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読んだ本の感想メモ

・E.A.ポー『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』(巽孝之訳、集英社文庫ヘリテージシリーズ 09)

・スティーヴン・グリーンブラット『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(河野純治訳、柏書房)


 あれこれ探していたら、以前読んだ、

・ジャック・ル=ゴフ『中世とは何か』(池田健二・菅沼潤訳、藤原書店)

 の適当な感想メモも出てきたので、末尾に追加しました。



 ポーの最大長編『アーサー・ゴードン・ピム』はむかし創元推理文庫で読んだような気もするのだが、前半しか記憶にないので、たぶん途中でやめてしまったのだろう。たしかに創元文庫版はおどろおどろしくて読みづらい翻訳だが、今回の新訳は平易明快で頼もしい。

 密航、嵐の危機、大虐殺、漂流、カニバリズム、秘境探検、残虐な原住民との遭遇、などなど、グロテスクてんこ盛りの海洋冒険小説で、最後は自然物とも人工物ともつかぬ巨大遺跡のような場所で、先史文明のメッセージのようなものが発見されて、話は中断する。なるほど、ここからクトゥルー神話につながっていくのか。

 誰が惨殺されようが、誰が食べられようが(誰を食べようが)、主人公ピムの視線はひたすら唯物的なピクチャレスクを貫いているから、持続する怖さとしては書かれていないのだけれど、つねに危機的状況にある主人公の閉塞感と対比される無辺大の大自然は、全篇を通じてじわじわとした恐怖をもたらす。いまでいう、宇宙からの脱出もののような、空間恐怖症ホラーとして面白い。

 苦労しながら読むべきタイプの作品でもないので、すらすら読める久々の新訳がありがたい。併収作品の選択も優れていて、集英社文庫ヘリテージシリーズのなかではこのポーの巻がいちばんの(唯一の?)お奨めかも。



『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』は、紀元前一世紀ごろに書かれたルクレティウスの『物の本質について』という失われた哲学詩が、ルネサンス期の一四一七年に発見され、その驚くべき内容がヨーロッパ社会を大きく変えることになる、というノンフィクション……だと期待して読むと思う、こんな題名がついているから。

 ところが本書の原題は、''The Swerve : How the World Became Modern''(踏みはずし:近代はいかに始まったか)というもので、実際には『物の本質について』の写本を発見したポッジョ・ブラッチョリーニの生涯と、彼が生きたルネサンス勃興期の社会情勢の記述が八割以上を占める。正直にわかりやすいタイトルをつけるとすれば『ヨーロッパ社会を変えた本の発見者、ポッジョ・ブラッチョリーニの偉大にして凡庸なる肖像』とでもなるのか。

 たとえばジャック・ル=ゴフの ''À la recherche du Moyen-Âge''(中世を探し求めて)という書物の場合も『中世とは何か』という邦題がつけられて、これを読めば中世とは何かが分かるのではないかと期待させるのだが、じっさいはタイトルどおり中世史を専攻する学者が研究の(かなめ)となる研究課題を振り返るという内容だった。それと同様、よくある翻訳タイトル詐欺なのだが、ただでさえ売れないであろう歴史書の良書を少しでも多く売りたいという版元の悪戦苦闘を思うと、あまり悪くは言えない。


 ローマ教皇の秘書を務めていたポッジョ・ブラッチョリーニというブックハンターが、ドイツ僻地の修道院の図書館で『物の本質について』の写本を発見する導入部の記述はまるで小説のようで胸躍らされるのだが、それと同時に、二千年前に原子論を予見した凄い本があった、などと締めくくるジャーナリスティックな薄っぺらい結末も予感されて、いささか気が抜けてしまう。けれどもじつはここからが筆者の真骨頂で、物語は安易な展開に走ることなく、ポッジョが勤めていた伏魔殿のような教皇庁と、彼が仕えていた海賊家系の対立教皇ヨハネス23世にまつわる、生き馬の目を抜く政治状況を、資料の許す限りの精密さで注視することになる。

 ポッジョ・ブラッチョリーニという実質的には唯物主義者なのに、カトリック教会にしがみつかざるを得なかった人物の立ち回りを克明に描くことで、教会側にとって原子論というものがいかに理不尽な力を行使してでも排除せねばならなかった脅威であったかを強調し、目に見えない価値観の歴史的転換を可視化するという斬新なアイディアが本書のキモなのだった。

 キリスト教社会の中心たる教皇庁で立身出世をはかっていく人文学者、ポッジョの姿は、自己の信念に忠実でありながらも一種ピカレスクロマンの様相を呈する。一官吏の視点から中世社会を知るという切り口が新鮮だし、主人公が卑小な男であるだけ必然的に、ウンベルト・エーコが描く中世よりもリアルで切実である。

 卑小とはいってもポッジョは、それなりにイタリア史に名を残した人物なのだが、「踏みはずし:近代はいかに始まったか」というタイトルに則していえば、彼は中世が近代に転換するための「踏みはずし」ができなかった凡人でもあって、彼の周囲に綺羅、星のように散りばめられた「踏みはずし」ていく人々の引き立て役にすぎない。「踏みはずし」の歩幅は人それぞれなのだが、彼のライバルであるロレンツォ・ヴァッラの「踏みはずし」っぷりは断然かっこよく、かつ後世にも名を残すことになる。あのショッキングな、「コンスタンティヌスの寄進状」が偽書であることを証明するという偉業をなしとげたのはヴァッラその人で、その主著は800年後の東洋の島国の文庫本でも読める程度に有名である。かたや旧秩序の枠内に留まり続けたポッジョは、『物の本質について』という歴史を変えた書物の発見者たるポジションをたまたま与えられた人という印象を拭いきれず、どう考えても劣勢なのだが、ルクレティウスが示したエピキュリアンとしての生き方は、周囲の誰よりも自分自身によって体現している。皮肉な運命の、さらに皮肉な結末の末に、いったい誰が勝者なのやら。

 個人の力ではいかんともしがたい、歴史が人に与える役割の残酷さを感じさせる、なんともいえない切なさを含んだ物語なのだった。



 ジャック・ル=ゴフ『中世とは何か』


 筆者のル=ゴフはアナール学派第三世代の泰斗。

 アナール学派とは、歴史的価値のある史料を使って正史を組み立てていた旧来の歴史学に対して、あまり信頼のおけない民衆的、風俗的な史料だとか、あるいは他ジャンルの研究成果だとかであっても(それが歴史を叙述する上でどういう意味をもつのかを厳密に考察したうえで)どんどん使っちゃえば、もっと生き生きと歴史を語れるんじゃないの、という考えの派閥らしい。これもまた、推理小説的な楽しさをもつ構造主義ともリンクして、一般読者からすると、アナール学派といえば読み物として面白いぞ、というお墨付きみたいに思える(ずいぶん適当な感想だけれど)。


 ル=ゴフは翻訳もたくさん出ているし、現代社会にも積極的に関わろうとする歴史家で、映画『薔薇の名前』の時代考証なんかもやってる。圧倒的な知識量と深い洞察、適切きわまりないテーマの選択、目配りの行き届いた叙述で、まさに近年の歴史学チャンピオンという感じ。

 でも、東洋の一般読者としては、あまりにもそつのない学者としての立ち位置、ヨーロッパ文明の優位性を信じて、その未来についての理想を歴史から引き出そうとする姿勢が、ちょっぴり鼻についてしまう。偏見も不公平もない代わりに、自虐も皮肉も許さない、頑強な姿勢の人なのだ。


 本書のなかで、「世代」という観念は1968年の事件 [パリ五月革命] の出来事に意味をもたせるために作り出されたものだという話が出てきて驚いた。ふだんから何気なく使っている「世代」という言葉は、ただ生まれた年代のまとまりというわけではなく、われわれはアンシャン=レジームとは違うという意識のもとで使われはじめた、きわめて左翼的な概念なのだった。

 ル=ゴフのヨーロッパ崇拝は、一大勢力をなすアナールの歴史家としての矜持に、パリ五月革命の勝者の側としての優越が混入したものからきている気がする(いまのところなんとなくではあるが)のだし、それは、学者としてまはったく時代もタイプも違うミシュレのフランス革命に対するロマンチシズムと通底する意固地さでもある。英国のEU脱退もロシアのウクライナ侵略も知ることなく、EUに未来を託したまま、ル=ゴフは2014年に亡くなってしまった。

 ル=ゴフが歴史から引き出そうとするヨーロッパの希望には、今となっては多少のくすぐったさを感じるのだが、どうなのだろう。同じヨーロッパでもちょっぴり僻地のオランダから、皮肉やくすぐりにみちた語りで歴史を叙述したホイジンガのような人のほうに親しみを感じるのは、さらに歴史の僻地に置かれている日本の読者だからなのか?


 それはともかく、本書の『中世とは何か』というタイトルはツリで、原題は『失われた時を求めて』をもじった『中世を探し求めて』と直訳できるものなのだそうだ。ル=ゴフが、どういう経緯で、どういう方法によって、中世とは何か、何をどう語るべきなのかを探し求めたのかを語る、学問的な自叙伝ともいうべき内容なので、これを読めば中世とは何かがわかるというのとはちょっと違う。ほとんど知らない恩師や同僚の学者の名前がいっぱい出てきて、彼らとのからみのなかでル=ゴフが研究対象としたテーマが俯瞰される。

 インタビュー形式で答えた内容に手を入れたものなので文章は読みやすいのだが、ほぼ一生分の研究内容の物量と濃度は半端ない。

 たとえば、聖王ルイ(13世紀)が下臣の頭に手を置いたのは、キリストが行っていた按手(頭の上に手を置いて祝福すること)をなぞる動作だとみなすとき、聖王ルイは天上の価値を地上にまで降ろそうとしている。これは、キリストの模倣を行動原理とする中世の人間主義(ヒューマニタリアニズム)だとル=ゴフは考える。

 神の行為を地上に「受肉」するという考えには、善と悪の対立というマニ教的な二元論をきっぱりと避けた初期教会の姿勢に反して、それを許容する端緒がみられる。カトリック教会というのは、厳格な規則によって中世の人々を管理・統制したイメージが強かったのだが、どうやら議論や逸脱がより豊かになる方向へと舵を切る性質にも勝っていたみたいだ。少なくともル=ゴフは、読者の意識をそちらに傾かせようとする。


 考えてみれば三位一体議論の父・子・精霊のうち、「精霊」というのはよくわからない。「父」や「子」のように、ヒトになぞらえることが可能な存在ではなくて、ちょうど音楽をやるうえでの、パッション、ソウル、グルーヴみたいな、ノリのようなものなのだ。教会はこんなふうに、善悪をスパッと分けることなく、よくわからないものを導入することで、正面からの衝突を回避してきたようだ。

「精霊」とは、しばしば鳩によって、また炎の舌によって表象され、「預言者たちの情熱、改革の熱狂、教会の刷新、審判に先立つ最後の時代の告知を表現する」父と子の補助者なのだとル=ゴフは言う。

 なるほど、なんとなくイメージはつかめるけど、本書のようなダイジェストではなくて、もっと精密に道筋をたどらなければ理解できそうにない。


 そもそもル=ゴフという人は、公平なように見えて、けっこう傾向的な学者なのかな? めまぐるしく目の前を通りすぎる知識の断片に筋道をつけようとしてもなんとなくの形にしかならず、そうとも言いきれない。ちゃんと理解するにはそれぞれの本を読まなきゃいけないと思わせる、アナール学派ブックガイド的な書物なのだった。


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