冷めた珈琲

作者: 菱屋千里

 午前11時、周囲の静けさが遠くを走る車の音に時折破られる中、私は30メートル先の一点をじっと見つめていた。


 軽ワンボックスの後部座席には、必需品が積まれている。クーラーボックス、携帯トイレ、そして何本もの望遠レンズである。窓ガラスに貼られたスモークフィルムは、私がこの車内にいることを他人に気付かせないだろう。後部座席のフィルムには直径8センチの穴がいくつか開けられ、穴には内側から目隠しの吸盤が貼り付けられている。自分の隣の窓の吸盤だけを外し、その覗き穴から宿泊施設の出入り口を監視していた。ここから決定的な一枚を撮れれば、私のミッションは完了する。


 探偵社に入ってから二年が経過している。社長と私、たった二人だけの小さな事務所である。警察OBの社長に鍛えられ、最近はひとりでも張り込みをこなせるようになっている。TPOを考慮すれば、女性でも何の問題もない。今日のようなラブホテル街では、夜の仕事に従事する女性に扮することもある。車内に常備した衣装箱から選んだのは、明るい髪色のウィッグと胸元が開いた派手なスーツ、そして目立つアクセサリーだ。これなら、徒歩での追跡が必要になっても不審に思われることはない。


 退屈なデスクワークをしていた大手企業では、過剰な好奇心からゴール寸前の社内恋愛に小さな綻びを見つけてしまった。持て余していた行動力と洞察力で、大きな裏切りがすぐに明らかになった。この職を選んだのは、どうせ転職するなら自分の能力を活かそうと思ったからだ。


 今回の依頼人はターゲットの妻である。面談の際、彼女の声には疲労と失望がにじみ出ていた。夫婦仲が冷え切っており、二人の会話が必要最小限に留まっていること、愛情を示す態度が消え失せてしまったことを静かながらも悲痛な声で語った。依頼者は夫が外に女を作っていると疑い、離婚を有利に進めるための証拠が欲しいと希望していた。そして、夫の「幸せにするよ」というプロポーズの言葉が嘘だったと言い、寂しそうに笑ったのを見て、私の心は義憤で満たされた。少し歪んだ正義感であることは自覚しているが、それがやりがいに繋がっているのも確かだった。


 ターゲットの男が小柄な女性とこの宿泊施設を訪れたのは、昨夜21時過ぎであった。チェックイン時の証拠は押さえているが、不貞行為を確実に証明するには、チェックアウト時の証拠も必要だ。終電の時間が過ぎても二人の姿は現れなかった。しかし、深夜にタクシーで帰宅する可能性も残っており、朝まで気を抜くわけにはいかなかった。


 浮気相手の女性は特定済みで、ターゲットの部下である。入社以来ずっと彼と同じ部署で働いており、42歳の既婚者である上司と、33歳の独身部下という関係が続いている。男は妻とは別れるつもりだとでも言っているのだろうか。あるいは割り切った関係として接しているのかもしれない。いずれにせよ、相手に家庭があることを知りながら関係を持っているのだから、彼女にも非はあると言える。


 チェックアウトの時間はとっくに過ぎている。おそらく延長しているのだろう。望遠レンズを手に眠気覚ましのコーヒーを啜りながら待っていると、赤い回転灯を明滅させたパトカーが目の前に停まった。警官たちは無線機からノイズを発しながら、私が監視しているラブホテルに駆け込んでいた。昨夜チェックインしたカップルは、ターゲットたちを除いて、すでに全員チェックアウトしていた。ターゲットたちに何か問題が発生したのかもしれない。大きなロゴの入ったバッグを持ち、私は車のドアを開けた。


***


 ホテルにはタッチパネルや自動精算機はなく、小綺麗なフロントが設けられていた。ラブホテルではなくファッションホテルだという主張なのだろう。ベルを鳴らすと、中年の女性が奥から現れた。


「はい、なんでしょう?」

「あのっ、私、ここで忘れ物をしてしまったみたいなんですけど……」


 軽く身を乗り出して焦っているふりをすると、彼女は少し目を細め、私の顔と派手な服装を値踏みするかのように眺めた。


「ええと……、どのような品物でしょうか?」

「ピアスです。プラチナにダイヤの石がついています」


 中年女性は棚からノートを取り出し、眼鏡を掛け直した。ページをめくり、紙面を指でゆっくりとなぞった。


「ピアスは……ないですね」

「かなり小さいから、なにかの隙間に落ちているかもしれません」

「清掃の際に見つかったものは全部保管していますが、ピアスはないですよ」


 応対の様子からは、フロント業務に慣れていないことが伺えた。しかし、業務の仕組みは把握している。裏方のスタッフであろうと考え、畳み掛けることにした。


「部屋に入れてもらってもいいですか? 大体どこに落としたかわかっていますので」

「それはちょっと……」

「高そうなピアスだからって、後で探してネコババするんじゃないですよねっ!?」


 声を張り上げ、少し興奮気味に詰め寄ると、彼女はうんざりした表情を見せた。


「……わかりました。何号室でしたか?」

「それが、覚えていないんです。でも部屋を見れば分かると思います」


 彼女は眉間に皺を寄せ、少し投げやりに言った。


「そうですか……。でしたら、ご自分で見てきてください。清掃時間なので、どの部屋も鍵は開いています。ただ、403号室はちょっと……」


 心が躍った。ターゲットの部屋を特定できた。うまくすれば、不倫相手と一緒の現場を押さえられる。


「何かあったんですか?」

「その、今ちょっと立て込んでまして、けいさ……」

「わかりました。お忙しいんですね。ピアスを探してきます」


 入るなと明言される前に、急いでエレベータに向かった。


***


 4階に到着し、ブローチに偽装した隠し撮りのビデオカメラを起動させた。廊下を進むと、403号室から警官が部屋から出てくるのが見えた。階段へと身を隠し、息を潜めてやり過ごした。ターゲットはまだ中にいるのだろうか。部屋の前まで廊下を進んだ。わずかに開いた扉の隙間から物音が漏れ聞こえた。そっと中を覗き込むが、死角になって何も見えなかった。


 警察を呼ばれるような事件か事故なら、二人の関係は破綻するかもしれない。その場合、不貞の証拠を押さえる機会は二度と巡ってこない。部屋に入ってターゲットに警戒されるリスクと、チャンスを永久に逃すリスク。どちらも大きいが、一瞬でも姿を確認できれば、隠し撮りの動画が証拠になる。意を決して扉を開けた。突入だっ!


 部屋に入ると、二人の警官が何かを深刻な表情で話し合っていた。一人がすぐに私に気づき、近づいて来た。


「ここは立入禁止です」

「あ、あの、私、落とし物を探していて……」


 私は焦りを隠しながら、言葉を濁した。部屋の奥にガウン姿の男がベッドの上に横たわっているのが見えた。シーツがめちゃくちゃに乱れている。空気には異臭が混じっていて、何かがおかしいことは明らかだった。


「すぐに出ていってください」

「ピアスなんですけど、ベッドの隙間にっ」


 警告を無視し、さらに部屋に踏み込むと警官に腕を掴まれた。だが、ベッド全体が視界に入った。男の投げ出された脚には血の気がなく、首には何かの跡がくっきりと残っていた。そして枕の上には、どす黒く変色したターゲットの顔があった。


「し、し、し、死んでるっ!」


 私は声を上げて叫んだ。


 ***


 警察の事情聴取を受けた後、私は自由の身となった。ビデオカメラとボイスレコーダーのデータは消去された。探偵という職業や依頼人の秘密を守ろうとする私の態度は、警察には良い印象を与えなかったようだ。しかし、社長が警察OBだと判明すると、彼らの態度は軟化し、少しだけ事情を明かしてくれた。女は一夜を共にした後、離婚を拒むターゲットに業を煮やし、最終的に凶行に及んだという事実が、冷静な刑事によって語られた。


 後日、依頼者に調査結果を報告することになった。彼女は夫を失っており、警察からは既に不貞行為の事実を知らされているはずだ。しかし、彼女は予定通り調査結果の報告を希望し、費用も支払うと言う。探偵社としては、依頼された業務を責任を持って最後まで遂行する必要があった。報告書には、ターゲットの行動の時系列、浮気相手の身元調査結果、そしてあの日の二人の姿を添付した。しかし、今となってはこれらの情報の価値は乏しい。有利な離婚条件を目指しての調査依頼だったが、状況は一変してしまった。だが、私は依頼者に向き合わなくてはならない。


 事務所の応接室で、私は髪をまとめ、紺色のスーツに身を包み、報告書の内容を淡々と説明した。依頼者は黒いスカートに身を包み、沈んだ表情で頷きながら報告を受け止めた。社長は、調査が有利な離婚に役立たなかったことを謝罪した。私は依頼者の力になりたいと考えて精力的に調査をしたが、何の役にも立てなかったのだ。


「調査結果は以上です。何かご質問はございますか?」


 私が尋ねると、依頼者は報告書から顔を上げた。


「ありがとうございます。質問ではないのですが……」


 彼女はバッグから小さなオレンジ色の箱を取り出し、テーブルに置いた。


「これは夫の会社から届いたものです」


 私たちに向けて小箱が開かれた。10石のダイヤモンドがちりばめられたリングが静かに光っていた。添えられたメッセージカードが横に置かれた。


 『10年間ありがとう』


 そう記されていた。カードを指でなぞりながら、依頼者は静かに言った。


「許すことにしました」


 彼女の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。その言葉の重みを私は痛いほどに感じた。自らの経験から、信じていた人の裏切りに向き合うにはどれだけ多くの力が必要かを知っている。この一言には夫への愛憎、悲しみ、そして最終的な許しという複雑な感情が込められている。


「もうすぐ結婚記念日でした。やっと夫の気持ちが理解できました。すべてを許せるわけではないですが、彼の想いは受け止めようと思います。彼は私に感謝していたんですね。それなのに、私は……」


 私は言葉を失った。しばらくの沈黙が続いた後、依頼者はハンカチをしまい、私たちに頭を深く下げた。


「お世話になりました。私のために色々と動いていただき、ありがとうございました」


 依頼者をエレベータまで見送った後、私は応接室に戻った。テーブルにはまだ片付けていないコーヒーカップが3つ。社長はまだそこで頬杖をついており、何か思案している様子だった。


「社長、さっきの話ですが」


 そう切り出すと、彼はじっと私を見つめた。


「当ててみようか。メッセージカードに宛名はない。高価な指輪を自宅に持ち帰らなかったのはなぜか」


 その通り、ターゲットの行動は不自然だ。そう考えると別の可能性が浮上してくる。


「そうです。不倫相手は大卒入社で、33歳の現在までずっと同じ部署。こちらも10年間。だからっ」


 彼が私の言葉を遮った。


「結論を急ぐな。夫が遺した最後のメッセージは『10年間ありがとう』だった。それ以上のことを憶測で話しても、意味がない」


 確かにそうだ。社長は正しい。探偵は真実を暴くことで、時には人生を変える。しかし、それが必ずしも依頼者の幸せにつながるとは限らない。そんなあたりまえのことを思い出した。過去の私も、真実を追求して大きな心の傷を負った。


 無意識に、テーブルの下で拳を固く握りしめていたことに気づいた。また過去にとらわれている。気持ちを落ち着かせようと、テーブルからカップを手に取った。もうすっかり冷めている。黒い水面を見つめながら、私は口を開いた。


「あのメッセージで、彼女は冷め切ったはずの関係に、温もりを感じられたんですね」

「それも、憶測だな」


 社長は幾分優しい口調でそう言い、部屋を後にした。私は残っていた苦い液体を一気に飲み干した。何かを受け止めることができた気がした。