白いうさぎ
どうも私は昔から心や体に何らかのハンデキャップを持つ人に縁があるようです。
今いっしょに暮している彼女もそうです。双極性障害(躁鬱)を持っています。今はかなり良くなりましたが、昔は本当に酷かった。
何度も自殺未遂を繰り返し、数限りなく自分の体を傷つけ、何度も病院に入院しました。
今、よく神様は彼女を生かしてくれたことだと感謝しています。そんな彼女を通して体験した不思議なお話を書いてみたいと思います。
白いうさぎ
――いっしょに寝てほしいな。
彼女は眠くなると口癖のように言う。僕がまだPCに向って仕事をしていても、彼女が眠る時は、すべての作業をストップして添い寝をする。
僕も疲れている時は、そのまま眠ってしまうし、そうでない時は、彼女が寝静まったのを見計らって再びPCに向う。それが僕の日課だった。もう十年以上もこの習慣を続けている。
――わたしより先に眠らないで。
これも口癖。どうやら僕が先に眠ると、淋しくて死んでしまうらしい。
淋しいと死んでしまう、まるでうさぎみたいだ。色白な彼女は、たぶん白いうさぎだ。
だから僕はうさぎが寝息を立てるまで、ずっと眠らずに見守っている。
恐ろしいことが何も起こらないように……。
寝室のサッシを開ければ、都市型マンションによくある小さなテラス。部屋は一階だったので、その向う側はすぐに道路だ。テラスと道路の間には、冬でも蔦の生い茂るフェンスで仕切られている。そのおかげで道路から部屋の中は見えないし、こちらから道路も見えない。
それは夕べの出来事だった。きっと疲れていたのだろう。
「わたしより先に眠らないで」の彼女との約束も虚しく、会話が途切れた途端、僕は不覚にも深いまどろみの淵へと落ちてしまった。
この暗く小さな部屋にたった一匹の白いうさぎだけを残して……。
ふと窓の外を見ると、テラスの向こうに小さな公園が見えた。
その公園は明るい日の光が燦々と降りそそぎ、とても清らかな感じがする。
公園は中央が鮮やかな緑の芝生に覆われている。その真ん中付近に藤棚があり、その下にベンチが置かれていた。
そのベンチには、黒い服と白い服の男が二人腰掛けながらこちらを指差して何か大声で叫んでいる。もちろん僕はその男たちを知らない。よく見ると白い服の男には白い羽が、黒い服の男には黒い羽が生えていた。
僕は一生懸命に聞き取ろうとしたが、それは日本語ではない、英語でもない、聞いたこともない異国の言葉だった。そのうち段々とその男たちが怖くなり、僕は、アルミサッシをゆっくりと閉めた。
ふと気が付くと、隣で寝ていたはずの彼女がいない。
耳を澄ませばキッチンの方から物音が聞こえる。水の音だ。咽が渇いたので水でも飲んでいるのだろうか? でも彼女はなかなか戻って来ない。いよいよ様子を見に行こうとした時、ドアが開いた。
「どうしたの?」
僕は尋ねる。
「秘密……」
彼女はいたずらな笑顔を浮かべて答えた。
僕はそれ以上何も聞かない。そしてまた横になって二人とも暫くだまっていた。
と、その時、暗闇の中に震える声が小さく響いた。
「手、切ってた……」
「大丈夫か? 痛くないか?」
「うん」
彼女は別に死にたいわけではない。
心の傷はどんなに深くても見ることはできないけれど、体に付いた傷はわかりやすい。
彼女にとってそれが生きていることの証であり、そこに小さな安心感が生まれる。
だから僕はそれを止めることはせず、ただ傍で見守ることが大事だと知っている。
あの公園に居た白と黒の男たち。きっと僕に彼女のことを教えてくれたのだろう。
僕は心の中であの二人にお礼を言って、そして、彼女の頭をやさしく撫でてやる。それから傷ついた手首にそっと口づけをした。
「わたしね……。やっぱりあなたじゃないとダメみたい……」
そう言って彼女は肩を震わせて静かに泣いた。
――お願い、どこにも行かないで。
これもいつもの口癖だ。そう言うと彼女は、僕の手を強く握り、僕の肩に額を埋めた。
額の温もりといっしょに、彼女の不安も墨を溶くようにゆっくりと僕の中に広がる。
僕は彼女の背中を撫で続けると、やがて小さく寝息を立て始めた。
次に目覚めるまでの少しの間だけ、白いうさぎは、その苦悩から解放されるのだろう。
了
了