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尊き みはしらに捧ぐ


  尊きみはしらに捧ぐ


 何年か前に、私はナナちゃん一家と私の息子たちを連れて、富山県の立山へ2泊で旅行に行ったことがあった。その際、私たちは黒部ダム(黒四ダム)に立ち寄った。

 理由は石原裕次郎主演映画、黒部の太陽を見て触発されたわけでも、プロジェクトXを見て感銘を受けたからでもない。その旅の第一目的は、立山登山だったが、初日に少し時間があったので、じゃあ、せっかくだから、と、見学に行った。まあ言うなら、登山のついでの観光だったわけだ。

 ところが……。

 

 写真で見たことはあったが、実際に見て、私たちはその壮大さに度肝を抜かしてしまった。

 黒部ダムが完成したのは1968年(昭和38年)。今から50年以上も前に、このような巨大なダムが、黒部峡谷の奥地の秘境とも言える場所によく造ったものだと感心した。ウィキによれば、動員された延べ人数は、なんと1千万人。当時の人口の1/10ではないか。 

 当時、どれほどの熱意とマンパワーがこれを作ったのか。しぶきを高々と上げて放水される水を見ていると私は鳥肌が立った。

 さて、ここで不思議な出来事が私と、私の息子と、ナナちゃんの三人に同時に起こった。その時のことを書いてみたいと思う。


 黒部ダムへ行くためのルートは2つある。長野県側からか、富山県側のどちらからかを選ばなければならない。私たちは長野県側の信濃大町と言うところから目的地である立山を目指した。

 まず路線バスで扇沢と言うところまで行き、そこから電気バスで関電トンネルを通り黒部ダムまで行った。

 その電気バスに乗っていた時のこと。

 暗いトンネル内をバスは走る。車内に流れる観光ガイドの音声に聞き耳を立てながら、私は窓の外のトンネル内の様子をぼんやりと眺めていた。 

 後ろの席にはナナちゃんとその娘さんが座っている。

 窓の外が急に青い照明に変わったその時、誰かが私の肩をトントンと叩いた。振り向くと、ナナちゃんの娘が心配そうな顔で、私にナナちゃんの異常を知らせた。

 どうしたのかと問えば、「何だか理由もなく涙が出る」とナナちゃんは言う。

 ふと隣の息子を見れば、彼もうつむいたままで動かない。バスに酔いでもしたのかと、息子の背中に触れた瞬間だった。突然、私の肩にズキンと激痛が走った。それはまるでバットで殴られたような勢いで、わたしは思わず「ううっ」と声を出してしまった。

 

 ――アマさん、ここあかん、ヤバい……。

 

 ナナちゃんが泣きながら言う。早くここから出なければ。

 私の肩の激痛は、最初ほどではないが、左肩を中心にその鈍痛が全身に広がりつつある。息子は頭を抱えたまま微動だに動かない。ナナちゃんの娘と私の連れ合いは、私たち三人揃って見舞われた異常事態をただ心配そうに見ていた。

 

 ようやくバスはトンネルを抜け、黒部ダムに到着した。私たちは逃げるようにバスから外に出た。

 「はよ行かなあかんよ……」

 ナナちゃんが私の袖を引っ張る。私と息子も自然と足がその場所へと向いていた。

「ちょっと、どこ行くの?!」

 背後から連れ合いが問いかけるが私たちは振り向かない。突然、轟音が聞こえ出した。放水が始まったようだ。周りには絶景が広がっていたが、それには見向きもしない。

 売店の前を通り過ぎ、ダム右岸を回ったところにそれはひっそり佇んでいた。


 ――尊き みはしらに捧ぐ――

 

 殉職者慰霊碑とモニュメント、そして実に171名もの殉職者の銘を刻んだプレートが壁に埋め込まれていた。私たち三人はゆっくりとそれに近付き、その銘を刻まれたプレートに向かって右手を差し出した。

 プレートに触れる。その瞬間、私の体はすっと軽くなった。そしてなんと、ナナちゃん、息子、私の三人が、同時に、171人もの中で、同じ一人の名前に触れていた。私たちは顔を見合わせて驚いた。それを後ろで見ていた私の連れ合いは、きゃーっ! と叫んでいた。

 もちろんそれがどこの誰とも知らない。ただ、ここへ来たかったのだろう。慰霊されたかったのかもしれない。そして私たちは皆そこで手を合わせて、しばらく目を閉じ、亡くなった方たちの冥福を祈った。ナナちゃんは相変わらず泣いている。そしてやさしく言う。

「長かったね、しんどかったね、どうぞゆっくり休んでください」

 もしかしたら、さっき通って来たあのトンネルの中にはまだ行方の分からない人がいたのかもしれない。もう50年近くも経つと言うのに。

 

 そして展望台で放水を見た後、大きな坑道の跡地に作られた特設展示場を見学した。

 その時わかった。さっきの青い照明は、岩が細かく砕け、地下水を大量に溜め込んだ軟弱な地層で、このトンネル工事で最も難攻を極めた「破水帯」と呼ばれるだった。この工事を請け負った熊谷組の展示には「日本土木史に残る破砕帯との死闘」「不屈の執念による破砕帯の突破」と書かれていた。わずか80mの破水帯を抜けるのに7ヶ月もかかったそうだ。

 何かを成し遂げようと言う、人間の力は本当にすごいと思った。日ごろ、当たり前のように使っている電気が、この不屈の根性と多くの犠牲者の上に成り立っている。感謝したいと思った。


                                 了

 

 

 


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