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髪の長い女

 眠りには、レム睡眠とノンレム睡眠がある。レム睡眠とは、浅い眠り、Rapid Eye Movement(急速眼球運動の頭文字であるREM)つまり目を瞑っていても眼球は盛んに動いている=脳が起きている状態なのだそうだ。今回はそのレム睡眠時におけるお話。

 よく「幽体離脱」と言う言葉を聞く。眠っている時に、肉体から意識だけが離脱することを指してそう呼ばれている。スピ的な言い方をすれば、離れるのは意識ではなく霊体なのだと言う。

 私も何回か経験がある。それは大体が夜明け近くに起こる。私の肉体を離れた霊体が、ふわりふわりと宙を漂う。それはそれは気持ちが良い。うまく離れると、ベッドで眠る自分の本体が見えることもあるのだが……。

 本当に体から霊体が離れて宙に浮かんでいるのだろうか? いや、すべては、つまり、宙をさまよう自分も、部屋の中や、窓から見える風景なども、そして時に見る、ベッドで眠っているもう一人の自分さえも、そう、そのすべて、何もかもがその人自身が創り出した世界、つまり「夢」なのではないかと。

 ある精神分析のスペシャリストは言う。幽体離脱した世界は、あまりに正確、あまりに綿密に再現された世界なので、まさか夢ではあるまいと思うのだが、人間の記憶を侮ってはいけない。潜在意識下に記録されているデータは、とてつもない量なのだそうだ。

 起きている時にそれらを思い出そうとしてもなかなかできないが、眠っている時は、潜在意識のロックが外れて開放状態にあるのだろう。視覚だけではなく、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、つまり人間が持つ5感の記憶すべてが正確に再現されている。

 ただ、それをすべての人間ができるわけではない。それができる人とできない人の違いや、またそれができるための条件、それらがわからない。ごく少数の人間が、その体験をできるのかもしれない。だとすれば、いつもふわふわ夜中にさまよう私は、大変に幸運であると言える。


  髪の長い女

 

 午前6時30分。

 梅雨時期は毎朝のように頭痛と共に目覚める。窓の外は霧雨で霞んでいるように見えた。

 隣りのキッチンの方から何やら音が聞こえていた。もう息子が起きてきているのか。今朝はずいぶん早いな……。

 私はゆっくりと体を起こし、ドアを開ける。

 しかしキッチンには誰もいない。確かに人の気配を感じたのに。私はそのままキッチンを通って洗面所へ向かう。歯を磨き、顔を洗い、髭を剃り、髪を整えてそれから服を着替える。

 洗面台の時計は7時15分だった。ヤバいもうすぐ本当に息子が起きて来る。私はいつものように朝食を用意しようと再びキッチンのドアを開けた。

 いつも通りにコーヒーメーカーのスイッチを入れ、いつも通りにトースターにパンを放り込む。


 ――嘘だ。いつも通りではない。本当は気付いていた。

 

 さっき洗面所に行く時には居なかったのに、洗面から戻ると、キッチンシンクの前に、髪の長い女が一人、向こうを向いて立っていた。見た瞬間、ドキッとしたが、そういうことはたまにあるので、できるだけ自然を装うことにした。

 ああ、なるほど。私は何気なく寝室の方を見る。やっぱりベッドには私が眠っている。

 と言うことは、これは夢だ。恐ろしく緻密に再現された朝に違いない。

 さて、夢だと分かったところでどうするか。でも現実の時間もあまりないはずだから、そろそろ本当に起きないといけない。

 しかしこの女はいったい誰だろう。記憶の中にこんな女、いただろうか? 俄然興味が湧いて来た。よせばいいものをすっと女の横に並んで立ち、顔をのぞき込む。きれいな顔をしていた。ふわっとジャスミンの花の匂いがする。

 夢と言うことは、これは、この女は、姿形だけではなく、このいい香りまですべてが私の創造物なのだろう。ということは、つまり、何をしても良い? 私がこの世界の神なのだから。

 なかなか良い女ではないか。現実には絶対にできないようなことも、ここではできてしまう。

 と、その時、彼女はゆっくりと私の方を向いた。悲し気な表情をしている。何がそんなに悲しいのだろう。いや、ちょっと待てよ。おかしいぞ。なぜこの女は自分の意思を持っているのだ?

 次の瞬間、彼女は手を伸ばし、シンクの前のナイフスタンドから、すっと一本、ペティナイフを抜き去り、迷わず私に向けてナイフを突き出した。え? ここは私の夢ではないのか?

 すぅっとナイフが私の横腹に沈んで行く……。


 酷い頭痛がする。私はようやく目覚めた。天井のシーリングライトが淡い光を放っている。危なかった。何とか逃げられたのだろうか。

 と思った次の瞬間、つま先から頭のてっぺんまで、ドンっと大きな衝撃を受けたように動かない。来た! 金縛りだ。重い。目も開けられない。

 すぐ私の両耳にさわさわと髪の毛先が触れる。ジャスミンの甘い香りがしている。体温を感じる。誰かが私の上に載っている。体が動かない。目も開けられない。逃げられない。声を、声を出さないと。全力で口を動かす。ほんの少し唇が動く。あぁぁぁぁぁあああああ! 大声で叫ぶと、体がすっと軽くなった。助かった。

 私はゆっくりと体を起こし、周りを見回すが、そこには誰もいなかった。ゆっくり立ち上がりキッチンへと続くドアをそっと開ける。良かった、あの女はいない。

 壁の時計は7時を指している。私は顔を洗い、服を着替えて、再びキッチンへ戻る。やはり誰もいないがらんとしたキッチン。が、しかし、ふと寝室を覗く。

 なんと、ベッドにはまだ私が寝ていた。そしてベッドに寝ている私の上に、髪の長い女が馬乗りになっていた。

 ああ、起きなければ。息子が起きて来るだろう。

 酷く後ろ頭が痛かった。 もしかしたら、夢ではないのかもしれない。


                                 了





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