恋に落ちるのではなく
「デイジー? どうしたの?」
大きな目をますます丸くして、デイジーの親しい友人――ロザリーは聞いてきた。
デイジーは、肯定とも否定ともわからぬ微妙な返事をした。
いつものように、デイジーは自宅に
親しさを表すように、デイジーの自室にあるテーブルと椅子で向き合って座っている。
常なら、他愛のない話が無限にできる相手だった。デイジーは男爵家の令嬢で、ロザリーは伯爵家の令嬢で家格に差があるが、デイジーの家はそれなりに裕福で、ロザリーの家は社交界でも“善良伯”などと呼ばれているほど気さくで親切な一家だった。
それにデイジーとロザリーはほぼ同年代で、性格の相性もよかった。
ロザリーは明るく裏表のない性格で、堅苦しい礼儀作法が苦手なデイジーにとって話していて楽しく、素敵な友達だった。が、天真爛漫ゆえに、
――それでも、少なくとも馬鹿にしてくるようなことはないだろう。
デイジーは思い切って、友人に話してみることにした。
「……最近、『バラよりも美しいあなた』という小説を読んだの。知ってる?」
「小説はあまり読まないわ。どんな内容?」
ロザリーは大きな目を丸くしながら聞き返してくる。
年頃の令嬢の間で流行っている作品の名前すら知らなさそうなところに、デイジーは少し笑ってしまいそうになった。
「身分違いの恋のお話なの。古い名家のお嬢さまと、従僕の青年の恋よ」
デイジーが簡単に語ると、ロザリーはふうん、とつぶやいて不思議そうな顔をした。
「面白かった?」
「……ええ、とても。そのせいで、ちょっと気になってしまって」
「気になる? 何が?」
デイジーの友人は無邪気に小首を傾げる。そんな仕草は子供っぽくもあったが、不思議と愛らしさのほうがまさった。いやみがないのも、素直な性格のためだろう。
デイジーは少し気恥ずかしくなり、自分の手前のカップを取った。
「だからね……恋とはどんなものなのかしら、って」
とたん、ロザリーは見開いた目で忙しなく瞬いた。
「恋」
「……そう、恋」
「恋……」
「そんなに聞き返さないでよ」
「だ、だって、急に変なこと言うから……!」
慌てた様子のロザリーに、デイジーは少しむっとした。
「変なことって何よ。たまにはお茶やケーキ以外の話だってするわ。ロザリーはいつも食べ物の話ばかりじゃない」
「それは、だって……。美味しいものの話なのに!」
「わかってる。ロザリーはこういう話あまり興味なさそうね」
デイジーはそう言って、思わず笑った。
だがふと真顔になり、友人に聞いていた。
「でも、あの方とはどうなの? ――ルイニングの“宝石”とは?」
とたん、ロザリーの大きな目がこぼれんばかりに見開かれた。そして丸みのある頬にさっと赤みが宿ったかと思うと、ばたばたと焦ったように顔の前で手が振られた。
「どっ、どうしてブライトがここで出てくるの!?」
「……あのブライト様と一番親しいご令嬢がロザリーとあなたのお姉様だからでしょ。昔からの交遊関係なんて、他のご令嬢が血の涙を流して羨んでるわよ」
「ちっ、血の涙!?」
「で、どうなの? 大丈夫、誰にも言わないから」
デイジーが少し身を乗り出すと、ロザリーはその分だけ後じさるようにしてのけぞり、ぶんぶんと頭を振った。
「そんな関係じゃないってば! ブライトはその、いつもからかってくるし意地悪なんだから! デイジーが言うような仲良しじゃないのよ!」
「ふうん? 怪しいわあ……」
「ほ、ほんとにそんな関係じゃないの! 私はあんな人、好きじゃないし、ブライトのほうだってそうよ!」
デイジーは片眉を上げてロザリーを睨みつつ、真っ赤になる友人をそれ以上問い詰めるのはやめた。その反応こそが怪しいと思ったが、これ以上はさすがにロザリーの機嫌を損ねてしまうだろう。
――ルイニング公爵家の“生ける宝石”とまで言われる、次期ルイニング公のブライト・リュクスは、星々のようにきらめく貴公子たちのなかでも一際強く輝く存在だった。
大貴族ルイニングの嫡子というだけでなく、美しい銀髪に太陽を思わせる黄金の瞳を持った長身痩躯の美男子で、明朗快活な性格とあいまって、令嬢から未亡人まで、もっとも熱い視線を送られている一人だ。いまだ婚約者はおろか、恋人の一人もいないという。
そのブライトと最も親しい令嬢というのが、この目の前にいるロザリーと、その義姉ウィステリアだった。
ルイニング公爵家と、ロザリーの実家であるヴァテュエ伯爵家には家格の差があるが、当主同士が昔から親しくしており、その流れで子女たちも幼なじみのような関係になったというのは有名な話だ。
他家のご令嬢からすれば、ロザリーとその義姉は強い羨望と嫉妬の的だった。――義姉ウィステリアのほうは、更に別の理由からもっとやっかむ人間もいる。
「……恋なんて、わからないもの」
デイジーがぼんやり考え込んだとき、ロザリーがふいにそんなことを言った。
ぽつりとこぼされた言葉の意外さに、デイジーはぱちぱちと瞬いた。――まさか、と言いかけ、この友人ならありえないことではないとすぐに思い直した。
ロザリーはもう十七だが、婚約者もいなければ浮いた噂一つもない。求婚者はそれなりにいるはずだが、当のロザリーがまだ結婚に興味がなく――ロザリーを溺愛している両親が急かしてもいないためだった。
デイジーは思わず噴き出した。
「ロザリーならそうかもね!」
「な、なによ! そんなこと知らなくてもいいじゃない……! いずれ、そんなものなしに結婚しなくてはいけないわけだし!」
「あら。結婚相手と恋をしたっていいじゃない。むしろそれが一番の理想じゃない? 恋をして結婚するか、結婚相手に恋をするか」
デイジーがからかうように言うと、ロザリーはむうっと眉を寄せてしかめ面をした。そんな顔ですら可愛らしく思えるのは、自分がロザリーを好ましく思っているからか、あるいはロザリーの天性の魅力なのかわからない。あるいはそのどちらでもあるのかもしれなかった。
「だ、だいたい、恋愛って心の機微とかどうとか、駆け引きめいたものなんでしょ? そういうのは苦手なの。……ウィス姉様ならわかるかもしれないけど」
唇を尖らせながらロザリーがそう言ったとき、デイジーは自分の中で少し体温が下がるのを感じた。
(ウィス姉様なら、かぁ……)
――ウィス姉様、というのはロザリーの義姉であるウィステリアのことだ。
幼い頃に実の両親をなくし、ロザリーの両親に引き取られてから、ロザリーと本当の姉妹のように育てられたのだという。血は繋がっていないが、実の姉妹のように仲が良いと聞いていた。
年の差は三歳ほどであるというのも、良好な関係を築くのに一役買ったのかもしれない。
デイジーも何度か、ウィステリアという人を見たことがあった。よく言えば天真爛漫、悪く言えば少し子供っぽいところのあるロザリーとは真逆で、落ち着いていて淑やかな女性だった。すらりと背が高く、深い色の髪に神秘的な紫色の瞳をしたところなど、ロザリーと似た部分はほぼ一つもない。
顔立ちにしても、可愛らしく愛嬌のあるロザリーと比べ、ウィステリアのほうは目鼻立ちがはっきりとして整った顔をしている。多くの人が口を揃えて美女と言うに違いない容貌だった。
だがその肌の白さや目元の涼やかさゆえか、デイジーにはどこか冷ややかな女性に見えた。
あの美貌と背の高さと相まって、威圧感のようなものを感じることさえある。ロザリーのように気さくに話せないし、他愛のないことでも話し合えるような親しさがない。
――美しい女性で、ヴァテュエ伯爵家の養女という身分でありながらいまだ結婚も婚約もしていないというのは、やはりそのように遠巻きにされているのも原因なのではないだろうか。
デイジーはそんなふうに思ったが、しかしそれをロザリーに言ったことはなかった。これからも言うつもりはなかった。
デイジーはおずおずとロザリーを見た。そして半ば無意識に声を落として、心に浮かんだ疑問を口にしていた。
「……お
そう聞くと、ロザリーは再び目を丸くした。
「え、ええっ!? ウィス姉様とブライトが……、な、ないない! それもないわよ! 姉様はブライトに遠慮がちなところがあるし……た、確かにブライトは、ウィス姉様には私よりも優しいけど……」
ロザリーは大きく手を振って言いながら、語尾に行くにつれて目を伏せた。どこか居心地が悪そうに、両手を組んでいる。
その様子に、デイジーもまた忙しなく瞬く。どういう意味、と聞く前に、ロザリーは慌てたように声をあげた。
「わ、わからないわ! その、適切な距離……というの? 昔みたいな友達にはなれないでしょ。だからたぶん、姉様も考えてそうなっているんだと思うわ。姉様も、結婚にまだそんな興味がないみたいだし。ブライトだって、そんなに変わっていないし……」
どこか言い聞かせるようなロザリーの口調に、デイジーは難しい顔をしたものの、それ以上友人を言及するつもりにはなれず、黙って聞いた。
(変わっていない……昔から、ブライト様と仲が良くて、今もそうってこと……。それこそ羨まれる原因だけど)
――やはり、ロザリーはこういったことには疎いのだろう。
(お義姉さまのほうは……ロザリーほど疎くはなさそうだけど)
ロザリーいわく、義姉がブライトに対して遠慮がちというのは、むしろ普通だろう。ロザリーのほうが特殊なのだ。
デイジーはそんなふうに結論づけた。
当のロザリーは、眉間を寄せ、難問に当たったような顔をしている。
「う……頭が痛くなってきた」
「……この話で頭が痛くなるのってロザリーだけだと思う」
「ええ?」
「……ところで《フェイリ》のケーキを買ってあるんだけど、食べる?」
「食べる! どうしてそれを早く言ってくれないの!?」
とたんに顔を明るくするロザリーに、デイジーは声をあげて笑った。
まあいいわ、と胸の内で自分に言い聞かせる。
(――恋は不可抗力で落ちる、とかいうらしいし。私は落ちたくなんてないもの)
どうせなら落ちるのではなく、のし上がりたい。デイジーは心の中でそう独語する。
すぐに、メイドが運び込んできたケーキを前にしていつものように味の評論会がはじまる。憂いも難しいこともないその会話に夢中になると、デイジーの頭から恋愛への興味はすっかり薄れていった。
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