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美鈴さん姐さん②――梨

  美鈴さん姐さん②――梨


 母が父と出会ったのは昭和16年のこと。母が21才、父33才の時だった。その年の12月に日本は太平洋戦争へと突入して行く。巷には勝ち戦のムードが漂い、人々の間には何の不安もなかった。もちろん父の事業も拡大の一途を辿っていた。

 「浮気は男の甲斐性」がまだまだ幅を利かせていた頃のこと。その当時、父には本妻さんと母以外にまだ2人の愛人がいたようだ。しかし父が母に対して持った感情は他のどの女性とも明らかに違っていた。

 その頃の母は、京都にある五花街でも特に大きかった祇園甲部ぎおんこうぶの人気芸妓だった。芸名を美鈴と名乗った。美鈴姐さんではなく、その世界では、美鈴さん姐さんと呼ばれていた。美鈴さん姐さんは、老若男女を問わず、誰からも慕われていた。それは母の努力の結果だ。わずか10才で親に売られてからその身の不運をかこつこともなく、辛抱に辛抱、努力に努力を重ねてようやく手に入れた地位だった。

 だから母は芸妓と言う自分の仕事に大変な誇りを持っていた。自分は自分であって誰の所有物でもない。母は言い寄る男たちの誘いをことごとく断り、世話になっているお茶屋のお母さんの勧めも丁寧に断りを入れた。そして生涯を花街に捧げようと考えていた。

 そんな時に、母は父に出会った。接待のために訪れたお茶屋では、父はまだまだ若くお兄さんと呼ばれていたらしいが、こと仕事に関しては相当なやり手だった。

 父は初めて出会った母に一方的に恋愛感情を持ったそうで、それこそ三日にあげず母の下へと通い詰めたらしい。しかし母は簡単には折れなかった。

 その間に戦況はどんどん悪化して、父の工場にもその煽りが否応なく襲い掛かり、花街でも派手な行事は一切禁止とされ、明治初期より始まった都をどりも公演中止となった。

 そういう不安な社会状況も影響はあったのだろうと思うが、二人の間が急速に接近したのもこの時期だった。そのような社会不安の中にあっても父の母への思いはますます強くなって行き、やがて母はそれまでの頑なな気持ちを徐々に軟化させつつあった。 

 母はすでに借金をすべて完済していたが、父は、その時の自分にでき得る誠意を置屋に支払い、母は花柳会を離れる決断をした。 

 当初は一方的な父の母への熱い思いのように見えたが、本当に惚れていたのは母の方だったようだ。

 長かった戦争が終わり、父はその財産のほとんどを失ってしまったが、ここからが、本当の意味で父の手腕が試されたと言える。

 生業の復活に向け、父は母を一人の大切な女性として、また、有能なビジネスパートナーとして迎え入れた。母は、それこそ海千山千の人生を生き残り、礼儀作法にも長け、おまけに器量も良かったので、仕事の上でも父にはなくてはならない存在となっていた。

 二人が付き合い始めた当初は、また父の悪いクセが始まったと世間では噂されていた。でも時間が経つにつれ、有能な母の陰口をたたく人はほとんどいなくなった。父といつもいっしょに出かける母。籍こそ入っていなかったが、母は実質的に父の第一婦人だった。


 さて気に入らないのは本妻さんだ。ただの愛人ならいざ知らず、あれよあれよという間に自分の縄張りをどんどん侵食し始めたのだから。

 本妻さんは、良家の子女で、何不自由なく育てられて、父と見合いで結婚したが、家事以外のことはほとんど何もできなかった。その上致命的なことに彼女と父の間には子供ができなかった。

 そしてさらに追い打ちを掛けるように、母が私を身籠った。この時、母39才、父59才だった。これはまさに二人の強い意志が起こした奇跡だったに違いない。

 しかし問題はここからだった。出産当時、母40才と言う高齢の上、医療体制も今とは比べ物にならない昭和30年代のこと。おまけに母は若い頃の傷ましい生業の関係で数回の堕胎を経験していたので、母の子宮は大変不安定な状態だった。実は私の前にも男の子を一人流産していた。 

 だから私を身籠った時、母に取ってまさに決死の覚悟であったに違いない。

 医師はやめた方が良いと何度も忠告した。実際、妊娠中も不安定な状態でおまけに妊娠中毒症も併発して何度も入院を余儀なくされた。

 でも本当は、母も不安だった。ある日、入院中に、本妻さんが、父からの見舞いと称して高級な梨を持って来たことがあった。本妻さんは母の目の前でその梨を剥いて、「主人からあんたの好物やて聞いて来ました、さあどうぞ」と勧めた。

 なんと、その梨は腐っていた。しかし母は、何も言わずに口を付けた。この時、何があっても絶対に産んでやると決心したと言う。皮肉にも本妻さんの嫌がらせが、母の気持ちを後押しした結果となった。

                                  続く

 


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