世界でいちばんやさしい幽霊―ナナちゃん奇譚⑥
世界でいちばんやさしい幽霊
すっかり秋らしくなった、さわやかなとある日曜の午後。
ナナちゃん、二人の娘たちを連れて、阪急T槻市駅から梅田へお買い物に行った時のこと。
いつもなら慌てて特急に飛び乗るのだがその日は休日で時間にもたっぷり余裕があったのであえて準急に乗った。幼い子を連れていたし、できれば座りたいということもあった。
案の定電車は、ロングシートに親子三人で独占状態で座れるぐらいにすいていた。
途中、A路駅で父親とその子供らしい男の子の二人連れが乗って来た。ナナちゃんスマホに夢中でよく見ていなかったが、たぶん男の子はまだ小さくて、ナナちゃんの下の娘とおなじぐらいの4才か5才ぐらいに見えた。
ナナちゃんの左側には二人の娘、そしてその男の子と父親らしき男性は、人半分ぐらい空けてナナちゃんの右隣に並んで座った。
その瞬間、ナナちゃんの左後頭部から首筋にかけて、ゾクッと髪の毛が逆立つのを感じた。
「まるで鬼太郎の妖怪アンテナや」と笑いながらナナちゃんは私に言う。
何かその二人から、ちょっと悲しいような寂しいような空気を感じていたらしい。
ナナちゃんの右には男の子が座っていた。が、どうも様子がおかしい。
男の子の方をちらりと見る。その瞬間、ナナちゃん、「あっ」と声にならない心の声をあげてしまった。
さっき見た時にはそれとわからなかったけれど、なんとその男の子は、一目でダウン症だとわかる。そしてお父さんがしっかりと男の子を守るように肩を抱いて座っていた。
男の子は、天井を見上げたり、向かいの車窓の景色を指差してみたり、一時もじっとしていない。まるで電車内のすべての物に興味を示しているように見える。
そして男の子はナナちゃんの方を見た。その視線は、ナナちゃんが手にしているスマホに向けられていた。
ナナちゃんがにっこり笑うと、男の子はスマホにさわろうと一生懸命にその小さい手を伸ばそうとする。
すぐに「こら、あかんで」と父親が男の子の手を掴む。
「ええよ、さわりたい? おいで」
ナナちゃんは、男の子の方を向いて、小さく囁くように言う。
男の子は一生懸命にナナちゃんの方に向かって手を伸ばす、と、その時だった。
――あかんよ、ヒロちゃん……。
それは明らかに隣の父親ではない女性の声だった。ナナちゃんはハッとして男の子を見る。
さっきまで誰もいないと思っていた二人の前に30代ぐらいの女性が立っていた。
たぶん、お母さん……。
ナナちゃんにはすぐにわかった。
「あの、失礼ですが……」
ナナちゃんは男の子の隣の男性に声を掛ける。
「ああ、すみません、ご迷惑おかけして」
男性は申し訳なさそうに男の子を連れて席を立とうとした。
「いいえ、違うんです。違います。あの、お子さん、ヒロちゃんと言うんですか?」
男性は大きく目を見開く。
「えっと、どこかでお会いしました?」
「いいえ、ポニーテールの少しスリムな30代ぐらいの女性がね」
「えっ?」
「たぶん、お子さんのお母さんですよね?」
「どうしてそれが……」
「びっくりしないでくださいね。あなたのすぐ前に立っておられるんです」
「ほんまですか?」
「ええ、お子さんのこと、心配そうに見てはります」
男性は目の前を一生懸命見ようとする。
「あの、とっても悲しいことが……あったんですね?」
「はい。嫁は、昨年末に癌で亡くなりました。そうですか……頼子が」
ナナちゃんは無言で頷いた。
「家内は、あいつは、最期の最期まで心配してました。健常に産んでやれなくてずっと申し訳ないって言ってましたから……」
「お父さん、一生懸命頑張ってはるから、大丈夫。ただちょっと傍におりたいんやと思いますよ」
「ありがとうございます」
男性は深々と頭を下げる。そして男の子の頭を撫でながら泣いていた。
「なあアマさん。わたしも子供おるからめっちゃその気持ちわかるねん。たとえ自分が死んでも、子供のことずっと心配なんや。それも健常じゃなくて、障害があったりしたら尚更なんやで。たぶん子供が死ぬまで、あの世へは行かへん。世界でいちばんやさしい幽霊やんな」
――世界でいちばんやさしい、幽霊、か……。
了