怒の街:ゾオン
リンゴーン。到着の合図に、駅の鐘が鳴った。
アリスは、更衣室で国選公務員の制服(白いブラウスに赤のベスト、ショートパンツに白いニーハイソックス)に着替え、アインナハトを後にした。アインナハトは王都五市を回る列車で、区間毎に一日走り続ける。その名の通り、『夜』を走り通して、翌朝に次の駅に到着する。つまりあと五日はアインナハトは戻ってこない。
最初の駅――ゾオン駅の外観は、とても気持ちのいいものではなかった。街路樹は枯れ、壁に蔦が茂り、おまけに壁はひび割れて、天井には風穴があいていた。
その様子を映すアリスの碧い双眸は虚ろで、かきあげた薄金の髪は、熱を帯びていた。
「すみません。」
駅前の広場に出て、アリスは偶然近くにいた男に声をかけた。
「なんでしょう。」
男はアリスの方を向き、にこっと笑って応えたが、アリスにはその声色が、憤りを必死に堪えているように聞こえた。
「この当たりに、予約なしで泊まれる宿はありませんか?」
アリスは丁寧な言葉遣いを心掛け、男に尋ねた。
すると、
「ふざけるな! そんなくだらないことで声をかけるな! 国選公務員だからって、俺を馬鹿にしているのか?」
男は激昂した。そのあまりの怒声に、アリスは尻餅をついた。
「いえ、そんなつもりは……」
「もういい! 二度と来るな!」
男は、広場から足早に去って行った。
アリスがよくよく広場中を見渡すと、誰もみな、温和な表情を保っている者はおらず、誰もが顔に鬼面でも被っているかのような、見事な仏頂面であった。
なるほど、怒の街とはよく言ったものである。
「ごゆるりと。」
そう言ったフロントの声は一切の「ごゆるり」を許さない雰囲気を醸し出していた。料金を前払いして鍵を受け取ったアリスは部屋へ向かった。
室内は、まるで牢のようであった。壁はひび割れ、窓はガタつき、木製のベッドに寝具はない。かろうじて机と椅子、インクと羽ペンは揃えられているが、これでは値段相応とは言えない。一泊金百マルクの宿泊費が途端に高く感じた。
やがて、日暮れになると、夕食が運ばれてきた。
「国選公務員様、お夕食でございます。」
いちいち鼻につく喋り方のホテルマンが運んできたのは、スープとイモと豚のソテー、それから酸味の効いたジャーマンポテトだった。
「おいしい……」
アリスは今までの接客態度からは考えられないほど美味しい夕食に、涎が止まらなかった。
『ゾオンでは、道行く誰もが不機嫌で、ちょっとしたことが彼らの神経を逆なでする。宿の品質は最悪で、しかし食事は唸るほど美味しい。』
翌日、アリスは宿を後にすると、馬車を呼び止めて、ゾオンの名産である小麦を製粉している風車小屋へ向かった。
風車小屋に着いたころには、アリスは顔を真っ青にして、すっかり意気消沈していた。
「気持ち悪い……。」
道が十分に整備されておらず、さらに御者がまともに馬に鞭を入れないので、馬車は荷馬車の如く揺れ、アリスは寄ってしまった。運賃金十マルクを支払って、外に出ると、草原のさわやかな風がアリスの酔いをゆっくりと醒ました。
風車小屋は、風をよく受けるためか、高台にあり、遮蔽物は一切ない。近くに牧場もあるのか、かすかに牛の鳴き声が聞こえる。風が吹くたびに、足元の背の低い草が、ざわめき、アリスのすねをくすぐった。
「素敵な場所。」
ゾオンの人々はこんなのどかな土地に住んでいてどうして、ああ、怒りっぽいのだろう。
「国選公務員が、こんな所に何の用だ。」
アリスが風を感じていると、風車小屋の中から、厳つい男が顔を出した。身長はアリスよりずっと高く、手入れをしていないのか、髭も髪も伸び放題でいかにもごわごわしていそうだ。肩幅が広く、足よりも腕が長い。太っているわけではなく、筋肉質で、ガタイがいい。服は、ぼろぼろで、麻布をただ被っているようにすら見える。
「はい。調査に参りました。」
アリスは、やはり彼にも怒鳴られるのかと思い、声が震えた。
「そうか。まあ、そうビクビクするな。こんな見た目だが、街の連中より、幾分か辛抱強いし、客のもてなし方も知ってる。」
男は固い表情を一切変えずに、しかし優しい声色で言った。
「ついてきてくれ。ここらへんに、休憩用の小屋がある。」
男はアリスを彼の小屋へ招き入れた。
「このゾオンの人間も、昔はもっと穏やかな性格だった。」
アリスは彼の小屋の居間に通され、紅茶とお菓子をだされた。
「しかし、ある年を境に、みんなイライラしだしたんだ。」
「その年に、何かあったんですか?」
アリスは紅茶を一口飲んで、尋ねた。やはり、この街のものは美味しい。それは紅茶も同じことだった。
「分からない。俺も、長いことここで牧場の牛どもの世話をしたり、小麦の粉をひいたりしていたからな。……待てよ、アレかもしれないな。」
男は意味ありげに、そう告げた。
「アレって?」
「十年くらい前、街の人間何人か王都に召喚されたんだ。そいつらが帰ってきたのが確か例の年だったような……。」
男はたっぷり蓄えた顎鬚を、人差し指と親指で挟むように撫で、目を細めて唸る。
「済まない、力になれなくて。」
「いえ、ありがとうございました。」
アリスは席を立って玄関に向かった。
「紅茶、美味しかったです。ご馳走様でした。」
駅の鐘が鳴る。リンゴーンリンゴーン。
アインナハトに揺られながら、アリスは車内販売の弁当を食べて言った。
「まずい。」