ナ ビ
今でも後悔している。恨まれたって仕方がないと思う。
ナ ビ
あれは今から四半世紀ほど前の話になる。私は嫁にせがまれて一匹の犬を飼うことにした。その時うちには子供がいなかった。
ペットショップで見つけた犬は、生後3ヶ月のラブラドルレトリバーの雄で、盲導犬になれるぐらい利口な犬になってほしいという願いから、私と嫁はその犬にナビゲイターの頭文字をとってナビと名付けた。
予想通り、ナビはとても賢い犬だった。特に私の言うことはよく聞いた。
本当に良い犬だったが、ただ一つだけ問題があった。ナビはあまりに人懐っこく甘えん坊な性格で、つまりとても淋しがり屋だったのだ。
私がいないといつも私を探して「くうーんくうーん」と鼻を鳴らした。
私も休みの日に暇さえあれば、車で山や川に連れ出していっしょに遊んだ。
最初は嫁にせがまれて飼い始めた犬だったが、気が付けば私が夢中になっていた。
ところが、ナビにとって、そんな幸福な生活は長く続かなかった。
我が家に、ほとんどあきらめかけていた子供が生まれたのだ。私はたとえ子供を授かっても、ナビと嫁と子供と私で今以上の幸せな家庭を築けると信じていた。
しかしその夢はあっさりと破れ去った。
何の因果か、生まれた子供は重度の障害があり、おまけに肌が弱く、動物に対してもアレルギーを持っていた。
つまり、犬は飼えない。私は泣く泣くナビを里犬に出すことにした。
ナビは犬の訓練学校に通わせて警察犬の資格も取っていたので、里親はすぐに見つかった。
兵庫県北部の牧場の経営者で敷地は広く、たくさん運動の必要なラブでも問題はなかった。
――なるほど、ナビは牧場の番犬になるのか。都会の小さな家の中で飼うよりもきっと奴にとっても幸せに違いない。
私はナビを送り出した日のことを今でもはっきり覚えている。
迎えに来た里親の車に、ナビは喜んで飛び乗った。もちろん私もいっしょだと彼は思っていた。
ところが私は車に乗らなかった。
ドアが閉まる。すぐにナビは車のリヤウインドウに張り付き、見えなくなるまで私を見ていた。
――え? ねえなんで? なんでお父さんは来ないの?
窓から私を見つめるその目は、懸命にそう訴えていた。
その後私は、一身上の都合で嫁と離婚し、障害を持つ子供と仕事と家のことで忙殺される日々を送っていた。しかし、その間もナビのことは一時も忘れたことはなかった。
そしてようやくナビに再会できたのは、なんと子供が小学2年生になった、6年も後のことだった。
きっともう私のことなど忘れているに違いない。そう思っていた。立派な牧場の広い敷地の中を力いっぱい走り回っているに違いない。そう思っていた。
車で2時間掛け、私はナビに会いに行った。
到着して里親さんに案内されて向かった先にナビはいた。牧場の入り口に作られたお世辞にも立派とは言えない、ホームセンターで売っているような小さな犬小屋でナビは飼われていた。
遠くからその犬小屋を見た時、ナビは何かを感じたのか、ゆっくりと小屋から出て来て、こちらじっと見た。そして次の瞬間、私と気付いたのだろう。千切れんばかりにその尻尾を振り、そしてワンワンと吠えて私を呼ぶ。
私は走ってナビの下へ向かった。ナビは自慢の白い毛並みも薄汚れて、きっとシャンプーもあまりしてもらっていないのかもしれない。周りの牛舎からのにおいか、ナビが発しているにおいなのかわからないが、獣臭いにおいがした。でもそんなことお構いなしに、私はナビと抱き合って再会を悦び合った。
短い時間だったけれど、私はナビと散歩する時間をもらうことができた。
ナビは忘れていなかった。私の左側に寄り添うようにぴったりと付いて、決して私の前には出ない。まるで盲導犬のように、とても良く訓練されている。うちにいた頃は、こうやって毎日散歩させていたことを思い出していた。
別れ際、やはりナビは、私に必死で付いて来ようとする。もう一度、できるならナビといっしょに暮らしたい。ナビといっしょに生きたい。
「あの、里親さん、もしも、ナビが手に余るようでしたらまたうちに連れて帰りますが……」
「いいえ、その心配には及びませんよ。お気持ちは有難く頂きます」
当たり前だと思う。6年も里親さんはナビといっしょにいるのだから。きっともう家族なんだろう。これはあまりにも都合が良すぎる提案だと思った。私はナビに何度も謝った。
ごめんなナビ。連れて帰ってやれないんだよ……。
それからまた5年が過ぎた。ある朝のこと。
眠っている私の耳元で「くぅーん」と言う声が聞こえた。私はハッとして起き上がり、辺りを見回した。でもナビの姿はどこにもない。
夢か……。
その夜、里親さんから電話があった。
「今朝、ナビが永眠しました」
彼はそう言った。
そうか、お前、わざわざお別れを言いに来たのか……。
私は今でも後悔している。ナビに謝りたい。お前の欲しかったのは、走り回る広い牧場や大自然なんかじゃない。この狭い家と、私だった。
もしかしたら、私が死んだ時、あの世の入り口で、私を待っていてくれるのかもしれない。
そう思いたい。そうしたらまた、思いっきり抱きしめてやりたい。そうしたらまたいっしょに散歩に行きたい。そう思った。
了