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別れを惜しむこと

 それまで寝ていたワンコが突然むっくり起き上がって、誰もいない方向をじっと見ている。あるいは、猫が何かに気付いて鳴く……。ペットを飼ったことのある人ならみんな、一度や二度は経験があると思います。

 これはある意味、その現象を逆の視点で書いてみました。


   別れを惜しむこと


 ある朝目覚めた時、私は、とてもお腹の調子が悪く、行きつけのクリニックへと足を運びました。

 どこかで犬の鳴き声が聞こえます。そう言えばここのクリニックには確か小さなシーズー犬がいたと記憶していました。

 入り口から中に入ると、受付には誰もいません。もしかしたらまだ診療時間になっていないのかと、待合を見ると、やはりこちらも誰もいません。仕方がないので、椅子に腰かけて開くのを待つことにしました。予約して来た方がよかったか、と一瞬後悔しました。

 その時、また犬の鳴き声が聞こえました。今度はかなり近くで聞こえます。まるですぐそこにいるように。

 「こら、ハナ! うるさい!」

 犬をしつける女性の声が聞えました。犬はハナと言う名前のようです。ここの院長は女医さんなのできっと彼女の声でしょう。しかし耳にキンキン響く犬の鳴き声はさらにけたたましく、まったく鳴きやみそうもありません。

「あっ、こら」と言う声が聞えたかと思ったら、タタタタッタっと廊下を走る足音が聞こえ、待合にハナが飛び込んで来ました。

 そして私の目の前までやって来たかと思うと、私に向かって再び激しく吠えました。今にも飛び掛かって来そうな勢いです。

 私はけっこう犬に好かれるタイプの人間だったので、これには怒りを通り越してかなりショックでした。

 すぐに院長先生がハナを追いかけるように待合に顔を覗かせました。私は困り顔で苦笑いしながら、ぺこりと頭を下げます。けれども院長先生は私の方は見ず、鳴きやまないハナをひょいと抱きかかえて待合を出て行こうとします。ハナは院長に抱えながらも肩越しにずっと私の方を見ています。ギョロリとした目が、必死で何かを訴えようとしている。

 「帰れ!」

 私にはその目がそう言っているように思えました。

 ずいぶん失礼な犬だな、そう感じましたが、何かどこかがおかしい。

 いくら待っても受け付けは開かない。きっと今日は休診に違いないと、私はあきらめてクリニックを後にしました。

 お腹の具合は朝起きた時よりは幾分マシになっていました。しかたなく家に戻ると、玄関前の通路に1匹の猫がちょこんと座って私をじっと見ています。

 ああ、クロです。クロは野良猫ですが、この辺りの住人皆で世話をしている、いわゆる地域猫と言うやつでした。

「やあ、おはようクロ」

 

  ――ミャア……。


 クロは私の顔を見て一鳴きしました。

 いつもなら私を見ても警戒してなかなか近付いて来ないクロですが、なぜか私が家に入ろうとすると、クロは私の傍に寄って来て、鼻先を私の足に擦りつけます。

 おや、珍しい。クロは元々野良なので、私を見てもこんなに懐いたことはなかったのに……。私はクロの頭を撫でてやると、嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らします。

 ミャア、ミャア、と何度も鳴いて、しきりに何かを訴えているようでした。

「おなかがすいてるの? ちょっとここで待ってて、何か持って来るよ」

 と、声を掛けた瞬間、私はあることに気付きました。

 いや、おかしい! クロは確か去年の冬に死んだはずでは? 向かいのおばさんが、泣いていたことを思い出したのです。

「おまえ本当にクロなのか?」

 擦り寄る猫の方を向き、再び「クロ?」と声を掛けると……。


「ああ、ボクはクロだよ、忘れたのかい? あんたよくハムくれたろう?」

 

 しゃべった! なんと! 猫がしゃべった。しかもこいつはクロに違いない。私の頭の中でぐるぐると?マークが回っていました。

 と、次の瞬間、チーンと奥からリンの鳴る音が聞こえました。

 おや、なんだろう……。

 家には自分一人しかいないはずなのに。そう思いながら、部屋に戻ろうとすると、クロも付いて来ました。

「お前は家には入れてあげられないよ」

 私がクロに向かって言うと、クロは言いました。

「あんた、まだ気付いてないのかい?」

「え?」

 家の中にはお線香の匂いが漂っています。部屋の中を見れば、数人の人が仏壇の前に正座していました。息子の姿も、姉と、姉の子供たちの姿もありました。そして父母の祥月命日にはうちにやって来てお経をあげるいつものお坊さんの背中が見えます。

 何だ、みんな勢揃いで、法事でもやっているのか? 

「おい、ちょっと」

 私は、座っている息子に声を掛けました。しかし息子は何も答えず、ただじっと目を瞑り、一心にお経に耳を傾けています。悲しい気持ちがこちらに伝わって来ます。

 ふと仏壇を見ると、真新しいお骨の白い包みが置かれている……。

 その時、姉のすすり泣きが聞えました。

「やっとわかったようだね」

 クロが私の顔を見上げて、やさしく言いました。

 満中陰でした。私の……。 


 その時、私は思いました。息子や嫁や、姉や、もうここにいるみんなに会うことはできなくなる。もちろん触れることも話すこともできなくなる。そう思ったら悲しくて涙が溢れました。

 

 ――逝きたくない。


 ハッと気付きました。大切な人が亡くなった時、この世に残された者は悲しい。でも死んだ本人も別れを惜しんで泣いていることにその時、ようやく私は気付きました。亡くなった人もやはり悲しいのです。だから、残された者は、亡くなった人に対して、どんなに悲しくても、微笑んで「大丈夫だよ」と送り出してあげるべきですね。そうでないと安心してあちらへは逝きにくくなってしまう。未練が残ってしまいますね。


                               了


 




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