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梅干しおにぎり


  梅干しおにぎり

 今から20年ほど昔、うちの息子がまだ小学2年か3年ぐらいだった頃のこと。

 ちなみに息子には軽度の発達障害(自閉症)がある。そしてうちは父子家庭で母親がいない。

 私はフルタイムで仕事をしていたため、息子は学童保育のお世話になっていた。学童は学校が夏休みでも開かれていたので大変助かっていた。

 

 それはお盆も近い、8月のある日のことだった。息子がうちに帰って来た時、私の顔を見た途端「父さん、おにぎり作って」と言った。お腹がすいているかと思ったがそうではなかった。

「もうすぐ晩ご飯やで」

「ちがうよ。明日な、ヒデジ君にあげんねん」

「誰? お友達? いきいき(学童)の子か?」

「ううん、違う。でもおなかすいてて梅干しのおにぎりが食べたいねんて」

「ヒデジ君てどんな子?」

 息子が発達障害で何も言わないことをいいことにそんなことを言っているのか、と思ったが、話を聞くうちに、どうもこれは普通ではないと思い始めた。

 

 息子はうまく説明できないので、私の聞いたことを掻い摘んで書いてみる。

 年はちょうど息子と同じぐらいで、白い学童帽、襟のあるボタン付きの黒っぽい上着(おそらく制服か)に、膝まである長い半ズボン、そして息子は木の靴を履いていたと言ったがおそらく下駄だろうか? どうも今の子供の着ているような服ではなさそうだ。

 どこで見たのかと聞けば、校舎裏へ一人でボールを探しに行った時に、花壇の脇でじっと立って息子の方を見ていたと言う。

 聞いた服装から察するに、昭和初期から戦前ぐらいの学童服のように思えた。彼がそのような服装を知るはずもなく、確かに見たのだろうと思う。もとより息子は嘘をつかない。

 そして私は、以前から息子にはそういうものが見えると言うことを知っている。私もある程度感じる体質なので、これも「血」なのか。きっと遺伝に違いない。

 そしていくつか質問をしてみると……。

「その子、怖かった?」

「ううん、怖ない。けど迷子みたいやったで」

「迷子?」

「うん。おうち帰りたいって泣いてた」

「かわいそうな子やな」

「ほんでな、おなかすいたって泣いてるねん」

 なるほど、それでおにぎりなのか。お施餓鬼供養か。ああそうか。もうすぐお盆が来るのか。

「それでおにぎり持って行ったるのん?」

「あした持って来てあげるって約束したねん」

「父さんもいっしょに行こうか?」

「ううん、いい。僕一人で持って行くねん」

「そう。じゃあ明日こっそり持って行ってあげて。誰にも内緒で」

「うん。わかった」


 その夜、私はヒデジに関して少し調べてみた。結局ヒデジと言う名前はわからなかったが、ある事実についてわかったことがある。

「昭和初期、大阪、小学校、犠牲者」で検索すると「室戸台風」と言うワードがすぐに出て来た。1934年(昭和9年)に高知室戸岬に上陸、記録的な最低気圧911hpa・最大瞬間風速60m以上を観測し、高潮被害や強風による建物の倒壊によって死者行方不明を合わせ、約3千人の犠牲者を出している。こんな大きな台風が大阪に上陸していたなんて私には想像もできなかった。

 そして、驚いたことに、息子の通っている小学校でも、校舎の倒壊により多数の犠牲者を出していた。

 おそらくヒデジはその時の犠牲者だ。あれからずっと何十年もそこにいるのだろう。なんと長い時間、息子と変わらない小さな子供の魂が、ずっとその場所から離れられずにいる。それで自分と同じぐらいの息子を見つけたのでやって来たに違いなかった。


 翌日、さっそく梅干しおにぎりをこっそりと持たせてやった。少し心配だったけれど、息子なら大丈夫だと信じていた。

 もし悪い念ならば、昨日も何らかの霊障の類があったはずだが、息子はいつもと変わりなく、心に穢れは感じられなかった。

 自分一人で届けると言う確固たる自信のようなものが感じられた。私は、自分の息子ながら、ええ子やなぁ、とじーんと来ていた。

 

 そして息子は戻って来た。しっかりと渡すことができたらしい。

 翌日、亡き父母のことで日頃からお世話になっている寺の住職さんに無理を言って、いっしょに学校に向かった。学童の先生にも許可を頂き、私たちがその花壇を訪れると、レンガの上に昨日直也に持たせたおにぎりを見つけた。

 それを見た住職さんは、「ああ、もうすでに逝かれたようですね」とにっこり微笑んでおっしゃられた。

                                了



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