死の準備
死の準備
理想的な死。いろいろな意見もあるでしょう。しかし皆さん「眠るように安らかに死にたい」と言う意見が一番多いと思います。誰も苦しんでのた打ち回って死にたい人はいないと思います。
私の姉は、もう30年以上のベテラン介護師です。ちょっとお高い民間の老人介護施設で働いております。
もうすぐ古希を迎える姉は、いつも笑いながら「自分より若い入居者がたくさんいるよ」と言います。介護の仕事は、天から命じられた大事な役割だと信じて日々、必要とする人たちに一生懸命接しております。これはその姉から聞いた話です。
さてある時、施設に93才の女性が入所して来られました。
この女性、持病らしい持病はなく、つい3ヶ月ほど前まで、足腰もしっかりして、朝晩、散歩などに出歩かれていたそうなのですが、ここのところ、楽しみにしていたデイサービスにも行かず、めっきり外に出ることもなくなり、食欲も落ち、自室で眠っていることが多くなったと言うことでした。
家の人は、とにかく本人の生きる気力が減退して、あまり食事を摂らなくなったことが一番の心配だったとおっしゃいます。
よく昔から、人間食べなくなったらあっという間、と言われていますので、これはまずい、なんとか栄養を摂ってもらおう、何とか生きる気力を見出してもらおう、と入所させる決意をされたようでした。
しかし、ここで問題はご本人の意志がまったく尊重されていないと言うことです。
多くの人を看取って来た姉は、「人間の体と言うものは不思議なもので、自分の死期がわかっている」と言います。それは精神的な意味ではなく、肉体が死を迎え入れる準備をすると言うことなのだそうです。
このおばあさんの、「外出しなくなった」「食べなくなった」「眠っていることが多くなった」「何に対しても興味が薄れて行った」と言う現象は、何か直接的な疾患がない限り、至って自然なことなのです。
この現象は、体が、今まで外に向いて発していたエネルギーを内に向けて発するようになった、つまり、死を受け入れる準備を始めた、と言うことなのです。しかし家族にしてみれば、やはりそれはとても心配です。
どこか悪いところがあるのではないか? どこか苦しいのではないか? 精神的に何か落ち込むようなことでもあったのではないか? などと大変心配するわけです。
実はこれが、「老衰」というものの正体ですが、周りの若い人には理解できません。
入所されたおばあさんは、家族の前ではいつもにこにこ笑顔で決して辛い顔は見せませんでしたが、家族がいなくなると、途端に無表情になり、出された食事には一切手を付けず、姉がいくら食べさそうとして口に入れてもすぐに吐き出し、水分も摂らない。
しかし決して怒っているわけではなく、ましてやボケているわけでもない。大変意識はしっかり保っておられて、姉や他のスタッフには、食事以外は大変穏やかに接しておられたのだそうです。
そのうち体はどんどん衰弱して行き、これではまずいと、所員が点滴で強制的に栄養と水分補給を試みたところ、ちょっと目を離した隙に自分で針を引っこ抜く始末。
「どうしてこんなことをするのですか?」と、姉はおばあさんに尋ねました。今までも認知症の人が、ボケて点滴の針を抜くことはあったそうですが、意識がはっきりしている高齢者が自ら針を抜くと言うことは、「自殺行為」です。
「こちらの皆さんには迷惑をおかけして大変申し訳ない。でも自分の命の終点は自分で決めたいのです」
おばあさんははっきりとこう言われてそうです。
しかし倫理的にも法的にも、放置はできません。それが今の日本の「死」への在り方ですので。
施設側としてはできるだけおばあさんの死を掛けたハンストを阻止しようとしたそうです。
しかし、1ヶ月半後、おばあさんの死に対する尋常ならざる意志が勝ちました。最後は脱水で眠るように亡くなられたそうです。
――まるで即身仏のようやったわ
人間と言うものが、これほど強い意志を持って死を迎えることにただただ驚愕したと姉は言います。
了