って自殺してしまった。元々精神的に弱い人だったので、酒に溺れたのもそれが原因だったのかもしれない。

 その後、母は近所の人の勧めで再婚した。ところがその再婚相手の義父と言うのがさらに酷かった。酒こそ飲まなかったが、今度は女癖がとことん悪かった。

 結論から言うと、当時15才のIさんは、義父にその純潔を奪われてしまった。しかも一度だけでなく、何度も。母に泣きながら相談すると、母はたった一言「目ぇつぶっちょったらすぐ済むけん」とだけ言ったそうだ。

 そう言えば母は酒乱の父から毎晩のように殴られ蹴られしていたのに、抵抗することも人に相談することもせず、ただじっと耐えていた。母はそんな人だった。

 でもIさんは違った。高校一年の夏のある日、台所で流しの前に立ち、水を飲んでいたところを義父に背後から羽交い絞めにされた。それまで数カ月に渡り、何度も襲われていた。

 その時、Iさんの怒りは腹の底から沸き上がり、とっさに目の前にあった包丁で義父の腕を切りつける。義父は腕を押さえて逃げて行ったそうだ。

 それ以来彼女が義父に襲われることはなくなったが、高校を卒業するまで父とも母とも口を利くことはなく、高校を卒業すると同時に、逃げるように家を出たのだそうだ。

 大阪に出て来たが、18才の家出娘の行く先などはなく、夜の公園のベンチで一人座っていたところを、そう言う女性を専門に声を掛けるその手の男に拾われることになった。よく映画やドラマではそんな話はよくあるが、実際にそういうことがあった。その当時は今ほど、身元や年齢などにうるさくはなかった。さっそくIさんには、狭い住居があてがわれ、住み込みで夜の店に顔を出すことになった。

 Iさんは美人でスタイルも良かったので、勤めた店でもすぐに人気は出た。

 懇意にしてくれる上客が何人もついたが、その中で、ある妻子持ちの会社役員と不倫して結果、翔一君が生まれた。

 そのことをナナちゃんはこのように話した。


「うん。それでな、あの子、妻子ある人と不倫して、ほんで翔一くんが生まれたんや。けど、略奪してやろうとか、そんなことじゃなかったみたい。初めから独りで産んで独りで育てるつもりやったらしい。せやから妊娠がわかった時、すぐに店辞めて、その相手とも自分から別れてんて。あの子、子供がほしかったみたい。その相手の子がほしかったのか、単に子供がほしかったのかはわかれへんけど、とにかく自分の子供がほしかったって言ってやった」

 

 淋しかったに違いない。自分が確かに生きていると言う証明がほしかったのかもしれない。そしてIさんは翔一君を産んだ。しかし翔一君は生まれながらにして障害児ではなく、五体満足の健常児だった。

                                   続く     






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