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退行催眠と離人感

 退行催眠と言うものをご存じでしょうか? 

 私もテレビなどで名前程度は知っていましたが、まさか私自身が受けることになるとは夢にも思いませんでした。

 そんな私がなぜ受けることになったかと言うと、ある占い師に、あなたはとても重い業を引きずっているように見える。それはきっとあなた自身の幼い頃か、もしくは親兄弟か、ご先祖か、あるいはあなたの前世なのかもしれない。

 つまり過去になんらかの原因があるからぜひ受けてみてください、と勧められ、受けることになったわけです。最初に聞いた時は、ずいぶんと胡散臭いなと思いました。ところが、施術は一回のみで継続することはなく、また代金は一切いらないと言う。

 内心、「ホンマかいな」と思ったが、まあ騙されたと思って試してみてくださいとおっしゃったので受けて見ることにしました。

 施術中に様々な光景が、まるでスクリーンに投影されるように現れては消えました。曖昧な光景もけっこうありましたが、特に印象に残ったシーンをピックアップして書いてみたいと思います。


    退行催眠と離人感

 

 施術が始まって、私の意識はどんどんと過去へ遡る。

 いくつかの不明瞭な景色が浮び、ふと気付くと、幼少期に住んでいた古い2階建ての木造家屋の前でしゃがみこみ、無心に蟻の列を見ている私がいた。

 蟻は等間隔でコースから決して外れることなくずっと向こうの植え込みの方へと続いている。

 私はその列に、小さな人差し指を立てる。すると最初の一匹は私の指に突き当り、一瞬戸惑うが、すぐに指を回避して、何事もなかったように通り抜けて行く。その後から続く蟻たちは、指の手前で何の迷いもなく進路を変え、指を回避すると、また同じコースに戻る。私が指を立てている間、後続の蟻たちは、寸分の狂いもなく、皆、指の手前で回避する同じコースを通る。

 その様子がとても不思議で私は飽くことなくずっと見ていた。

 蟻を見ている私とその私を見ている私。本当の私はどっちだろう。

 思うに、おそらく、今、見ている光景は、別のところから別の私が同じように見ているような気がした。

 とてもふわふわとした不思議な感覚の海を私は漂う。頭の中で長く、微かに浮かんでは消える白濁とした物。その正体が少しずつ明瞭なものになりつつあった。

 これが長年悩んで来た「離人感」の正体なのかもしれない。私を見ていたのは、操っていたのは、もう一人の時のかなたにいる私ではないか。

 その時には気付かなかった。でも今は、現在と過去が混在しているのがわかる。

 では時とはなんだろうか。精神には、いや、魂には、時は、無いのかもしれない。

 私は、ただ、延々と続く、蟻の行列をじっと眺めている。

 と、その時だ。

 「シュウ坊……」


 私を呼ぶ声が聞える。ふと顔を上げると、懐かしい母の顔がそこにあった。

 母はこっちにいらっしゃいと私を手招いている。私がゆっくりと立ち上がり、よちよち歩いて母の方へ向かうと、突然、辺りは真っ暗闇に包まれる。

 ああ、また遡った。

 暗い。何も見えない。意識だけがあった。ただ暑さを感じていた。

 しばらくしてどこかから声が聞こえた。

 

 ――美子はん。

 

 女の声だ。誰かが母を呼んでいた。

「美子はん、具合どないですのん?」

 その声はぞっとする。私の意識に直接邪悪な棘を刺すような気味の悪さを感じる。

「ええ、おかげさまで何とか生きてますわ」

 母の声だ。こちらもどこか棘のある。

「ねえ美子はん。そない無理して産まんでもよろしいのと違いますか? もっと自分の体大事にせななあきませんえ。ほんまに命落としてしまいますわ」

「おおきに。そうですねえ……」 

 ああ、ここは母の胎内。身籠っているのか。なぜかとても暑かった。熱があるのかもしれない。

「これ、よろしかったら召し上がってください。主人から美子はんの好物や言うて、預かってまいりましたよって」

「いやあ、梨ですか。好物です。おおきに、頂きます」

 どうやら母は、何か病気で入院しているらしい。母はもう四十を超えた身。

 おそらく私を身籠ったことが原因なのかもしれない。

 そしてこの棘のある声の主は梨を持って見舞いに来たのだろう。

 しかし、なぜかすさまじく嫌な予感がする。なんだろう。この畏怖する感覚は。


「私が剥いて差し上げますよって、どうぞ召し上がってくださいな」

 女の毒々しい声が響く。

  

 ――腐ってるわ……。

 

 声にならない声が、直接、血に乗って私に届く。

 ああ、なんと言うことだ。見舞い品の梨は腐っている。

 臭いだ。臭いが私の体に届いていた。それは私に取っても毒。食べてはいけない!


「おや、せっかく主人から預かって参りましたのに」

 その女の言葉は酷く辛らつに聞こえた。ああ、わかった。この女、……父の本妻だ。

「いえ、頂きます」

 咀嚼の音が聞こえる。ダメだ!食べてはいけない! そいつは血に乗って私を傷つける。

 私の願いも虚しく、私の体を梨の毒がじわじわと脅かし始めていた。

 その時、母のはっきりした声が聞こえた。


 ――あの、おかみさん、私、この子、産みます。


 その瞬間、私の命が決まった。


「ああそうですか。ま、お好きなようにしはったらよろし。死んでも香典は出しまへんで」 


 幼い時に、母の父によって身売りされた母。その穢れなき身を何人もの男たちが通り過ぎて行った。そして血の滲む思いで芸を身に着け、やがて、資産家である父の妾となった母。

 

 41才と言う高齢で尚且つ、堕胎と流産を繰り返し、医師からも「産むのは命と引き換え」と何度も念を押されていたと聞く。

 そんな母は命を懸けて私を産んだ。そうだ、父と本妻の間には子供はいなかった。

 父の血を継ぐ子供は私だけだ。それは何としてもあの女から父を奪いたかったからなのか。それとも父と自分の生きた証がほしかったのか。

 すさまじい執念を感じていた。


 母は私を産むために帝王切開して子宮を全摘したが、その際、偶発的に膀胱損傷、出血多量で三日三晩生死の境を彷徨った。私も仮死状態で生まれたと聞いた。その当時、実際に母の葬式の段取りまでしていたのだと言う。しかし母のすさまじいまでの執念が私をこの世に送り出した。

 そして、ほとんど産むことをあきらめかけていた私を救ったのは、皮肉にも一番母を憎んでいた女性だった。

 母の執念、本妻の邪念、そのほか、母に付く者たち、本妻に付く者たちのどろどろした欲望。

 私の体は、私の命は、いったいどれほどの強い念が宿っているのだろう。

 これが占い師の言った、強い業を背負って生まれたと言うことなのかもしれない。


                                    了

                                        





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