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早う帰らんね

 夜の海ってどうしてあんなに怖いのでしょう。

 波も風もなく、月も出ていない新月の夜、タールみたいなどす黒い海面を見ると、そのまま深い海の底まで吸い込まれそうな気がします。


  早う帰らんね

 

 今からもう30年以上も前のことになる。

 私は、九州大分県南部にあるK町と言う小さな漁村に住んでいた。

 田舎の夜は暗い。その村は、人里離れた寂しい漁村で、月夜でもない限り、夜は懐中電灯がなければ歩けないほど真っ暗なところであった。

 私の仕事は、人工ふ化させた魚の育成であった。稚魚の餌は、人工的に開発された餌料がメインであったが、生体餌料としてプランクトンを与えることも重要だった。

 その方法は、プランクトンの光に集まる性質を利用して、多くいそうな場所に目の細かい網を仕掛ける。それを朝と夜中に二度、回収することが私の日課となっていた。

 

 その夜も私は、手に握りしめた懐中電灯を頼りに、仕掛けを設置した場所まで暗い護岸沿いの道をとぼとぼと歩いていた。季節は春。月は出ていなかった。護岸下の海からむっとする潮の匂いが立ち上り、懐中電灯に照らされた護岸をフナ虫たちが這いまわっていた。

 やがて護岸が途切れ、小さな船着き場となった。ずっと向こうの暗闇の中に、小さな光がちらちらと見える。あれは私が昼間に仕掛けたプランクトンネットから洩れ出した光だ。もうすぐだ。

 私の歩く右側は黒い海だった。注意深く足元を照らしながら岸壁を歩いていたその時、懐中電灯の丸い光の中に、白い影がよぎった。

 もう少し前を照らしてみる。光の中に、人の姿らしきものが見えた。そこに光を当てる。

 ――老婆のようだ。一人の老婆が、岸壁ぎりぎりのところでしゃがんでじっと暗い海を見ていた。 時刻は午後11時を回っている。こんな時間に、どうしてこんなところに老婆が一人でいるのか。どう考えてもおかしい。私は声を掛けようと思い、慌てて近寄った。と、その時。


 ――早う 帰らんね……。

 

 どこかで声がした。そして老婆の姿がふっと消えた。

 後には、むせ返る潮の匂いとちゃぷちゃぷと岸壁を打つ波の音だけが聞こえていた。

 

 翌日、職場の人に昨夜の出来事を話したら「ああ、あんた見たんね」といきなり言われた。

 どういうことですか? と尋ねたところ、驚く様子もなく職場の先輩は答えた。

「あの婆さんな、あそこでずっと海難事故で戻らん息子の帰り、待っちょるんよ」

「誰も教えてあげないんですか?」

「無理じゃの」

「今夜もし、あそこにいたら私が声をかけましょうか?」

「無理じゃ。できるならとっくにやっとるよ」

「なぜですか?」

「気の毒な婆さんじゃけな。あの婆さん、もうとっくに死んでおらんのじゃ。夕べおまさんが見たっちゅう、あの場所でな、帰らん息子を待ちきれんで、身を投げたんよ」

「え」 


 夕べ見た、あれはとても強いものだった。

 「早う帰らんね」は私に投げかけた言葉ではなく、帰らぬ息子さんへの願いであると知った。

 と言うことは、お婆さんは、息子さんには未だに会えていないのかも知れない。

 あまりに強く会いたいと願う気持ちが念となり、お婆さんをあの場所に留まらせてしまっているのかもしれない。

 私は昼間に、その場所へ行き、海に花を投げて手を合わせた。

 そしてもし次にお婆さんを見掛けたら、きっと真実を伝えようと思ったが、あれからあの場所でお婆さんに会うことはなかった。


                                      了


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