赤と黒
好きな人を心から思う。それは愛ですか? 本当は情欲なのではないですか?
赤と黒
あれからもう20年になる。私は一人の女性を心の底から愛してしまった。
いや、少し違う。愛するとは、その人のために自分のすべてを捧げることだと、あの頃の私にはわかっていなかった。若かったのだろう。あれは愛ではなく情欲だった。欲しかった。彼女の何もかもすべてを自分のものにしたかった。
彼女は普通ではない。
彼女には常に男の影があった。
彼女は酷く心を病んでいた。
彼女は依存症だった。
彼女は心にぽっかり空いた隙間を、手首の傷と、SEXで埋めようとしていた。
彼女を知る女性たちはいつも彼女を淫売だとなじった。そして決して自分の彼氏や夫を彼女に近づかせようとはしなかった。
「あの子だけは絶対にやめておけ、あなた自身も壊れる」
そう何度も警告されたが、私の思いは止まらなかった。
彼女の肉体が、彼女の心が、どうしても欲しかったのだ。自分ではどうすることもできなかった。
当時、彼女と付き合っていた男たちの間では、「タダで抱ける女。便利な女」そう言われていた。私だけは違うと思っていた。いつも彼女の身を案じ、彼女のためならこの命などどれほどのものかとさえ思っていたし、彼女のいない世界など考えられない。
でも今思えば数多と居た情夫たちとたいして変わらない。
それは、「お預け」の後のご褒美を、他の男よりもちょっとだけ長く待つことができたに過ぎない。
まあ実際、私は、彼女が私以外の男とも関係があることを承知の上で彼女と付き合っていた。
他の男のところへ抱かれに行く彼女の帰りをいつも待つことができた。
それほど彼女に対する欲望が強かったということなのだろう。
でも、私も血の通う普通の男だったから、待つことは本当に辛かった。悔しくて悲しくて、男と居る彼女のことを思わない夜はなかった。そんな時間が2年以上は続いた。
でもいつか必ず私のところへ戻って来てくれるとずっと待ち続けた。待ち続けることが私の運命だとさえ思っていた。愛と自己陶酔を勘違いしていた。
自分の心が恐ろしい魔物になるまで、それに私は気付かなかった。
その夜、彼女は男に会いに行くと私に堂々と告げて出て行った。
常識ある人からすればこの時点で、「あなたはおかしい!」 そう思うのだろうが、私は、「彼女が誰と寝ようがそんなこと私には関係ない。大事なことは、私が彼女を好きなら、それで良いではないか」と思っていた。私も狂っていたのだ。
その夜、私は彼女を見送った後、一人ベッドでうとうとするが、なかなか寝つけなかった。
もんもんとしていた。当然だろう。
と、その時、私の脳裏におかしな光景が浮かんだ。夢なのか現実なのかよくわからない。
――赤と黒だ。
上から床を見下ろしていた。フロアカーペットは、大きな赤と黒の〝市松模様〟だった。別に彼女は不倫をしているわけではない。自由恋愛だが、小説でもあるまいに。皮肉った色だ。そう考えた時点で、私は彼女を自分の物であると思い込んでいたに違いない。
そしてその横のベッドでは男に馬乗りになった彼女の背中が見える。その白い背中の隆起した両肩甲骨が、折れた羽みたいに揺れていた。私はただその光景をずっと見ていた。見てはいけないと思いながらも目を背けずに終わりまで見ていた。
私の胸の奥底からやり場のない悔しさと怒りと哀しみが吹き上がる。そして最後に虚しさだけが残った。これは夢だ。夢を見ていたに違いない。そう思って、家に戻った彼女には何も言わなかった。
それから数日後、彼女の情夫の一人が、事故で死んだと知った。私は何とも思わないふりをしていたが、実は内心、少し喜んでいたのだ。ザマアミロと。
しばらく経ったある日、私は久しぶりに彼女とホテルで一夜を共にすることになった。
場末のラブホテル。タバコの臭いの染みついた、男と女の情念漂う部屋。照明をつけると、見事な赤と黒の市松模様の床だった。
そうか、あれは自分の中の魔物が目覚めた夜だったのだ。
自分は他の男とは違う。彼女を心から愛しているから、ずっと待つことができる。
でも違った。忌まわしい生霊となって、ここへ飛んで来ていたのだ。
男を呪い殺すために。
了