美鈴さん姐さん①――業
前回、亡くなった母のことを書かせていただきました。それと少し重複しますが、今回は、母の生い立ちからその数奇な運命をたどった人生を書いてみたいと思います。少し長くなりますので何回かに分けたいと思います。
美鈴姐さん
1、業
大正9年10月10日、北海道空知郡沼貝村(現美唄市)で母は生まれた。4人兄弟の下から二番目で、上には兄と姉、そして下には弟がいた。
母の父(私の祖父)は、名を多喜三と言い、北海道に移り住む以前、新潟で事業を営んでいたが、大正4年の三菱美唄炭鉱の開業を機に、新潟から北海道へとその拠点を移した。
多喜三は、元々は呉服問屋を主業としていたが、炭鉱で栄える美唄の街で、衣類だけでなく、ニーズに応じて、食品、雑貨、日用品等、今で言うところの百貨店を経営し、それが見事に当たり、数年で大きな財を築いた。
しかし幸運はそうそう続かない。人に勧められて、あずきの先物相場に手を出した。
初めの何年かは儲かったらしいが、昭和6年夏に記録的な大冷害が東北、北海道を襲った。
元々が枯れた北の大地のこと、農民たちは僅かな雑穀で飢えをしのいだが、それもない地域では木の芽や草の葉を食べたといい、その飢餓人口は45万人に上った。幼い子供たちは飢えのために多くの命を落とし、若い娘は次々に売られていった。もちろん多喜三も例外ではなく、それまで築いて来たすべての財産を失い、さらに膨れ上がった借金返済のために、翌年には母の姉を、そしてその次の年には母をまるで物を売るように女衒に売り払った。母がわずか九つの時だったそうだ。
親が金に困って娘を売る。今ならば明らかに人身売買だが、当時は、親の権限で娘を売っても良いと国が認めていた。当時のキリスト教文化に染まっていない日本では、性を売ることに関して今ほど罪悪感はなかった。と言うより、国外に売られて行った娘たちは、外貨獲得のための手段であったらしい。とんでもない時代だった。
国外に売られた娘は、当時、九州長崎では、カラユキさんと呼ばれていたが、九州だけでなく、その存在は全国的に広まっていた。
母の5才上の姉は名を静枝と言い、母とは大変仲の良い姉妹だったが、15才で売られて行った。
姉が売られる朝、降り止まぬ雪の中で、仲の良かった姉妹は、女衒が引き離すまで、抱き合ってその別れを惜しんだと言う。
そして、外見がかなり美しく、月のものすらまだだった母は、新潟古町の、とある置屋の女将に見初められて買われて行った。今では舞子芸子を売り出す言わば芸能プロダクションのような存在である置屋も、その当時は、今の京都にあるような舞子芸妓養成所とは程遠く、いわゆる遊郭に毛の生えた程度のものだったらしい。
そんなところへ母は買われて行った。多喜三の作った莫大な借金をわずか十やそこらの娘が負わされてしまったわけだ。でも苦しいとかしんどいとかそんなことは言っていられない。死ぬ気で稼ぐか、本当に命を絶つか、どちらかしか道はなかったようで、今の平和な世の中からは想像もできない。
でも母はとても強かった。血の滲むような修行を積み、あっという間に看板の芸子になった。母を買って行った女将の目に狂いはなかったのだろう。
そして親の借金をすべて返した時、自らの意思で新潟を離れ、京都の置屋に芸妓として上がった。そこには、母の女としての強い意志や野望が感じられる。
先に国外へ売られた姉の静枝は、何年か後に、満州で生きていると風の噂で聞いたらしい。しかしそれも戦争の最中でのこと。結局、真偽はわからず、残念ながら母は、姉に二度と会うことはなかった。
一方、私の父は、北九州の小倉から大阪に出て来て、丁稚奉公から一代で身を興し、大阪砲兵工廠のすぐ近くで軍指定の大きな軍需工場を経営していた。父は、軍の重要人物だったので召集を受けることもなかった。
そして戦後は、すべてが空襲で焼かれてしまったけれども、父の持っているノウハウまでが焼かれることはなく、一度は戦犯として裁判を受けたが、無事釈放された。
時代が父を必要としていたのだろう。やがて父の手腕は、朝鮮戦争の戦禍で荒れる半島で生かされることとなる。再び父は才覚を大いに発揮して商売を拡大して行った。飛ぶ鳥を落とす勢いならぬ、兵器屋だけに、飛ぶ飛行機を落とす勢いとはこのことで、父は一代で、中央競馬会(今のJRA)に何頭も競走馬を持つほど大成功を収めた。
そして父は京都で、芸妓だった母(芸名美鈴)と運命的な出会いをする。
ただ私には気にかかることがある。父の成した地位も名誉も、そして多大な財産も、それはおそらく戦争で亡くなった大勢の人間の流血の上に成り立っていると言うこと。
父が製造した兵器が罪もない子供たちの命まで奪ってしまったと言う事実。
そして私もやはり、その恩恵に与っていると言う事実。
そんな時代だと言えばそうなのかもしれないが、やはり私にはどうしても引っかかる。
もしかしたらこれが私の引き継いだ「業」なのかもしれない。
私がこの世に生を受けて、今まで度々、不可解な経験をして来たことも、もしかしたらそこから来ているのかもしれない。
続く