大家さんシリーズ⑤――M谷さんの場合
大家さんシリーズ⑤――M谷さんの場合
私は大家さん歴、今年、単独で27年目に入ります。単独と申しますのは、私が生まれた時には、すでに親が大家さんをやっておりましたので、その賃貸住宅で親の手伝いをしながら育ちました。
その親が亡くなった跡を引き継いでやっておりますので、全部含めますと、もう60年近く大家業に携わっていることになります。
さて、大家さんと切っても切れない関係のお仕事と言えば、不動産仲介業があります。私もずいぶんとお世話になっております。昔は不動産仲介業者のことを周旋屋と呼びました。この言葉、元々は不動産業だけではなく、人と人の間に立って売買を成立させるお仕事でした。さらに昔には、口入屋などと呼ばれていました。私は母の代より大家さんをやっておりますので、不動産仲介業と言う言い方よりも、母がいつも口にしていた周旋屋と言う言い方が大変しっくりくると思っています。
前置きが長くなりました。本日のお題は、以前の大家さん③に引き続き、今現在、各メディアで世を騒がせております「事故物件」のお話です。
本当は怖くない?事故物件
不動産賃貸業者の立場から断っておきますが、実際に事故のあった部屋のその後、何かあるのかと言えば、まず何もありませんので、変に期待しないでください。
告知義務の観点から、次に住む人には「そういうこと」があったことは伝えますが、その方たちからの体験談は、ほぼほぼ話題作りだと言ってもいいでしょう。
もし本当にそういう霊的な現象があるとするならば、その後、二人目、三人目と住む人が替わったとしても、きっと何らかの現象が起こっているはずですが、告知義務のなくなった部屋に、過去の出来事を知らない方が住んで、その方が何かを見たり感じたりして、大家や管理人にそのことを報告される方はまずいません。統計を取ったわけではありませんが、まあ100人いたら1人か2人ぐらいは「大家さん、あの、この部屋……」などと報告されるぐらいです。それも霊的な何かを見ただとか、音や声を聞いたと言うことは滅多になく、あるのは大体が、長雨の続いた後だとか、何日か締め切って出かけていて、帰った時だとかに何となく感じる「におい」についてでしょう。
そして残りの99人は、何にも知らずに平穏に暮らしておられます。とは言え、非常に少数ではありますが、はっきりわかる人はおられます。実は私もその一人なのです。ですが幸いなことにうちのマンションではかろうじて事故は起きておりません。だいたい住人さんが亡くなる時は、部屋ではなく、外で亡くなられることが多いです。なので賃借人不在のからっぽの部屋だけが残ることは何度かありました。
M谷さん 40才男性
日当たりのあまり良くない北向きの201号室は、間取り1DK、広さは27㎡ とけっこう広い方だと思う。前住者が出てから半年ぐらい借り手がなかった。その年の冬、ようやく一人応募があった。40才の独身男性。高齢者ではなくて良かった。
M谷さんと初めてお会いした時の印象は、一見まじめそうな方だった。
しばらくしてM谷さんからうちの防犯カメラについていろいろ質問と要望を受けた。
うちの防犯カメラは、玄関と駐車場に2台設置されているが、各階にはなかったのでぜひ各階にも付けて下さいと言う。
こちらが、玄関にオートロックがあるからある程度は大丈夫ですよとお答えするが、そんなものぐらいではダメだと言われ、理由を聞けば、けっしてふざけているのではなく、至ってまじめな顔をしてこう言った。
「ボクね、フリーメーソンに追われているんです」
これには長年大家業をやってきた私も目が、いや耳が点になってしまい、思わず「ハァ?」と返してしまった。聞けば、フリーメーソンだけではなく、イルミナティとか、ヤバい宗教団体とか、まあ出て来る出て来る。で、トドメに「あ、ボク、統合失調症なんですけどね」とニヤッと笑いながらさらりと言う。怖い、怖すぎる。これにはさすがにビビった。
でもM谷さんは、普段はとてもおとなしくて、人の好い人だった。
私とは普通に世間話もするし、通路や階段が汚れていたら掃除もしてくれる。何より家賃もきちんと払ってくれていた。ただ、話をするときに絶対に人と目を合わせないと言う点と、物の置き場所に異常に神経質なところがあった。
共用部分にある物、例えばゴミ箱、消火器、自転車置き場の自転車の位置など、決まった場所以外にあったら、M谷さんは勝手に元に戻したり、動かしたりした。マンションの設備ならばまだ良かったが、自転車置き場の自転車を勝手に移動させたのはまずかった。自転車は住人の所有物であるし、何かわけあって所定場所以外に止めていることもあるだろう。中には若い女性が乗っている自転車や子供さんの自転車もある。
ある時、M谷さんが母子で住んでいる住人の子供(小学生の女の子)の自転車を勝手に触っているところにその母親がばったり出くわした。
そして当然ながら私のところへ苦情を言いにやって来た。「大家さん、201の人、気持ち悪いんですけど、なんとかなりませんか?」最もだと思う。
そのうちこの噂を聞きつけた他の住人から「タイヤの空気が抜かれている。何回入れても抜かれている。M谷さんの仕業に違いない」などと言われ出してしまった。(実際はバルブのムシが劣化していただけ)
それ以外にも「挨拶しようと声を掛けたのに、無視された」「睨まれた」「ドアを開けた時、部屋の中を覗かれた」などなど、もう何かある度に、皆がM谷さんを疑い、そして怖がった。
M谷さんにそのことを注意するたびに、自分は絶対に悪くないし、迷惑をかけているつもりもないと言い張る。そのうち「ボクはいつもみんなからそんな風に言われて誰からもわかってもらえない」と、とうとう泣き出してしまった。これには困った。
たしかに悪意のないことはわかるし、病気なのもわかる。しかしここを大家の立場から言えば、やはり放置はできない。そうこうするうちに、住民たちが団結して、M谷さんに出て行ってもらわなければみんなここを出て行くというところまで行ってしまった。これにはまいった。
それで仕方がないので申し訳ないけれど、転居費用はうちが出すので出て行ってくださいと頼むと、「わかりました。もう慣れてます。大家さん、いい人なので迷惑は掛けられない。すぐに出て行きます」と二つ返事で了承してもらえた。
とはいえ、そんな人がすぐに次の住居が見つかるとは思えない。聞けば、次の新居が見つかるまで、実家へ戻ると言う。引っ越しの日、年老いた母親が挨拶にやって来た。私は申し訳ない思いでいっぱいだった。M谷さんが引っ越してから、住人の人から「やれやれこれで安心して暮らせる」と声を聞いたが、私はどうも煮え切らない思いでいた。
そして半年ほど過ぎた。M谷さんに懲りた私は不動産屋に入居希望者の条件を厳しくしてほしいと要望を出した時のこと。
「ああ、大家さん、ご存じですか? M谷さんのこと」
「いいえ、何かありましたか?」
「ええ、それがね、飛び込み自殺したって話ですよ」
「ホンマですか?」
「ええ、T駅で。うちもT駅近くにも物件ありますんで。でも不思議なんですよ」
「不思議とは?」
「目撃者の話では、夜遅い時間やったからね、ホームはすいとったのに、M谷さん大声で押すな!って怒鳴って快速に飛び込んだらしいっすよ。まるで誰かから逃げてるみたいやって言ってましたわ」
「えっ」
どうもすっきりしなかった。
そう言えば、最近、乱雑に止められている自転車置き場の自転車がね、いつのまにか整然と並べられていることが良くあるのです。
そして自転車置き場で、ふと耳にした聞き覚えのある声。
――僕ね、追われているんです……。
了