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姉 妹

 

 ――病床の母は息子である私を見てもわからなかった。

 私の母は、80才でパーキンソンを発症し、それが原因で買い物途中に足がもつれて派手に転倒。

 元々骨粗しょう症であった母は、両腕、両肩の計4箇所もの骨を一度に折ってしまい、すぐに救急車で病院に搬送された。

 当初、骨折の治療のために入院していたが、やがてパーキンソンも重症化し、歩くことはおろか、食べ物を咀嚼して飲み込むことさえできなくなってしまった。

 当然、寝たきりの期間が長く続き、そうなるとお決まりのように認知症も発症してしまった。

 入院3年目。近頃は、「ああ、あんた新人さんか?」と私の顔を見るたびに言う。私を新しい介護士だと思っている。

 そんな母は、一日のほとんどを眠っていたが、起きている時はいつもにこにこしている。ただそれだけが、せめてもの救いであった。


   姉 妹 


 大正9年、北海道の美唄と言う田舎町で母は生まれた。4人兄弟の下から二番目だった。上には兄と姉、そして下には弟がいた。当時母の父はけっこうやり手の実業家だった。本土から炭鉱で栄える北海道へ事業拠点を移し、元々は呉服店を経営していたが、その他の需要を見込んで、今で言うところの百貨店を美唄で開業した。

 それがみごとに当たり、数年で大きな財産を築いた。しかし幸運はそうそう続かない。人に勧められて、あずきの先物相場に手を出した。初めの何年かはかなり儲かったらしいが、ある年、大変な冷害に見舞われ、畑はほぼ壊滅状態。それで祖父は築き上げた財産のすべてを失い、逆に大きな借金を作ってしまった。

 その返済のために、娘を売った。当時、政府は親が子供を売ることを禁じてはいなかった。

 外国に売られた娘は、その当時、九州では、カラユキさんと呼ばれていた。母の故郷は九州ではなかったが、日本全国にそんな女性は山ほどいたのだろう。

 母の5才上の姉は名を静子と言い、母とは大変仲の良い姉妹だったが、15才で女衒に売られて行った。何年か後に、姉は満州で生きていると風の噂で聞いたらしいが、それも真偽はわからない。

 静子が売られた時に、まだ9才だった母は、姉との別れが、ただ悲しくて、真っ白な雪の中で、いつまでも泣いていたのだと言う。そんな母も姉が売られた翌年、わずか10才で、新潟の置屋に買われて行った。まだ年端も行かなかったので外国には売られなかっただけでも幸いだった。

 私はその話を初めて聞いたのは、高校生の時だったので、にわかに信じ難かった。この豊かな日本で、本当にそのような悲しい出来事があったことが信じられなかった。 

 それから約40年の時が流れた。高校生だった私は50才を越え、母は81才になった。

 しかし何年経とうが、母の心には、子供の頃に泣き別れた姉の面影がずっと残っていたのだろう。

 

 その夜、仕事で遅くなった私は、ようやく病院に着いた時、母はやはり眠っていた。

 「さっきまで起きてはったんですけどね」と看護師が言う。

 静かに眠っている母の顔には苦痛の色はない。せめてそれが救いであった。

 と、その時、母が突然、目を開けて、何かを言おうとしていた。私は口元に耳を近付けて必死で聞き取ろうとした。

「シズネエ、シズ姉さん……」

 母がうわごとの様に言う。シズ姉、母のたった一人の生き別れた姉の名前だ。

「母さん、静子さんが、どうかしたのか?」

 私は母の手を握って問いかける。

「シズ姉、置いて行かないで、シズ姉、行かないで……」

 次第に、うわごとからはっきりとした口調に変わる。

 母は泣いていた。

「母さん!」

 目覚めた母は、じっと私を見つめ、「ああ、あんた、来とったんか」と言った。

 珍しく私のことがわかっていた。

「母さん、大丈夫か?」

「ああ、シズ姉がな、今来てくれたんよ」

「もうおらんの?」

「うん、また置いて行かれてしもた。私も連れて行ってって言うたんやけど、まだあかんて言われてしもたわ」

「うん、まだあかんよ……」


 その1年後、母は85才の生涯を終えた。きっとあっちでは姉妹仲良く暮らしていることだろう。


                            了

 


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