雨のバス停
雨のバス停
――雨は嫌いだ。
月曜。朝、玄関を出て空を見上げた時、首の後ろに嫌な痛みを感じた。
こういう痛みを天気痛と言うらしい。気圧、湿度、温度、そのほんのわずかな変化ですら大きな影響をもたらしてしまう。人の体は思ったよりもずっとデリケートにできている。面倒だ。
どんよりと濁った空から針のような雨が無数に降っていた。
これぐらいなら大丈夫かと思ったが、玄関を出て一分も経たない内に、髪の隙間から一滴の雨粒がたらりと額を伝う。立ち止まり、逡巡の後、俺は踵を返した。傘を取りに戻ろう。
さっき家の中から外を見た時には、降っているのかいないのか、よくわからなかった。
やっぱり雨は嫌いだ……。
男の子は今日もバス停にいた。
幹線道路と国道の交わる大きな交差点付近にあるその場所は、複数のバス路線が通る。
乗降客も多く、朝夕の通勤通学時にはずらりと列ができる。
その男の子はバスを待つ人の列から外れて一人ぽつんと傘もささずに立っている。
不思議なことにその手にはたたんだままの黄色い傘が握られていた。すっかり濡れネズミなのになぜささない? 幼い子供なので傘の使い方がわからないのか? いや、そんなことはないだろう。
俺の乗ったバスも乗降客の多いその停留所で必ず停まる。後部ドアが開き、複数の人がたたんだ傘を手に持ちながらぞろぞろと乗り込んで来た。
車内には湿った嫌な臭いが漂っている。一団がバスに乗り込むと、甲高い圧縮音と共に再びドアは閉まった。
しかし男の子は小雨降る停留所にたった一人でぽつんと取り残されたままだ。冷たかろうに。
俺は知っていた。その子はどうもこの世の人ではないらしい。ほかの誰にも見えないのだ。その愛らしい円らな瞳も、かわいいプーさんの上着も、細く華奢な手足さえも、ほかの誰にも見えないのだ。
バスが走り出す直前まで、その子はじっとこちらを見ていた。車窓越しに目が合う。すると何かに気付いたように、すぅっと消えてしまった。わざわざ隠れなくてもいいのに。わかっているのに。
あれから男の子を何度も見かけるが、居るときと居ないときがあった。
良く考えるとそれはすぐにわかった。
――雨だ。雨が降っている日にだけその子はバス停にいる。朝と夕方、つまり行き帰りのどちらにも見かける。もしかしたら一日中ずっとそこにいるのかもしれない。そうだ。きっと誰かを待っているのだろう。どうにも放って置けない。おせっかいかもしれないがこれも何かの縁だ。少し調べてみるか。
『○○市 △△バス停 過去の人身事故 子供』
これだけ検索窓に入れるとそれらしき情報が山ほどヒットした。予想は当たっていた。それは今から七年前の出来事だった。その日の夕方頃、一台の暴走車がバスを待つ人の列に突っ込んだのだ。
車の運転手は交差点の手前で急な病のために意識不明となった。当然アクセルに足は置かれたままだ。もし信号が赤だったなら、前の車に追突するか、あるいは信号無視で交差点に入り、車同士の衝突事故で済んでいだはずだ。
しかし不幸にも信号は青、そのまま交差点に侵入、スピードはますます上がる。おまけに見た目でははっきりとわからないが、道路はわずかに右にカーブしている。アクセルに重石の置かれた暴走車は闇雲に直進した。左の路側帯を跨ぎ、歩道に乗り上げ、それでもスピードは落ちない。そして交差点を過ぎたところにあるバス停に斜めから突っ込んだ。
阿鼻叫喚、死者三人、重軽傷者多数の大惨事だ。翌日の新聞には次のような見出しが載っていた。
『母を迎えに傘持つ幼子憐れ』
――ああ、あったな。あの事故か。七年も経つが俺の記憶には残っていた。
もう少し詳しく記事を読むと、その事故で亡くなった三人の内うち一人は運転していた当事者なので犠牲者と呼べるかどうかわからない。事故を起こす直前にすでに亡くなっていたのかもしれない。 死因は大動脈解離だった。
そして後の二人の犠牲者は一人の老婦人とその孫の勇気ちゃん(五才)だ。おばあちゃんの方は、事故直後にはまだ意識もあり、搬送先の病院で家族の見守る中で息を引き取った。
そしてもう一人の勇気ちゃんと言うのがどうやらその男の子らしい。
――たった五才で逝ってしまったわけか……。なんとも気の毒に。
その日の朝、傘を持たずに家を出た母から、「今から会社を出るのでバス停まで傘を持って来てほしい」と家に電話があった。そしておばあちゃんと勇気ちゃんは連れ立ってバス停まで母を迎えに出かけた。
バス停では、乗車待ちの行列から少し離れたところで二人並んで母の乗るバスの到着を待っていた。雨の降りしきる中、祖母の傘の中で手をつながれて勇気ちゃんはやさしいママの帰りを待ち侘びていた。もう一方の手にはママの分の黄色い傘がしっかりと握られていた。
童謡ではないが、きっとおばあちゃんと二人、雨の中での楽しいお迎えだったはずだ。
もうすぐ大好きなママを乗せたバスが着く。着いたらママにこの黄色い傘を渡そう。きっとママは喜んでくれるはずだ。勇気ちゃんはわくわくしていたに違いない。
けれど、やって来たのはママではなく死に神だった。
暴走車はその場に居た数人をなぎ倒し、あるいは跳ね飛ばし、そして最後にこの二人を直撃してそれでも勢いは止まらず街路樹に激突してようやく止まった。
叫び声、激しい衝撃音、何かの焼けるような臭い。夕方のバス停は一瞬にして修羅場と化した。
すぐに到着した救急隊によってその場で勇気ちゃんの死亡が確認された。
頭を強く打って即死だったそうだ。悲惨だ。
自分が死んだことさえわからない――つまり、死を認めていない。
だから、そこでずっとやって来るはずもないバスを、あるいは、帰るはずもないママを待ち続けているに違いなかった。肉体は消滅したが、〝ママを待つ〟という強い念だけがその場に勇気ちゃんの魂を縛り付けてしまった。
何とかこの勇気ちゃんのことを遺族に、その帰るはずだったママに知らせてあげたかった。
でなければこの子の魂は永遠にその場に留まるだろう。衝突の瞬間を繰り返す無限地獄だ。
そこでまず所轄の警察署の交通課を訪ねたが、まったく相手にされない。
けんもほろろに追い返されてしまった。何の権限も持たない赤の他人なのだから当然と言えば当然か。ましてやこんなオカルト話を鵜呑みにする暇な署員はいない。
仕方なく現場付近での足を使った聞き込みを開始。難航するように思えたが付近では事故当時はその噂で持ち切りだったようだ。下町であったことも幸いした。
「ああ、何々さんのとこの勇気ちゃんね。あれは嫌だったんだよぉ。お母さんがその場で血まみれの亡骸を抱きしめてね、だまぁって泣きながら、飛び出した脳みそを両手で大事そうにすくってバケツに入れていたよ。そりゃあもう、ほんと、わたしゃ見てられなかったよ。かわいそうで」などと、両手ですくう身振りをしながら、タバコ屋の女主人は語った。
七年も経つのになんと生々しい。この老主人もある種トラウマになっているのだろう。そしてその辺りで尋ねる人皆、同じようなことを口にした。それだけ大きな事故だったと言うことか。
そして雨の日を選び、聞いた情報を元に、勇気ちゃんの家を訪ねることにした。
その家は、例のバス停から徒歩で十分ほどの大通りから少し入ったところにある。
歩道に敷き詰められた升目のコンクリートを眺めながら歩いた。七年前のあの日、この道をおばあちゃんと勇気ちゃんは仲良く歩いたのだ。ママのお迎えのために。今も二人の楽しそうな話し声が聞こえて来るようだ。そのすぐ先に死が待っていようとは。運命なんてわからない。
その家はすぐにわかった。聞いていた通りの古い建売住宅だ。
ご遺族は、母と勇気ちゃんの姉の二人。父は勇気ちゃんが生まれて間もなく離婚したらしい。
事故以前は祖母、母、長女、長男の四人家族だったが、今は母一人子一人の淋しい母子家庭だった。事故当時、母親三十五才、お姉ちゃんは十才だったので七年経った今は母親四十二才、姉十七才になっているはずだ。
呼び鈴を押してインターホン越しに呼びかけた。
「はい。どちらさまでしょう?」
暗い女性の声が聞こえた。
名を名乗り、そして七年前の事故の件だと切り出すが、その声は露骨に嫌悪感を持っている。
警察でもなければ新聞社でもない、ただ、亡くなったお子さんのことで、どうしてもお伝えしたいことがあるのでどうか少しだけでも話を聞いてほしいと真摯に伝えると、彼女は根負けしたのか「少しお待ちください」とようやく姿を現した。
出て来た母親は酷くやつれていた。白髪交じりの長い髪はどう見ても四十二には見えない。
今も高校生になる娘と二人で暮らしているとのことだった。
平和な家庭を一瞬で地獄に突き落とした悲惨な事故から七年。今も彼女の心は深い傷を負ったままに思えた。
聞けば、事故当初は、マスコミの執拗な取材から始まり、保険屋や弁護士が示談交渉のために何度も訪れ、また示談成立後は、その保険金目当てでろくでもない連中が毎日のようにやって来たと言う。
彼女は憔悴しきっていた。嫌悪感をあらわにするのももっともなことだ。
ただ、話の本題に入ると、突然の訪問を受けてさぞや驚かれただろうと思いきや、そうではなかった。毎日のように仏壇に手を合わせてお題目を唱えて、墓参りも祥月命日には欠かしたことがない。 にもかかわらず……。
「あの、差し出がましいようですが、こちらのお宅にも、もちろんお墓にも、子供さんはいませんよ」
そう進言すると、彼女はとても合点が入ったように驚いてこう言った。
「ああやっぱりそうでしたか。どうも毎晩夢枕に立つので何か言いたいことがあるのではないかとずっと思っておりました」
ようやく信用を得たように感じたので、高校生の姉の帰りを待ち、早速その二人のご遺族と共にバス停を訪れることにした。
朝から降り続いた雨は本降りとなった。
ポツポツと傘を叩く雨音だけが聞こえていた。三人共何もしゃべらず、ただ雨の国道を黙々と歩いた。大きなトラックが水しぶきを上げて横を通り過ぎる。ちらりと目を遣っただけで泥はねを避けようともせず、再び前を向いて歩き出す。とてもしゃべれるような雰囲気ではない。というよりも、どんなに気の利いたお悔やみの言葉を述べたところで彼女たちの心には届かないだろう。
現地を訪れると、ちょうどバスが着いたところだった。
バスからぞろぞろと降りて来た人々。パッと開く鮮やかな傘の花々。
その人並みに紛れ、やはり男の子はそこにいた。だが誰一人としてその子に気付く者はいない。母と姉にさえ見えていない。
「あの子はいますか?」
「ええ。いますよ」
「あの、疑うわけではありませんが、今、勇気はどんな格好をしていますか?」
「プーさんのジャンバー、紺の半ズボン、黄色い傘を持っています」と答える。
すると掌を口に当ててわっと泣き出す母親。その時、母の泣き声に呼応するように男の子がこちらに気付いた。勇気ちゃんは母と姉の姿を見て、少し微笑んだような顔になり、そのまますぅっと消えたかと思ったら、急に姉が声を上げて泣き出した。
驚いた母が姉の背中をさする。するとどうだ、姉は泣きながらこんなふうに言った。
「ママぁ、ごめんなさい、ごめんなさい!」
それは明らかに姉の声ではなかった。
「ああ、勇気! ゴメンね、ゴメン、長い間、気が付かなくてほんとにゴメンね。ママを許してね。さあいっしょにうちに帰ろう」
母がそうと言うと、姉は泣き止み、大きな声で再び「ママ、ママ、心配かけてごめんなさい」そう言って二人で抱き合った。
これであの子はきっと自分の死を認めて受け入れることができたはずだ。
その日以来、俺はそのバス停で男の子の姿を見ることはなかった。
了