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大切なこと

 九死に一生を得ると言う言葉がありますが、ほとんど誰でも一生のうちに一度や二度はそう言うことがあると思います。

 守護霊様だとかご先祖様だとか神様だとかその他様々な庇護のおかげで助かったと言われております。そのどれもが正しいのかも知れないし、あるいはただの偶然に過ぎないのかもしれない。

 ただ、私は感謝の気持ちを持つことが大切だと考えます。自分は一人で生きているのではなく、周りの人々や、ご先祖様や神様によって守られ、そして生かされているのだと。最近になって特にそんなふうに思うようになりました。

 そしてもう一つ。逆に、「調子に乗ると痛い目を見る」これも肝に銘じております。どこかから自分の行いを見ている者がいる。これは絶対にそう思います。

 さて、本日は、「まんが日本昔話し」のようなお話しを一つ書いてみたいと思います。

 

  大切なこと

 

 もう30年以上も昔の話になりますが、私が九州、大分県南部の村で仕事をしていた頃のことです。私はある女性とお付き合いをしておりました。

 その彼女のお婆さんと言う方が大変に信心深い方でした。

 年は70代で、身なりも質素な、一見ごく普通のお婆さんなのですが、ある時、私に憑いた物の怪(第6話 みずはのめのかみ 参照)を見事に指摘したり、近未来に起こることを言い当てたりしました。今で言うところの「能力を持つ人」だったのでしょう。


 お婆さんの家(彼女の実家)は、九州は大分県南部の、とある駅から、バスでいくつも峠を越えて行く、よく言えば自然豊かな、悪く言えば非常に便利の悪いところにありました。

 そしてお婆さんは若い頃から毎朝、自分で育てた花とバケツと柄杓を持ち、裏山の中腹にある先祖のお墓にお参りすることを日課とされておりました。そのおかげで70代になっても健康そのもの。 

 一度私も彼女とお婆さんの3人でそのお墓を参ったことがありましたが、その健脚ぶりに当時20代の私が舌を巻いてしまいました。

 ホイホイ山道を登るお婆さんの後を私が息を切らしながら必死で付いて行くと、「若いんじゃけ、しっかりしんさい。○○を嫁にやらんぞ」と振り向いて叱られたことを今でも覚えております。


 そのお婆さんがある時、山で行方が分からなくなったことがありました。

 その日の昼頃、お婆さんは、山菜を採りに山に入ったそうです。彼女曰く「ばあちゃんが山で採って来たフキノトウやタラノ目の天ぷらが最高!」だそうで、お婆さんが山菜を採りに山へ入るのは、毎年、春の恒例行事でした。

 「フキノトウ」を採る場所はいつも大体決まっていて、とある沢沿いの秘密の群生地を目指してお婆さんは山を登りました。けれども生憎その年は少し時期がずれていたのか、寒かったのか、あまり採れなかったそうです。 

 時間もまだ早くお日様も高かったこともあり、かわいい孫に食べさせてやろうと、いつもは行かない沢沿いの険しい道なき道をどんどん上って行きました。

 ふと気付けば沢から随分と離れていました。ずいぶん遠くまで来てしまったと思ったようです。

 山の天気は変わりやすいと言いますが、先ほどまで良く晴れていた空が、にわかに曇り出し、とうとう冷たい雨が降り出してしまいました。

 出掛けに見た天気予報では降水確率0%の晴天でしたので、これはきっと通り雨だろうと林の中で少し休んでいましたが、雨脚は強くなるばかり。予想外の雨でしたので雨具の用意などはしていません。

 桜の花の時期にはまだ少し早い春分の頃のこと。お婆さんは、山菜を包んでいたビニールの風呂敷を頭から被り、林の中で寒さに震えながら、ただ手を合わせて一心に仏様に祈ったそうです。 

 その祈りが通じたのか、ようやく雨は上がりました。あたりがすっかり夕闇に包まれ始めたころでした。

 しかし自分の今いる場所さえわからない。帰り道ももちろんわかりません。濡れた衣服が芯から冷えて、このままでは凍死してしまうと思ったお婆さんは、ゆっくりと立ち上がり、ふと斜面の下を見下ろした時でした。

 青白い光がぼぅっと山の斜面を照らしていました。お婆さんがその光に導かれるように、歩き出すと、行く先々をまた光が照らし出しました。途中、今下りて来た背後を振り向けば、月の光すら届かない深い林が広がっていました。

 お婆さんはお題目を唱えながら、一歩、また一歩と急な斜面を下りました。その道は決して道と言えるような道ではありませんでしたが、お婆さんは、その光に導かれるまま、ゆっくりと山を降りることができたのです。それはまるでお婆さんを案内しているかに見えたそうです。

 やがて知っている場所まで下りた時、「おーい」と自分を呼ぶ声が聞えました。夕方になっても山から戻らないお婆さんを皆が心配して探しに来ていたのでした。

 お婆さんは心から助かったと思い、また振り返って、手を合わせ、何度も頭を下げたと言うことです。

 この話を聞いた時、普段から謙虚に、質素に、感謝の気持ちを忘れずに生きていると、こんなこともあるのだと感心しました。大切なことだと思いました。


                                 了

 


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