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【19】顔の見えない誰かの優しさ


 作業室を後にしたティアは、第三の塔〈水泡〉の廊下をトボトボ歩いていたが、途中で足を止めた。迷子になったのだ。

 第三の塔〈水泡〉は増築が多いので、所々入り組んだつくりをしている。そうでなくとも、建物に慣れていないハルピュイアのティアは建物の中だと迷いやすい。


「…………ペヴゥ」


 足を止めたティアは、俯き声を漏らす。


(人間は、考えることが、多すぎる)


 ティアはただ、飛行魔術を覚えて空を飛びたいだけなのに、それがとても難しく、辿り着くまでの道のりが長い。

 以前は空を飛ぶことなんて、歩くよりも簡単だったのに。


「ペヴヴゥ……」


「その声、もしかしてティアさんですか……?」


 廊下の角の向こう側から聞き覚えのある声がした。

 同じ見習い魔術師の、三つ編みに眼鏡の娘──エラ・フランクの声だ。

 声のした方にペタペタと歩いていくと、エラは何故か地面にしゃがみこんでいた。


「ピロロ……エラ、具合が悪いの? おんぶする?」


「いえ、違うんです。転んだ拍子に眼鏡を落としてしまって……」


 言われてみれば、エラの顔にいつものっかっている眼鏡がない。

 いつも控えめに微笑んでいるエラが、今はギュゥッと顔をしかめて、床に手を滑らせている。一体何をしているのだろう。


「私、眼鏡がないと、何も見えなくて……」


「ピヨッ? えっと、わたしのことも見えてない?」


「はい、ボンヤリと人がいるなぁとしか……辛うじて声で、ティアさんだと分かって……」


 ティアは自分が勘違いをしていたことに気づいた。


(眼鏡って、装飾品じゃなかったんだ! 魔導具だったんだ!)


 眼鏡とは、ネックレスや腕輪と同じ位置付けだと思っていたのである。

 ティアの周りだと、エラ以外にヘーゲリヒ室長やヒュッターなども眼鏡をかけているが、あれもお洒落ではなかったのだ。

 ティアはキョロキョロと辺りを見回す。眼鏡はすぐに見つかった、エラから少し離れたところに落っこちている。

 ティアは恐る恐る眼鏡を拾い上げた。眼鏡にヒビは入っていない。


「エラ、眼鏡あったよ。今、持ってくね」


 ティアはエラに眼鏡を返す前に、一度顔の前に掲げてみた。

 透明なガラス越しに見える世界は、なにやらグニャグニャしている。魔導具なら、魔力を込めたら世界がスッキリ見えるのだろうか?


「ピロロ……えっと、はいどうぞ」


「ありがとうございます」


 エラは受け取った眼鏡を顔にかけると、はにかみながら微笑んだ。

 眼鏡をかけると、いつものエラだなぁという気がする。それぐらい、眼鏡は彼女に似合っていた。


「眼鏡って、魔導具だったんだね」


「えっ、いえ、違いますよ。これはただの眼鏡です」


「ピヨッ? でも、ガラス越しに見たら、世界がグニャグニャしてたよ?」


「私の場合、いつも世界がボヤけて見えるんです。だから、このグニャグニャが焦点を合わせてくれるんですよ」


 エラの説明はよく分からなかったけれど、眼鏡は魔導具ではないらしい。


「……ピヨ」


「ティアさん、どうしました?」


 唇をキュッと閉じて俯くティアに、エラが屈んで声をかける。

 エラは、見習い女性の中ではセビルの次に背が高いのだ。

 屈んで目線を合わせてくれるエラに、ティアは優しさを感じた。

 セビルのように、飛びついても受け止め抱きしめてくれる力強い優しさとは、また違う優しさだ。

 だから、ティアはポツリと言った。


「……エラは、眼鏡使うの、嫌じゃなかった?」


「えっ?」


 ティアとエラでは事情が違う。ティアは魔物で、エラは人間だ。

 それでもティアは聞いてみたかった。

 眼鏡という道具を使うエラに、自分と同じモヤモヤを抱いたりしないのかと。


「わたし、飛行魔術で空を飛びたくて、それで〈楔の塔〉に来たの。でも、わたし、魔力操作が下手だから飛行魔術は無理だって言われて……」


 チラッとティアはエラを見る。エラは呆れたりしていなかった。

 穏やかに、真剣に、ティアの話を聞いてくれている。

 だから、ティアは安心して言葉を続けることができた。


「管理室で飛行用の魔導具を作ってて、それを使えば、わたしでも飛べるようになるかもしれなくて…………でもなんか、魔導具に頼るのは、モヤモヤして……」


 形の分からぬモヤモヤが、いつまでもティアの胸を覆っている。

 それが、ティアは気持ち悪くて仕方がないのだ。

 だから、言葉を間違えた。


「魔導具使うのやだ、キモチワルイ、って言ったら……ルキエに怒られた」


「ルキエさんは魔導具職人志望ですから、魔導具を否定されたのが、嫌だったんじゃないでしょうか」


「ペゥゥ……」


 確かにそうだ。自分が好きなものや大事にしているものを否定されたら、ハルピュイアだって怒る。

 ティアは、間違えたのだ。

 でも、魔導具を使うことにモヤモヤすることもまた事実。

 ティアがペウゥゥ……と唸っていると、エラが穏やかな声で訊ねた。


「ティアさんは、道具に頼ることに、抵抗があるんですか?」


「そんな……感じ? うぅん、上手に言えない……ムズカシイ……」


 ティアが頭を抱えて唸ると、エラは曲げていた腰をゆっくりと伸ばした。

 そうして眼鏡のツルに、指先でそっと触れる。


「ティアさん。私、昔はすごく目が良かったんですよ」


「え」


「でも、十歳ぐらいの頃に大きな病気をして……一命は取り止めたんですけど、視力が落ちてしまって。これぐらい近くても、ティアさんの表情は分からないし、本なんて、とてもじゃないけど読めなくて」


 同じじゃないけど、似てる、と思った。

 空を飛べたのに、飛べなくなったティア。

 目が良かったのに、病気で視力が落ちたエラ。

 ハルピュイアであるティアにとって、大事なことは空を飛べることと歌を歌うことだけど、目が見えなくなったらとても困る。間違いなく、絶対に困る。

 それは、ハルピュイアも人間も変わらない。


「夜更かしして、本を読んでばかりいた罰だ。って子ども心に思いました。もう本を読めなくなったらどうしよう、って、怖くて……本当に怖くて……」


 顔を強張らせるティアに、エラは眉尻を下げて笑った。


「だから、この眼鏡を贈られて、また本が読めるようになった時、本当に嬉しかった……」


「…………」


 自分も、そう思えるだろうか。とティアは己の胸に問いかける。

 飛行用魔導具を使って、空を飛べるようになったら、今のエラみたいに笑えるだろうか。


(……まだ、分かんない)


 モヤモヤに少しだけ輪郭ができた気がする。だけど、まだ咀嚼できるほどじゃない。

 思えば今ティアが着ている服も、靴も、食事をする時に使う食器も、机や椅子や寝台も、ある意味道具である。

 だけど、それらは人間のフリをするのに必要だから使っているだけだ。慣れないなぁとは思うけど、使うことへの抵抗はない。

 空を飛ぶのに魔導具を使うのは、それとは違う抵抗があるのだ。


「ごめん、エラ、やっぱりわたし、モヤモヤが消えない。なんでだろう。空を飛びたいのに、魔導具に頼るのはモヤモヤして……このモヤモヤが何か分からないから、気持ち悪いんだ」


 モヤモヤの形を確かめようと胸を押さえるティアに、エラは言う。


「そのモヤモヤって、悔しさじゃないでしょうか?」


「ピヨッ?」


「魔導具に頼らないと飛べないなんて、悔しいなぁ、っていう……」


 悔しい。それはハルピュイアにとって衝撃の一言だった。

 だって今までのティアは、空を飛んで歌っていればそれで幸せで、何かを悔しいと思うことがあまりなかったのだ。


(悔しい……わたし、悔しい。飛べないのが、悔しい)


 ハルピュイアにとって、空を飛ぶことは歩くよりずっと簡単だったのだ。

 だから魔導具に頼るのが悔しい──ティアの中にあったモヤモヤが、輪郭を得てクッキリとしていく。

 口を半開きにしているティアに、エラは少しだけ声をひそめ、内緒話をするような声音で言った。


「私、前の学校では落ちこぼれだったんです。魔術の勉強は好きだったんですけど、魔力放出が全然できなくて……」


 エラが落ちこぼれ、というのがティアには意外だった。

 だってエラはいつも真面目で、勉強熱心だ。

 だけど確かに、魔力放出では躓いていた。ティアが一度に大量の魔力を放出してしまうのに対し、エラは魔力をなかなか放出できなかった。


「ヘーゲリヒ室長は、魔力誘引効果のあるインクを使わせてくれましたよね?」


「うん」


「あれ、前の学校では使わせてもらえなかったんです。そんなのは甘えだって」


 エラの顔が少しだけ歪む。

 悲しさと、悔しさと、やるせなさと──そういうのをギュッと丸めて呑み込んだような、そういう顔だ。


「自分は一生このまま、魔力放出ができないんじゃないか、って思いながら訓練をするの……すごく、苦しかったです。出口の見えない森を歩いてるみたいで」


 自分は一生このまま飛べないんじゃないか。そう不安になりながら、羽を広げた日々を思い出す。

 何度も何度も高いところから落ちて、ボロボロになった。

 怖かった。惨めだった。心が擦り潰れそうだった。


「ヘーゲリヒ室長が、あのインクを使わせてくれて、ちゃんと魔力放出ができた時……すごく、ホッとしたんです。私でも、ちゃんとできるんだって。だったら、もうちょっとだけ頑張ってみよう、って」


 ティアとエラが魔力放出に躓いていると知ったレームとヘーゲリヒ室長は、すぐに魔力耐性の強い紙や、魔力誘引効果のあるインクを用意してくれた。

 そのインクで魔力放出に成功した時、エラは泣きそうな顔をしていた。

 エラの言葉が、表情から伝わってくる感情が、ティアの中にあったモヤモヤを少しずつ明確にしていく。

 風切り羽根を切られて、飛べなくなった。

 それでも諦めきれず、高いところから飛び降り、何度も無様に落っこちた。

 ボロボロになって、地面に突っ伏して……その時、ティアの全身を支配したのは、悔しさだ。


(あぁ、そうだ。わたし、悔しかったんだ。すごく、すごく、すごく、悔しかった)


 きっと、魔力操作が上手にできないエラも悔しかったはずだ。

 それでもエラは、その悔しいという気持ちを呑み込んで、〈楔の塔〉にやってきた。


(わたし、悔しい。すごく、悔しい)


 自分の中にある悔しさを自覚すると、魔導具への抵抗感の正体が見えてくる。

 人間と違って、ハルピュイアは当たり前のように空を飛べる。当たり前にできていたことだから、道具に頼ることが悔しい。

 姉達に受け入れてもらえるか不安だ。

 道具に慣れてないから、怖いという気持ちもちょっとある。

 ……そういう魔導具への抵抗が積み重なって、モヤモヤになっていたのだ。


「エラ。わたし、悔しい。空を飛べないの、すごく悔しい。魔導具に頼るのも、悔しい」


「はい」


「エラはどうやって、この悔しいを呑み込んだの? お腹の奥にギュッって押し込みたいのに、すぐ出てきちゃうの。だから、道具に頼るのも悔しいって気持ちが、ずっと消えない」


 空を飛んで歌っていれば、それで良かったティアは、悔しさを感じた経験が少ない。だから、悔しさを消化する方法が分からない。

 なんとなく、この悔しさは、歌っているだけでは晴らせない気がした。

 自分の中にあるモヤモヤを捏ねて、形にして、それをどう咀嚼するか悩むティアに、エラが言う。


「ティアさん。道具って、『こういうのがあったら、助かる人がいる』って考えてくれた、誰かの優しさから生まれた物もあると思うんです」


「誰かの、優しさ……」


「私は、人より上手くいかないことが多いから、そういう顔の見えない誰かの優しさに助けられてるんです」


 魔物達は人間の道具を奪ったり、真似をして作ったりすることはあっても、自ら新しい物を生み出すことはない。

 魔物は創造性の欠けた生き物で、新しい物を生み出せない。

 それは、『誰かの助けになれたら』という優しさが欠けているからではないかと、ティアはぼんやり考える。


「だから私は、道具に頼るのが悔しいって気持ちより、道具を作ったり考えたりしてくれた優しい人に、感謝する気持ちの方が強いんだと思います。助けてくれて、ありがとう……って」


 そうやってはにかみながら微笑むエラも優しい人だ、とティアは思った。

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