黒髪――ナナちゃん奇譚⑨
何気なく使っている物に、どんな曰くがあったか、なんて考えることはまずありません。ましてや中古品でなく、きちんと製品化された物なら尚のこと。でも知らないことは、ある意味、罪なのかもしれませんね。
黒髪――ナナちゃん奇譚⑨
ナナちゃん、今はもうやめておりますが、彼女は昔、メイク関係の仕事をしておりました。
これは私とナナちゃんがまだ知り合って間もない頃のお話です。
彼女は、あるメイクスクールに通っていました。ヘアメイクにも携わっていたのですが、その時、頭部だけ、つまり人形の首から上のみのマネキンを使って練習しておりました。
ヘアメイク用でしたので、そのマネキンヘッドには100%人毛が使われておりました。
梅雨の長雨が降り続く、ある日曜の午後、ナナちゃんから電話がありました。
――声が聞こえるねん……。
――どういうこと?
――マネキンがしゃべる。怖いんやけど……
――隣とか、上下とかの声とかテレビの声じゃないの?
――違う。そんな声と違う。はっきり聞こえたわけちゃうけど、女の人の泣き声みたい。
――そんなん多いなぁ。で、俺にどうしろと?
――ごめん、悪いけど、今からうち来られへん?
と言うことで、私は車を走らせました。彼女の家は大阪の北部にあり、高速を使っても1時間はかかます。「また面倒なことを……」そう思っても、断り切れない何か心に強く秘められた意志みたいなものを感じていました。――まるで、何かに呼ばれているような……。
家に着いて、ベルを鳴らすとすぐに、かわいい二人の女の子が私を出迎えました。3才と5才。幼いけれどナナちゃんに似てしっかりした顔立ちをしています。土産のシュークリームを渡すと二人とも大喜びです。将来はきっと美人になるだろうと思いました。
「ああ、ごめんね、休みの日に呼び出して、散らかってるけど入って」
奥からナナちゃんの透き通ったこえが聞こえ、私は靴を脱ぎ、一歩部屋に入った途端でした。
左後頭部から肩に掛けてズンと痛みが走ります。ああ、これは何かが潜んでいる。すぐにそう思いました。
彼女の言うことを簡単に書くと、部屋でこのマネキンを使って練習していたら、時々、女性のひそひそ声やすすり泣きが聞こえることがあるらしいです。
髪の伸びる人形の話はよく聞きますが、しゃべるなんて聞いたことがありません。
そこで私は彼女の部屋へ行き、そのマネキンヘッドを見せていただきました。
見てびっくり。ご存じの方にはなじみのあるものなのでしょうが、顔は普通のマネキンでした。しかしその髪はストレートに伸ばせば腰近くまで届く漆黒の美しい本物の人毛です。それだけでも十分怖い。
「どれどれ……」
それに触れた瞬間でした。あるイメージがまるで映画を観ているように私の頭に流れ込んで来ました。
薄暗い部屋の中に、数人の女性が、肩を寄せ合うように長椅子に座っています。その横には銃を持った軍人らしき男が立っています。物々しい雰囲気です。どうやらここは刑務所、あるいは収容所のようなところかもしれません。
女性たちは皆、丈の長い、レースの縁取りのある一見してドレスのようにも見える赤や青の原色の衣装を着ています。おそらく中央アジアか、もしくはロシア南部あたりの民族衣装だろうと思います。
長椅子の女たちは皆一様にうなだれていました。ふと気付くと、私の背後に二人の男が右と左から私を挟む形で立ち、そのうち一人が何か異国の言葉でしゃべっていました。
私の正面にも、カーキ色の制服姿の女性が一人、私を上から睨みつけるように立っています。その手には、いかにも切れ味の悪そうな赤茶けたハサミが握られていました。
長椅子のドレスの女たちが私の方を見ました。皆一様に悲し気な視線です。泣いている女もいました。
背後の男の声で、目の前の女性が、左手で私の髪をぎゅっと掴み、右手に持っていたハサミを私の髪の隙間にすっと差し入れました。ひやりとした金属の冷たい感触。私が首を振ると、背後の男が私の頭を力づくで押さえつけました。
ザクっと言う嫌な音が聞こえ、女の手から切ったばかりの長い髪がだらりと垂れ下がっているのが見えました。 何度も何度もその行為は繰り返され、とうとう私は丸刈りにされてしまいました。
とても悲しかった。そして私は思い出しました。夫は私のこの長い髪が好きだったこと。いつもやさしくブラシをかけてくれていたこと……けれど今はもうその夫も生きているのか、死んでいるのかもわかりません。
その後、私は背後の男たちに両側から抱えられて別室へ連れて行かれました。外からの光もあまり届かない暗い部屋で、服を脱ぐように言われました。私はできる限りの抵抗を試みましたが無駄でした。何度も殴られ、押さえつけられて、着ていた服をすべて脱がされました。――ドレスが、血で汚れるからだと……。
映像はそこで途切れていました。
ふと我に返ると、ナナちゃんの泣き声が聞こえました。
――あんまりやわ……。
「七菜さんも見たんか?」
「うん。見た。なんでこんな酷いことされるの? なあ、なんでなん?」
「ごめん、俺に聞かんといて。けどな、世界中でこんなことがいっぱい起こってるのは知ってるよ。幸か不幸か、俺らはそんなこと考えなくても生きて行ける。この国は、平和や」
「同じこの地球に生まれた人として、それはあんまりやわ」
「うん。でも俺らには今はどうすることもできへん。――この髪の毛を、供養することぐらいしか」
「もしあたしも知らんかったら、何も悲しい思いせずに、このマネキン使ってるんかな」
「悔しいけど、俺らには、たまたま見えただけや」
「天さん、それは違うで、たまたまやない」
「うん。ほんまは知ってる。たまたまやない」
「あたしらに、見てほしかった、知ってほしかったんやね。彼女」
雨は降り続いていた。リビングから子供たちの笑い声が聞こえる。この子たちがどうか平和に暮らせますように。私とナナちゃんは、マネキンヘッドにそっと手を合わせた。
了