前へ次へ
11/15

鏡花読書

 若いころは読書は楽しみの要素が優先するのだと思って、読んでは中身を忘れて、というのを繰り返してきた。忘れれば、また読めばいいと思っていたのだけれど、ある時期から、また読む時間というのはそんなにないのだと気づいて、忘れないくらいに精読するというスタイルに変わった。当然、読む本も、精読に耐える本ということになる。

 なかでも鏡花を精読、ということになると、わからない部分を何時間もかけて読み解かねばならず、一日に数ページしか読めないこともある。苦労が絶えないのだけれど、読んでしまうと面白かった記憶しか残らない。次も読みたくなる。

 このごろ読んだ鏡花小説は……



(たえ)(みや)』(明治二十八年七月)

 美青年の士官が深夜に独り、金沢の妙の宮に肝試しに行くと、境内には紐で縛られた子供がいて、その手には、自分が持っていたはずの時計があった、という短いホラー。



蓑谷(みのだに)』(明治二十八年七月)

 幼い子供が蛍狩りの最中に神秘の瀧に迷い込んで、怪しの姫に出会う。『龍潭譚』などの原型にあたる、ごく短い話。



紫陽花(あじさい)』(明治二十八年九月)

 雪売りの美少年と貴女との出会いを描いた、ごく短い話。



毬栗(いがぐり)』(明治二十八年九月)

 謎めいた屋敷にひそむ人妻、老人、腰元、美少年。その秘密に近づく者には、魔法のような力で毬栗が連射される。意味不明でシュールだが、鮮烈な短編。



『蛇くい』(明治三十一年三月)

 明治二十五、六年頃には書かれていたようで、鏡花の実質的な処女作かと思われる短編。

 蛇や糞を食う異様な乞食集団の不気味なエネルギーが描かれていて、やはり最初から鏡花は鏡花だった、と思わせる。



『月夜車』(明治四十三年三月)

 帰京した青年と、かつて顔なじみだった車夫との再会。長編小説の第一章だけを読むような、実験的な作品。



三味線堀(しゃみせんぼり)』(明治四十三年十月)

 浅草の寄席の盛衰記……かと思って読み進めていたら、なんとファンタスティックな化け猫怪談だった。

 クライマックスはやくざ映画のような緊張感。あっと驚く幕切れ。

 中編ほどの長さがあって、ちょっと読みにくいのが難だけど、これは痛快。



楊柳歌(ようりゅうか)』(明治四十三年四月)

 初めて京都を訪ねた男が、友人から紹介された案内役の芸者が、自殺志願のメンヘラだった、というサスペンス。京都観光的な描写も凝っているし、こんなに鮮やかなオチの小説は、一生のうちに何度も読めるものではない。

 鏡花小説中のかくれた大傑作。ただし文章がかなり難解。



色暦(いろごよみ)』(明治四十三年十月)

 鏡花式複式夢幻能。ただし気取らず、鳶職の兄いの饒舌で語られる。題名と中身は全く無関係。

 鳶職と奥さまの『無法松の一生』のような身分差のある恋。江戸文学・風俗からの引用が大量で、文章を読み解く面白さは充分だが、ラストがやや尻切れとんぼで惜しい気も。

 舞台が『春昼』や『沼夫人』と重なるのが、愛読者には嬉しい。



霊象(れいぞう)』(明治四十年一月)

 没落した富豪の美人妻が、夫を毒殺した殺人事件の謎。裁判で徐々に明らかになる事件の真相……。

 これはかなり本格的な、ジャンル黎明期の法廷ミステリ……かと思ったら、ラストにはインド人が現れるわ、象さんが出てくるわ、ポルターガイストが起こるわ。

 成功作とはいえないけれど、鏡花らしい作品。



 ……と、隅々まで読んだつもりでも、これを現代語にリライトするとなると、ぜんぜんまともに読んでいなかったことに気づかされて、また別種の苦労が発生する。


 このなかで、その苦労を引き受けようと思うのは、『三味線堀』か『楊柳歌』か。

『三味線堀』は面白いけれど、現代語に移すなら若干ダイジェストにしたほうが楽しく読んでもらえる気もするなあ。


前へ次へ目次