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お菊山の怪

  実際の体験談に基づいた不思議な体験談なので今回は実地名で書いてみます。


  お菊山の怪

 

大阪府南部、和泉山脈西端(生駒山地の最も西の外れ)にお菊山と言う小さな山がある。

標高は333m。これは偶然にも東京タワーと同じ高さになる。

 ここは、歴史的な史跡があるにもかかわらず、関西近郊のハイキングコースとしては今一つ人気がない。理由はおそらく、交通の便が非常に悪いことが挙げられると思う。

 最寄りの駅はJR阪和線の新家駅だが、最寄りと言ってもずいぶんと目的地までの距離があり、さほど高くもない山頂まで、駅から徒歩で2時間近くもかかってしまう。つまり大阪府内にしては相当にへんぴな所にあると言える。

 

 ここへは、私が中学生の頃、ボーイスカウトのハイキングで行ったことがあった。

 当時大阪近郊の山はもうほとんど登りつくしていたので、どこかまだ行っていない山で、尚且つ面白そうな所はないかと探していたところ、歴史好きな班長リーダーがここを見つけて来た。

 簡単に書くと、豊臣秀吉の甥である秀次の娘、お菊と言う女性がいた。お菊が大坂夏の陣で密書を大坂城に届ける際、決意も新に、この山で長い黒髪を切って男装したと言われている。

 ところが、無事大坂城に密書を届けることはできたが、再び故郷に戻った時には、村は自分を追って来た敵方の手により、すでに焼き滅ぼされていた。

 そしてお菊も敵方に捕らえられ、無念の死を遂げてしまう。ちなみに、お菊の一族郎党のほとんどが徳川方に殺されるか自害している。

 そのお菊が自分の切った黒髪を松の木の根元に埋めたと言われている山がお菊山、また、その松の木をお菊松と呼ばれ、今でもお菊の碑が立っている。

 これだけ聞いても充分に怨念の匂いがする。


 季節は春。3月半ば、学校は春休みだったと記憶している。

 当時中学2年生だった私は、所属していたボーイスカウトの班ハイクと言うイベントに参加していた。班ハイクとは、所属する団全体ではなく、小さな班(軍隊で言うところの小隊よりもまだ下の6人ほどの少数のグループ)ごとに分かれて遂行するハイキングのことだった。

 一般のハイキングと違う所は、班独自に、綿密な計画書を作成して、それに基づきながら遂行する、言わば「行軍」の基礎練習みたいな活動であった。

 中学生と言っても、かなり指揮系統もしっかりしており、きっちり報告書も提出しなければならない。しかも班ハイクに大人は同伴せず、中学生ばかりが5,6人で遂行する。

 

 駅から迷いながらも何とか私たちは、お菊山の山頂らしき場所までたどり着いた。

 当時はまだ関西国際空港がない時代だったので、眼下に見える大阪湾は青々として遠く淡路島の島影が霞んで見える。低山の割に、とても眺望の良いところだった。これだけの良い景色なのに、あまり人気がないことが不思議だった。


 しかしながら、恐怖はこの後に始まった。

 計画書に従って到着したはずなのに、不思議なことに、松の木はあったが、どこを探してもガイドブックに載っている「お菊の慰霊碑」がない。

 そして私たちはとんでもないものを見てしまった。

 お菊が自分の髪の毛を埋めたとされる松の木の、大人の背丈ぐらいの枝に、なんと黒々とした長い髪が括り付けてあったのだ。当時まだ中学生だった私たちは、気持ち悪さのあまり、景色すら楽しむ余裕もなく、慌ててその場を立ち去った。

 

 ところが、今来たばかりの道が、なぜかわからない。

 どんどん道は細く狭くなり背の高い草が一面生い茂り、とうとう道すらなくなってしまった。

 まだこの時点で、低山であることと、町からそんなに遠くないこと、しかも中学生とは言え、毎週のように山を歩き、かなり慣れた自負があったことなどからそんなに焦ってはいなかった。

 いつもそうするように、国土地理院の地形図とシルバーコンパスを頼りに、何とか下山しようと試みる。すると道はすぐに見つかった。 

 ――ああ、なんだ簡単だ。

 そう思って私たちはずんずん進み、少し開けたところ出た。

「あれ? ここは……」

 嫌な予感は当たった。

 

 私たちはお互いに顔を見合わせた。なんとそこには例の黒髪の吊るしてある松の木があった。

 いつのまにか戻って来ていた。驚いた私たちは、逃げるようにその場を後にするが、何度も迷い、ふと気付けば、目の前に例の松の古木が立っている。背筋が寒くなった。

 もう2時間以上も同じところで迷っている。ここから出られない。

 時刻はすでに午後4時になろうとしていた。


「おい、もう道を歩くのはやめよう」

 班長が言う。きっとそうだ、班長の言う通り、道から外れた方がいい。

 こうなったら最終手段だとばかりに、私たちは道を外れて、崖のような斜面を下の方に向かって滑り降りるように下った。

 これは高山だったら絶対にやってはいけないことだ。間違いなく遭難コースだろう。

 しかしその時の私たちは、とにかくあの髪の毛を括りつけた松の木から逃げたくて、ほとんどパニック状態に陥っていた。もう地図さえも見ていなかった。とにかく下へ。低い方へ、それだけを考えていた。

 3月の黄昏時が迫っていた。辺りはすでに薄暗くなり始めていた。現在位置を確認しようとするも、かろうじてコンパスで方角はわかるが、目標物が何も見えない。

 下れども下れども、道などはどこにもなく、たかだか300m級の低山なのに、平地に降りることもできない。もしかしたら、また、ふっとあの「開けた場所」に戻るのではないのか? もうみんなそのことばかりを考えていた。

 そこで私たちはもう一度立ち止まり、冷静に考えて、斜面を登ることも考えたが、そろそろ体力的限界に達していた。なにせ山歩きに慣れているとは言え、みんなまだ中学生だ。疲労の色濃く、水筒のお茶も、食べ物もない。郊外の低山だと舐めていた。一瞬、「遭難」と言う言葉さえ脳裏をよぎる。


 「ちょっと一回休もう」

 そう言いながら、弱冠15才の班長が、リュックから非常食のチョコレートを取り出した。

 それを6人で割り分けて食べる。すると少しだけ力が湧いた。その後、祈るような気持ちで、藪の中を転がり落ちるように下ったところで、やっと一人の村人らしき老人に遭遇した。心底助かったと思った。たどり着いた場所は、里の人家の裏の畑だった。

 全身泥だらけの私たちを見た老人は「おまえら人の家の畑で何してるんや」と怒鳴ったが、お菊山から命からがら下りて来たと言うと、目を丸くして驚いていた。

 そこは駅とは程遠く、山頂から10キロ以上も離れていた。

 なんと私たちは、4時間以上も山の中を彷徨っていたのだ。


 未だになぜ、あそこに建っているはずの慰霊碑がなかったのか、なぜ何度も同じところをぐるぐる周ったのかわからないままだ。まるで狐につままれたような出来事だった。

 いっしょに行った仲間の中には、もしかしたら、タイムスリップして過去に行ってしまったのではないかと言う者まで出る始末だ。

 それにしても気味の悪いところだった。もうあそこへは行きたくない。


                                                                                 了



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