【7】室長の提案
フレデリクの槍がオリヴァーを滅多打ちにする。刃に革のカバーを被せていても、相当に痛いはずだ。
オリヴァーは必死に攻撃を受け流そうとしたが、フレデリクの槍がオリヴァーの手を強かに叩いた。
ティアはピェッと声を漏らす。あれは痛い。手羽先は繊細な部位なのに。
手を叩かれたオリヴァーの槍を握る力が緩む。その瞬間、フレデリクは槍を下から上に振り上げ、オリヴァーの槍を弾き飛ばした。
オリヴァーの槍がクルクルと回りながら宙を舞う──それが地面に落ちるまでの数秒の間に、フレデリクは五回も突きを入れた。一撃はオリヴァーの鼻っ柱を打ったらしく、鼻血が派手に飛び散る。
(赤い雨だぁ……)
オリヴァーは鼻と口から血を流しながら、仰向きに倒れた。
そんな弟を見下ろし、フレデリクがボソリと呟く。
「……この無能が魔物に食い殺される前に半殺しにしてあげる僕って、なんて優しいんだろう」
風になびいていた髪がサラサラと元の位置に戻り、その顔に笑みが戻る。
ただ、笑みの形をしているだけで、目はこれっぽっちも笑っていない。この人は、笑いながら怒る人なのだ。
「昨日、また魔物が出たらしくてね……あいつらの活動範囲が明らかに広がっている。足手まといを討伐室に置いておくわけにはいかないんだよ。分かる?」
ティアはギクリとした。
フレデリクが口にした「あいつら」の一言に、深く暗い憎悪を感じたのだ。
「魔物の餌になりたくなければ、さっさと家に帰れ」
「……帰らぬ」
オリヴァーは低く唸りながら、ゆっくりと起き上がる。
あんなに全身を滅多打ちにされて、痛そうなのに。槍だって、遠くに飛ばされてしまったのに。
ボロボロになっても立ち上がり、真っ直ぐに兄を見るオリヴァーは、強い生き物の顔をしていた。
オリヴァーが血を吐きながら吠える。
「俺は恐怖を知らぬ男、オリヴァー! どんな魔物が現れようと、たとえ兄者に咎められようと、俺は一歩も引かぬ!」
その時、フレデリクの顔から一切の表情が抜け落ちた。
「……は?」
無表情のまま零れ落ちた一言。それは、凄まじい怒りが爆発する前触れだった。
ティアは思わず肩甲骨の辺りをムズムズさせる。羽をはためかせて、飛んで逃げたいと思ったのだ。それぐらい怖い、怖い、怖い生き物がここにいる。
セビルも無意識にか曲刀の柄に手を置いているし、レンは完全にセビルの背中に隠れて、ガタガタ震えていた。
フレデリクが、抑揚のない声で呟く。
「……僕の前で、よくもそんなことが言えたな」
おそらくオリヴァーが口にした言葉の何かが、フレデリクの逆鱗に触れたのだ。
フレデリクが飛行魔術の詠唱をする。その体がフワリと地面から浮かび上がった。
更に彼は詠唱を続ける。あれはおそらく、攻撃魔術の類だ。
(フレデリクさんの槍のあたりで、風がゴゥゴゥしてる)
流石に見かねたのか、セビルが声を張り上げた。
「勝負あった! そこまでだ! 双方、武器を納めよ!」
フレデリクはセビルの方を見向きもしない。
無表情のまま、赤みがかった目を底光りさせて、フレデリクは槍を構える。
「……二度と寝言が言えないよう、喉を潰して、両足の骨を砕いて、家に送り返してやる」
フレデリクが加速する。駄目だ。あれが直撃したらただでは済まない。
ティアは思わず叫んだ。
「オリヴァーさん! 逃げてぇ!!」
オリヴァーは動かない。恐怖に顔を歪めることもなく、鋭い眼光で真っ直ぐに兄だけを見ている。
そんなオリヴァーに、フレデリクが風をまとった槍を突き出す。
「……これはどういうことかね。説明したまえよ、君ぃ?」
硬質な物がぶつかる音がして、フレデリクの槍が弾かれた。
加速して突撃したフレデリクは多少体勢を崩したが、槍を取り落とすこともなく、体勢を立て直す。
そうして、オリヴァーを守る防御結界を張った人物に目を向けた。
真っ直ぐに切り揃えた金髪、丸眼鏡、長身。指導室室長ヘーゲリヒの姿に、ティアとレンは思わず声をあげる。
「ピヨッ! ヘーゲリヒ室長ー! わぁ、室長ー!!」
「室長やるじゃん! すげー!」
「君達は、ヒュッター教室の人間ではないかね。まったく、昨日魔物と遭遇したばかりだというのに、元気の良いことだ」
ヘーゲリヒの背後では、赤毛のモジャモジャことローズが、「間に合ったぁ〜」とモジャモジャの下の汗を拭っていた。どうやら彼が、ヘーゲリヒを呼んできてくれたらしい。
ヘーゲリヒはティア達に向けていた視線を、フレデリクとオリヴァーに戻す。
「討伐室所属フレデリク・ランゲ。見習いを一方的にいたぶるのが、討伐室の指導方法かね?」
「僕は指導室の人間ではないので、指導なんてできませんよ。見習いに、身の程を教えていただけです」
フレデリクは飛行魔術を解除し、何事もなかったかのような穏やかさで言った。
魔物であるティアを怯えさせたあの殺気も、怒りも、今はあの細長い体の中に全て隠している。
「レーム先輩の生徒なんでしょう? 恵まれてますね。あの人、相当強いですし」
「オリヴァー君はゾンバルト教室だよ、君ぃ」
「ゾンバルト? ……誰ですっけ?」
「…………」
ヘーゲリヒはゆっくりと鼻から息を吐き、厳しい顔で告げる。
「今回の件は、討伐室室長にも報告しておく」
「どうぞ」
「その際に、今日の再戦を、魔法戦で行うことを提案しようではないかね」
「………………はい?」
フレデリクの態度から余裕が崩れる。
(魔法戦……えっと、共通授業で習った……)
それは特殊な結界の中で、魔法攻撃だけを用いて戦う戦闘だ。
魔法戦の結界の中では、物理攻撃が無効になり、魔力を帯びた魔法攻撃──魔術、魔導具、魔法剣、或いは契約精霊の攻撃などが有効となる。
ダメージを受けても怪我はしないが痛みはあるし、ダメージの分だけ魔力が減少。先に一定の数値まで魔力が減った方の負け、というルールだ。
魔法攻撃を受けても怪我をしない、というメリットがあり、魔術の実践訓練の一環として行われる。
レンが恐る恐る訊ねた。
「それって……オリヴァーさんが、お兄さんと魔法戦をするってこと?」
「無論、一対一ではない。見習い魔術師十二名、全員で協力して取り組んでもらう。実際に戦う者、策を練る者、道具や罠を用意する者。よく考えて分担したまえよ」
実質一対十二と宣言されても、フレデリクは顔色を変えたりはしなかった。
ただ、明らかに面倒くさそうな空気を醸している。
ヘーゲリヒは高らかに告げた。
「上位者との実力差を知る。実に結構! その上で、その差を埋めるにはどうするかを考える──これは訓練なのだよ!」
ヘーゲリヒは丸眼鏡をクイと持ち上げ不敵に笑う。
「私には、見習い達を指導する義務がある。その機会を提供してくれたことに、感謝しようではないかね、フレデリク・ランゲ?」
フレデリクは立てた槍に体重を預けるような仕草をする。
そうしてため息をつき、疲れを隠さぬ顔で言った。
「……困ったな。物理攻撃無効の魔法戦じゃあ、無能の足を折れない……分かりました。どうやって心を折るか、考えておきます」
笑みの形の細められた目が、ギョロリと開いてオリヴァーを睨む。
「そこの無能が、討伐室に来たいなんて二度と言えないように」
それだけ言い捨てて、フレデリクは第二の塔〈金の針〉に戻って行く。
その背中を見送り、ティアは無意識に腕を擦った。まだ恐怖で肌がブツブツしているのだ。
(フレデリクさんは、強くて怖い人だ。わたしがハルピュイアの姿でも……多分、勝てない)
* * *
フレデリクが槍を片手に階段を上り二階に戻ると、部屋の前で銀髪の女がさめざめと泣いていた。
彼と同じ討伐室所属の同期で、名をヘレナという。
「あぁ、悲しいです、悲しいです……同期が物に当たる野蛮人で……」
「物に当たったんじゃなくて、人に当たったんだよ」
「これと同じ人間扱いされる、わたくしが可哀想……今日から人間辞めてゴミを名乗ってください……」
「僕の方が可哀想でしょ、それ」
これがヘレナの常なので、フレデリクは軽く聞き流す。
部屋の中に入ると、褐色の肌に三白眼のリカルドが掃除用具を持ってきたところだった。
リカルドは物言いたげな目で、フレデリクと廊下の壁を交互に見ている。
フレデリクは黙ってリカルドから掃除用具を受け取り、廊下に引き返した。
廊下ではまだ、ヘレナが泣いている。
「あぁ、悲しいです……どうして兄弟仲良くできないのでしょう……」
「僕に兄弟なんていないよ。弟は魔物に喰われて死んだんだ」
破壊した壁の破片を掃き集めながら、オリヴァーの顔を思い出す。
あれだけ殺気をぶつけてやったのに、その目には恐怖も怯えもなかった。強がりではなく、本当に一欠片もオリヴァーは恐怖していなかったのだ。
『俺は恐怖を知らぬ男、オリヴァー! どんな魔物が現れようと、たとえ兄者に咎められようと、俺は一歩も引かぬ!』
(恐怖を知らぬ、だって? ふざけるな)
無意識に噛み締めた歯がギシリと軋む。
箒を握る手に力がこもる。
(僕はずっと、怖くて怖くて仕方がないのに)