【幕間】ザームエル・レーヴェニヒの息子
金が欲しかった。
食べる物が欲しい、温かい服が欲しい、家が欲しい──欲しい物はたくさんあって、金は選択肢をくれる。
金があれば選べるのだ。
パンか芋かスープか果物か。金があれば選択肢ができるのだ。
最下層で生きる浮浪児の彼は、選択の余地などないような暮らしを強いられていて、だからこそ、選択肢が──選択肢を得るための金が欲しかった。
だけど、貧困は選択肢と余裕を奪っていく。
限界まで飢えた少年は、初めて盗みをした。盗んだのは小さなナイフだ。
それを握りしめて、今度は初めての強盗を試みた。
ターゲットに選んだのは、この街でも有名な成金魔術師のレーヴェニヒという男だ。
優秀な魔術師だけど、弱者から搾取して、金儲けをする悪いやつだと噂で聞いた。
金を奪うなら、少しでも心が痛まない奴がいいと思ったのだ。
「おい、殺されたくなければ、金を出せ」
ある夜、少年は馬車から降りてきた人物の背後に忍び寄り、背中にナイフを突きつけた。
馬車から降りてきたのは、立派なローブを着た三、四十歳ぐらいの黒髪の男だ。
夜闇でよく見えないけれど、大きな宝石のついた装飾品をジャラジャラさせていて、手には立派な杖を持っているから、魔術師のレーヴェニヒで間違いないだろう。
レーヴェニヒはすごい魔術師らしいが、それなら詠唱をする前にナイフを突きつけてやればいい。
もし、ナイフを突きつけてるのに詠唱をされたらどうしよう──という考えが頭をよぎった。
そうしたら、ちょっとだけチクッとしてやるのだ。きっとビックリして詠唱を止めるはずだ。多分。
「おい、早くしろっ」
「ククッ……」
レーヴェニヒは詠唱こそしなかったが、何故か笑い出した。
彼は背中にナイフを突きつけられたまま、首を捻って少年を見る。見るからに狡猾そうな面構えだった。
「いくらだ?」
「えっ」
「俺の命に、お前はどれだけの価値をつけると聞いているのだ。俺の命は安くないぞ。最低でも金貨二十枚は要求してもらわなくては、割に合わん」
命乞いをするでも、詠唱をするでもなく、自分の命にいくらの価値をつけるか男は問う。
少年は困惑した。
「金貨は、いらない……」
金貨なんて、自分のような浮浪児が使ったら、すぐに盗んだとバレてしまう。
戸惑う少年に、ナイフを突きつけられた男は偉そうな態度で問う。
「なら、何が欲しいのだ? 宝石か? この指輪一つで金貨三十枚分だ。さぁ、何がほしいか言ってみろ」
「……銅貨をいっぱい」
少年は、両手で持ちきれないぐらいの銅貨が欲しかった。
だって、それがあれば、パンが買える。果物も買える。選択肢が増える。
だが少年の言葉に、男は呆れたように鼻を鳴らした。
「生憎、俺は銅貨など持ち合わせていなくてな。ふむ、こうするか」
男はスタスタと屋敷の方へ歩き出す。
少年は焦った。このままだと屋敷の中に逃げられてしまう。
すぐに追いかけて、ナイフを突きつけなくては……そう考える少年の前で、男は門を開けて言った。
「家に上がって食事をしていけ。ククッ……我が家のシェフの料理には、銅貨より価値があるぞ」
そう言って、ザームエル・レーヴェニヒはクックックと不気味に笑った。
* * *
ザームエル・レーヴェニヒの屋敷の料理は、今まで食べたことがないご馳走だった。
芋だけじゃなく、パンもあるのだ。それも、カチカチの黒パンではない。白くてフワフワしたパンだ。
シチューにはゴロゴロと大きな肉の塊が入っている。肉は全然筋っぽくなくて、信じられないことに、口の中でホロホロと崩れるのだ。
少年の痩せた体は、あっという間に満腹になってしまって、そのことが口惜しかった。
一度に十日分ぐらい食べ溜めができたらいいのに。そうしたら、今ここでしっかり食べ溜めておくのに。
少年が膨らんだ腹を撫でてそんなことを考えていると、この屋敷の主人であるザームエルは言った。
「ククッ……この食事だけでは、まだ俺の命の価値に足りんな……貴様には、これをくれてやろう」
ザームエルは少年の手首に腕輪をつけた。
シンプルな金属の腕輪だ。だけど、腕輪の内側に宝石が嵌め込まれている。
「ククッ、これは魔導具に加工できる品だ。売れば金貨五枚はくだらない」
少年は、腕輪とザームエルを交互に見る。
ザームエルはニヤリと笑った。
「貴様に選択肢をやろう」
選択肢。それは、貧しい少年が持っていなかったものだ。
「この腕輪を売りたければ売って構わん。だが、売らずにこれを着けてこの屋敷に来たら、また食事をさせてやろう……クックック。好きな方を選ぶがいい」
売って金を得るか。売らずに安定した食事を得るか。
少年に選択肢ができた。
少年はよく考えて、結局腕輪を売らないことにした。
最初は半信半疑だったけれど、少年が腕輪を着けていけば、ザームエルが留守でも使用人が少年を屋敷に入れてくれて、食事を食べさせてくれた。いつも、ビックリするほど美味しいご馳走ばかりをだ。
そうして一ヶ月ぐらいが過ぎたある日、ザームエルは少年に訊ねた。
「貴様は字が読めるのか?」
「……少しぐらいなら」
すると、ザームエルは一冊の本を差し出し、言った。
「ククッ、貴様にこの本を貸してやろう。貴様はこの本を返さずに売り払っても良い。だが、売らずに読み終わった本を返したら、この本の続きを貸してやろう」
本は子ども向きの冒険小説だった。
また選択肢が増えた。本を売るか、借りて返すか。
ひとまず決定は保留にして、少年は本を持ち帰り、読んだ。
その本が、あまりにも気になるところで終わっているものだから、少年は本を売らずザームエルに返し、続きを借りた。
腕輪を見せて屋敷に入れてもらい、温かい食事を食べて、本を貸してもらって。
本の内容が少し難しくなってきた頃、ザームエルが言った。
「ククッ、貴様に選択肢をやろう。俺の息子になって勉強を教わるか、否かだ」
少年はたくさん考えた。
たくさん、たくさん考えて、そして選んだ。
「分かった。ザームエルの息子になる」
ザームエルは肘かけに肘をつき、足を組んで座り、クックックと不気味に笑いながら言った。
「いいだろう。今日からお前はこの偉大なる魔術師ザームエル・レーヴェニヒの息子。ユリウス・レーヴェニヒだ」
* * *
「ユリウス……これで、あってるかなぁ?」
ユリウスが宿舎の書物机の前で本を読んでいると、同室のフィンが控えめに声をかけてきた。
フィン・ノールはユリウスより三つ年下の十三歳だが、手足が短いせいで、実年齢より幾らか幼く見える。
木こりの息子で、学校に通っていなかったという彼は、自分の名前の読み書きすら覚束なかった。だから、ユリウスは読み書きや計算の仕方を教えてやっている。
フィンは、ヘーゲリヒ室長から出された課題の用紙をオズオズと差し出した。
ユリウスはその内容に目を通す。字はかなり汚いが、計算は合っていた。
「クックック……全問正解だ。悪くないぞ」
「良かったぁ……」
フィンはホッと胸を撫で下ろす。
口減しで家を追い出され、駄目で元々という気持ちで受けた試験に合格したフィンは、明確な目標がないまま、魔術師見習いになってしまった。
それでも、勉強をしようという意欲はあるらしい。いつも必死で課題に取り組んでいる。
フィンは決して頭の回転が早いわけではないし、要領も良くはない。それでも、勉強をする意思があるのなら、教えることはやぶさかではなかった。
「ククッ……フィン、俺の派閥に入るがいい。そうすれば、金貨二枚を約束しよう」
別に親切心で言っているわけではない。
この〈楔の塔〉で目的を達成するためには、自分の派閥を作り、のしあがるのが一番早いのだ。何より、同室の人間が同じ派閥の同士なら、色々と動きやすくなる。
だがフィンは、ユリウスの提案に困り顔をした。
「金貨なんていらないよぉ……そもそも、オイラが勉強教わってる側なのに、なんで金貨を貰うのさ」
フィンの言葉に、昔のことを思い出した。
ユリウスは体を折り曲げ、喉を震わせて笑う。
「ククッ、クックックックックッ……」
「ユリウス? どうしたの?」
「ククッ……そうだな、金貨は使い勝手が悪い。魔導具に加工できる腕輪にするか」
「だから、いらないってば……」
──それが、ユリウスがティア・フォーゲルに足蹴にされる前日の話だ。