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歌うま

 歌がうまいってどういうことなのか、考えることがよくある。

 うまい歌を聞いたら、うまいね、とつい言ってしまうのだけれど、どうして、どのあたりをうまいと思ったのか、とっさにはわからない。しかも、やっと音程を取れた子どもに対しても、カラオケの歌唱に対しても、テレビに映ったアイドル歌手に対しても、劇場で歌うオペラの歌手に対しても、同じようにうまいと言ってしまう。

 おそらくわれわれは、うまいということばを、予想外にうまいとか、年齢の割にうまいとか、仲間うちではうまいとか、アマチュアにしてはうまいとか、あるカテゴリーの歌手のなかでうまいとか、そのつど相対的に使い分けている。ならば、ことばを絶対的な意味で使った歌のうまさというのは、存在するのだろうか。


 そういう考えで言えば、世の中の無数のアマチュアの上にプロの歌手がいて、プロの歌手のなかでも流行歌の歌手の上にポップスだとか呼ばれている歌手がいて、その上にシャンソンとかジャズとか上級の存在があって、さらにその上にクラシックの声楽があって、下位のジャンルは芸術的な歌を大衆向けに噛み砕いた上位存在の映し絵のようなもので、つまり最上位にいるのはクラシックの声楽家ということになる。

 けれども実際は、クラシックの歌手がポップスをうまく歌えるわけではないし、ポップスのうまい歌手のすべてにクラシックの素養があるわけでもない。ジェシー・ノーマンやキャシー・バーベリアンといった大歌手がポップスやビートルズを歌っているけれど、悪い冗談のようにしか聞こえない。


 つまり歌手というもののまとまりが、うまい歌手を頂点としたピラミッドをなしていると考えれば、クラシックやらジャズやらシャンソンやらポップスやらレゲエやら……といった各ジャンルが造るピラミッドは、それぞれ別の場所に設置されていて、それぞれが別の頂点を目指している。

 いや、言われてみればあたりまえのことなんだけど、たとえばロックバンドの音楽は、青春特有の勢いだとか、ビバップ・ジャズにはスイング感だとか、タンゴには声に涙があるか、浄瑠璃だと(なさけ)があるかどうかだとか、それぞれの理想があって、それぞれのジャンルでそれを極めた歌手が頂点、ということになる。逆にいえば、どういう歌手(あるいは楽器演奏)を頂点の理想とするかで、それぞれの歌ものジャンルが形成されている。


 それぞれのピラミッドは独立しているが、隣接したものは裾野が大きくかぶっていたり、ほとんど重なって二つの頂点を持っていたりするものもある。ソウルとR&Bだとか、マンボとチャチャチャだとか、テクノとエレクトロニカだとか、MPBとミナス派だとか。

 また、あまり重なりがないジャンル同士でも、ポップスからオペラに転向したルネ・コロの場合みたいに、低層階に連絡通路が存在する場合もある。あるいはマイルス・デイヴィスみたいに、頂上地点から別ジャンルへの通路を強引に貫通させてしまう稀な例もあるけれど、人間の体そのものが楽器である歌の場合はさらに稀なことになって、各ジャンルの頂上附近から別ジャンルへの通路はほとんど存在しない。そのジャンルを極めれば極めるほど、別のジャンルとの距離が広がってしまう。


 では、ひときわ高くそびえているように見えもするクラシックの歌というのはなんなのか。

 これはいま、世界中のかなりの音楽を席巻している西洋由来の(五線譜の)音楽の起源に係わる話なのだけれど、創生期には音楽と数学や科学がひとくくりにされていたことを思い出せば、クラシックの声楽とは人間の声の機能を合理的に究極まで高めることを目的とするジャンルであって、声は楽器の一つとみなされる。テクニックを磨くことが歌の修練のかなりのウェイトを占めるので、訓練をきわめればきわめるほど、誰の声だか聞きわけがつきにくくなっていく。最終的な頂点を決めるのは、きわめられた声という楽器そのものの価値(ヴァリュー)になる。

 一方で、日常語で言う、歌がうまいというのは、歌を通してその人そのものが感じられる、生き方や気分や嗜好がありありと感じ取れることを評価する場合が多い。歌を通して感じられた人柄が、時代を象徴するとか、ある主張を代弁するだとかの普遍性を持っていれば、大歌手、人気歌手ということになる。

 この場合、テクニックをあからさまに誇示することは、人間性の感受を損なう要素として避けられる傾向にあって、声質はバラエティに富んでいる。


 これに加えて現代では(いや、現代に限らずどの時代にもあったのかもしれないが)、それらに属さないもう一つの潮流があり、アニソン、ボカロ曲、Vチューバーの歌など、大きく言えばキャラクター・ソング的な歌がそれにあたる(意外だけれど、演歌やメタルなどのジャンルも、むしろこちらに属するのだろう)。この場合、歌い手そのものがすでに概念的な存在なので、人そのものを表現するという部分をすっ飛ばして、最初から普遍性について――世の中にすでに定着していることがらについて歌うことになる。

 つまり、それ自体がピラミッドを造らず、各ジャンルを結びつける低層階の連絡通路を器用に巡回しながら遊撃的に駆け上がるのを競うような、メタな性質の領域を形成している。

 おもしろいのはこのキャラソン的な領域が、普遍性という没個性な対象を扱うゆえに、一般的なポップスよりもテクニックの重視をあからさまに見せることを厭わないことで、歌い手の意識や修練の過程も、クラシックの声楽家と重なる部分が多い気がする。


 具体的には(といっても部外者の憶測に過ぎないのだけれど)、クラシックの声楽は、胸声、頭声、ファルセットという声の領域を訓練するわけで、胸声は地声を、ファルセットは裏声を歌声として洗練させたもので、頭声は胸声とファルセットの境界(パッサージョ)を意識しながら訓練によって第三の声のポジションを広げた部分で、頭蓋を響かせる声、頭頂から抜けるような声と表現される。ただし、いずれもそれぞれの学習者なり、教師なりの理解で解釈されているので、世界的に通用するようなメソッドがあるわけではないようだ。

 クラシックの場合はホールを共鳴させるという特殊な目的で訓練をするとはいえ、この頭声というものが、主に非クラシックの音楽で言われているミックス・ボイスというものの概念とかなり重なっているのではないか、と思うのだけれど、どうなんだろう。

 手作業で声を調教するボカロ奏者が人間の声のテクニックを意識するのは当然のこととして、Vチューバーの歌なんかは、むしろこういったテクニックの個性的な組み合わせを前面に出すことで個性を演出する傾向にある。


 と、こんなふうに、最初の問いかけ――歌がうまいってどういうことなのか、からは、考えれば考えるほど裾野を広げてしまうばかりなのだが、こうなると歌がうまいかどうかは歌い手に属するわけではなく、聞き手がどの領域にいて、さらには、どの階層まで登った状態で聞いているのか、にかかわることになってしまい、絶対を考えれば考えるほど、相対的な価値にすぎないという振り出しに差し戻されてしまう。



 ところで、声楽で言う「頭声」ってなんなのだろうと考えた時期があったのだけれど、ふと思いついて、これではないかと思うことがあった。

 誰でも簡単にできる実験です。

 自分の頭に頭蓋骨というヘルメットをかぶっていると意識して、ヘルメットの後ろの(ふち)に左右の手の親指を置く。つまり耳の後ろの部分を親指で撫でて頭蓋骨と骨のない部分の境目を見つけておく。

 次に地声でドレミファソラシドレミ……と音階を上がる声を出しながら、声が出なくなったところで頭蓋骨のヘルメットを上に向けてぐいっと押し上げる。

 すると、出なかった声が二音ほど出るようになる。同時に、頭蓋骨の上部に声が反響するような感覚が得られる。声そのものにも倍音が発生していると感じられる。

 偶然見つけたことで、すでにどこかで言われているか、誰かが実践しているのかもしれないが、擬似的に感覚したこの声の領域を広げることが、頭声の訓練ということなのかな、なんて思っている。


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