【10】ボロボロ魔力操作
フレデリクとオリヴァーの衝突があった日の翌日、午前中の共通授業の教室にやってきたヒュッターは、どこか疲れたような顔をしていた。
そんな彼の後ろには珍しく、指導室室長ヘーゲリヒが立っている。
いつもと違う空気に、教室の空気が俄かに張り詰めた。
「おはようございます……えー、まずは皆さんに報告があります」
ヒュッターは深々とため息をつくと、傾いた眼鏡を持ち上げ、続けた。
「昨日、なんか色々あって、皆さんと討伐室とで魔法戦をすることが決まったそうです。やらかしたやつ誰? 先生怒らないから挙手してみ?」
オリヴァーがスッと挙手をした。
肘を曲げない、真っ直ぐで美しい挙手だ。
「俺が、討伐室にいる兄に勝負を挑んだのだ」
「はい、正直でよろしい。というわけで、今日のヒュッター先生の楽しい魔法史教室『帝国やらかし魔術師三選〜尻から火を噴いた魔術師〜』は休講! まずはヘーゲリヒ室長からありがたいお話があるから、静かに聞くように!」
ヒュッターが壁際に下がり、代わりにヘーゲリヒが教壇の前に立つ。
共通授業でヘーゲリヒが教壇に立つことは時々ある。だが今は授業の時とは違う、背筋が伸びるような空気を感じた。
「一ヶ月後、指導室所属の見習い魔術師十二名と、討伐室の魔術師三名とで、魔法戦を行うことが決まった」
教室がざわつく。特に昨日の出来事を知らない者達は動揺が顕著だ。
呪術師のゾフィーが真っ青な顔で言った。
「なんで、あたし達までぇ……!」
「きっかけは昨日のランゲ兄弟の私闘だが、それがなくとも、実戦訓練は行うつもりでいたのだよ」
そう言って、ヘーゲリヒは黒板に地図を貼った。
この〈楔の塔〉の東側の地図だ。その中で印がつけられている場所に、ティアは心当たりがあった。
「先日この地点で、下位種の魔獣三匹と、上位種の魔物の存在が確認された。ここは本来〈水晶領域〉から遠く、魔物が現れない地域であるにもかかわらずだ」
室内の空気が張り詰める。
レンとセビルがティアに目配せをした。ヘーゲリヒが言っているのは、先日ティア達が遭遇したジャックと雪猪のことだ。
「何故、魔物がこの場所に現れたのか、まだ原因は解明していない。ただ、魔物達はいつこの〈楔の塔〉に攻め込んできてもおかしくない。と私は考えているのだよ」
ティアは喉が鳴りそうになるのを、必死で堪えた。
今まさに、この〈楔の塔〉には魔物がいるのだ。ハルピュイアのフォルルティアが。
「〈楔の塔〉は魔物から帝国を守る防衛線。たとえ、討伐室以外の者であろうとも、非常時には各々ができることをしなくてはならない。だからこその実戦訓練だ」
ティアはこっそり見習い魔術師達の顔を見回した。ティアの席から全員の顔が見えるわけではないけれど、顔や体が強張っているのが分かる。
きっとみんな、考えているのだ。この〈楔の塔〉に魔物達が攻め込んでくる最悪の事態を。
飛べなくなって人の皮を被ったハルピュイアは、その時どうすれば良いのだろう。
(……あれ、どうしよう。全然、分かんない。どうしようの答えが、分かんない……)
ティアは俯き、唇を噛んだ。何故かレンとセビルの顔を見ることができない。
教室の空気がズッシリと重くなる。そんな中、ヘーゲリヒは少しだけ声音を和らげた。
「とは言え、全員に武器を取れと言っているわけではないのだよ。一ヶ月後の魔法戦も、各々で得意なことを分担し、どうすれば格上の相手に勝利できるか知恵を絞りたまえ」
知恵を絞る。考える。それはティアが苦手なことだ。
あぁ本当に、人間は考えることがいっぱいだ。
答えの出ない「どうして?」「なんで?」「どうしよう?」ばかり増えていく。
「先日の魔力量測定で、自分にどれだけの魔力があり、どのような魔術を得意としているかは分かったはずだ。これから一ヶ月、自分ができることを伸ばし、魔法戦に挑みたまえ」
そう言ってヘーゲリヒが話を切り上げたところで、レームが大きめのカゴを持って教室に入ってきた。
「ヘーゲリヒ室長、こちらお持ちしました」
「あぁ、ありがとう。それでは早速、全員に配ってくれたまえ」
レームとヒュッターが手分けして、カゴの中にあった紙とインクを配る。
ヘーゲリヒは紙とインクを一つ取り、紙にサラサラと何かを書いて黒板に貼った。
それは然程大きな紙ではない。手のひらにのるぐらいの、横に長い長方形の紙だ。そこに薄い灰色のインクで魔術式が書いてある。
(あれ、共通授業で習ったやつ……)
ティアは手元の筆記帳を捲って、その魔術式の意味を読み解く。
(属性、風、魔力を、威力一で、放出……しなさい、だっけ?)
ティアだけでなく、レンとセビルも同じように、各々の筆記帳を見返している。
全員に紙とインクが行き渡ったところで、ヘーゲリヒが言った。
「早速今日から、魔力操作の授業を行う。ロスヴィータ君。この魔術式の解説を」
指名されたとんがり帽子のロスヴィータは、スラスラと答える。
「魔力を風属性に変換、最小威力で放出……この程度、わざわざ解説が要るとは思えません」
最後の一言を口にしたロスヴィータは、チラリとティア達を見ていた。その目が、こんなことも分からないの? と言っている。
ヘーゲリヒはロスヴィータの呟きを黙殺し、黒板に貼った紙の左端に己の指を当てた。
「各々、得意属性の術式をこの紙に書き、指を先端に当てる。そうして魔力を流し込むと……」
ヘーゲリヒの指が触れている左端から順に、灰色のインクが黄緑色に発光した。
「これは魔力の流れが目に見えるよう、分かりやすくした訓練方法だ。今から紙とインクを配るから、各々、得意属性で紙に術式を書き、魔力を流してみたまえ」
ティアは思わず「ピヨヨ」とご機嫌な声を漏らした。ティアだけじゃない。レンとセビルも目を輝かせている。
「これこれ、こういうのがやりたかったんだよ!」
レンがウキウキした様子で、配られた紙にインクで魔術式を書く。その手つきは淀みない。
他人の文字を真似るという特技を持つレンは、魔術式を書くのも上手だ。読むのはまだ得意でないけれど、お手本さえあれば、スラスラと綺麗に書ける。
少し遅れてセビルも魔術式を書き始める。レンは雷、セビルは氷。ティアの得意属性は風なので、先ほどヘーゲリヒが使ったお手本と同じだ。
「うぅ……風がヴェラで……威力は最小の一だから、ダクス、ヴァウ……の、ヴェラ、マルテ? ……あれ、なんか違う……属性の指定が先? ピロロロロロォ……」
唸りながら、ティアは辿々しい文字で魔術式を書く。
書き終えた後は、三回見直しをした。
(ヘーゲリヒ室長が書いたのと、ちゃんと同じ。大丈夫、大丈夫……!)
ペンを使うのが苦手なティアが苦戦している間に、他の者達は次々と魔力操作を成功させていった。
レンが書いた魔術式は、輝きこそ弱いが黄色く発光している。
「すっげぇ……! オレ、魔術使えんじゃん!」
頬を赤くして喜ぶレンに、ヘーゲリヒが呆れ顔で言う。
「君ぃ、そんなのは魔術ではなく、魔導具を使うのと大差ないのだよ」
「それでも、自分で書いた物がこうして光るって、やっぱすげぇ……!」
レンは興奮が冷めぬ様子で、何度も魔力を流し込んでは、「すげぇ」を繰り返している。
この教室で一番魔力量が少ないのがレンだが、このぐらいなら負担にはならないらしい。
「ピヨッ、書けた! わたしも……!」
インクが乾いたのを確かめ、ティアは文字の端に指を当てる。
そうして魔力を流し込むと、次の瞬間、ティアの手元の紙がボロボロと崩れた。まるで薄い灰が崩れるかのように。
「ペフゥ?」
「どうしたの?」
奇声を聞いたレームが、ティアのもとにやってくる。
ティアはボロボロになった紙を両手ですくった。
「レーム先生……紙、ボロボロになっちゃった……」
レームはティアの手元にある紙を見ると、「ちょっと待ってね」と言って予備の紙にサラサラと魔術式を書いた。辿々しいティアのそれとは違う、綺麗に書かれた魔術式だ。
「これで、もう一回やってみてくれる?」
もしかしたらさっきは、ティアの書き方が悪かったのかもしれない。きっとそうだ。
(今度はレーム先生が書いた魔術式だから、大丈夫!)
そう意気込み、ティアは再び魔力を流し込む。
だが、その紙はまたしても、ティアの指の下で灰のように崩れてしまった。