前へ  次へ >>  更新
45/45

【6】腕かき=平泳ぎの手の動き

 ティアがフレデリクと言葉を交わしたのは、入門試験を終えた日の夜。

 ティアをおんぶして飛行魔術を使ってくれた、ニコニコ優しくて背が高いお兄さん──それが、フレデリクに対するティアの印象だった。

 そのニコニコノッポさんが、今は全くニコニコしていない。


「気持ち良く寝てたって言うのに……」


 無意識にティアの喉がピョロロ……と鳴った。

 強い生き物に萎縮する時の、情けない声だ。


「不愉快すぎて頭がどうにかなりそう……ねぇ」


 笑みの形に細められていた目が、ギョロリとオリヴァーを睨む。


「今すぐ僕の前から消えて?」


 その声に込められた特大の怒りには、ハルピュイアのティアを怯えさせるほどの圧があった。

 ティアはピョエェェ……と鳴きながらセビルの背中に隠れようとし、レンと頭をぶつけた。レンも全く同じ行動をしていたのだ。

 レンは「あれやばい、絶対やばい」と青ざめガタガタ震えているし、セビルは「穏やかではないな」と硬い顔をしている。

 そんな中、特大の怒りを向けられているオリヴァーだけが、いつもと変わらない泰然とした態度だった。怖いもの知らずすぎる。


「兄者。俺は兄者の力になるべく、こうして馳せ参じたのだ」


「兄って誰のこと? 人違いじゃない? 帰ってくれる?」


「見習い期間を終えたら、俺は討伐室で兄者と共に戦線に立ちたい」


「お前が討伐室……?」


 真摯なオリヴァーの言葉に、フレデリクがピクピクと頬を引きつらせた。

 その表情と全身から漂う空気が、怒りと苛立ちと不快感を撒き散らしている。もはやそれは、殺気の領域だ。


「討伐室は魔物と命懸けの戦いをする戦闘集団だ。お前はお呼びでないんだよ。ねぇ、役立たずは帰れって言わないと分からない?」


「俺は兄者の力になるべく研鑽を積んできた。決して、足手纏いにはならない」


「へぇ……?」


 フレデリクが口の端を持ち上げる。

 楽しいから笑っているのではないことは、誰の目にも明らかだった。


「だったら、表に出なよ。お前の実力を測ってあげる」


 リカルドが扉を押さえた姿勢のまま「フレデリクさん……」と控えめに声をかけた。

 どこかたしなめるような響きのある声だが、フレデリクはリカルドに冷めた目を向ける。


「ちょっと外に出てくるから。あとよろしく」


「ヘレナさんが怒り……えぇと、悲しみ? ますよ」


「ヘレナがうるさいのなんて、いつものことでしょ。適当に言わせておけばいいよ」


 そう言ってフレデリクは廊下の壁に刺さったままの槍を引き抜く。

 そこでようやく彼は、ティア達の存在に気づいたらしい。


「あれ?」


 フレデリクがおっとりと首を傾げてティアを見る。

 その表情に、先ほどまでの怒りはない。初めて会った時のおっとり顔だ。


「どこかで会ったっけ…………あぁ、そうだ。思い出した。歌が上手な子だ。この間は素敵な歌をありがとう」


 返事の代わりに、「ペフゥ、ペフゥ」という声が出た。

 まだ、先ほどの恐怖が抜けきっていないのだ。

 フレデリクが困ったように眉尻を下げた。


「驚かせちゃってごめんね。ちょっと危ないから、〈白煙〉に戻った方がいいよ。できればこの馬鹿も引き取ってほしいところだけど……」


「俺は帰らんぞ、兄者」


「……これはもう、始末しないとね」


 再び滲み出た殺気に、ティアはブルブル震えた。



 * * *



 第二の塔〈金の針〉を出てすぐのところにある、広い訓練場で背の高い兄弟が向き合っている。

 片や兄。討伐室所属のフレデリク・ランゲ。

 片や弟。見習い魔術師オリヴァー・ランゲ。

 二人は共に、訓練用の槍を手にしていた。刃を潰し、上に革を被せた物だが、それでも直撃すれば骨は折れるし、当たりどころが悪ければ死ぬこともある。


「ピロロロロロ……大変なことに、なっちゃった……」


 仲良しかと思っていたランゲ兄弟は、あまり仲良しではなかった。

 少なくともオリヴァーは兄を慕っているのだろう。だが、兄のフレデリクはこれっぽっちも好意的には見えない。

 フレデリクが槍を体の周りで回した。ヒゥンと気持ちの良い風切り音がする。

「まずは、お前から打ち込んでごらんよ。どれだけ上達したか、見てあげる」


「分かった」


 オリヴァーは一度頷き、兄と同じように槍を回す。落とした。


「ピロロロロ……オリヴァーさん、緊張してる?」


「否。俺はいつも、二回に一度は落とす」


 槍を拾いながらキリッとした顔で応じるオリヴァーに、レンが天を仰いだ。


「じゃあやるなよ。こういう大事な場面でさぁ……」


 フレデリクは最早、汚物を見るような目で弟を見ていた。視界に入れるのも不快と言わんばかりの表情だ。

 だが、オリヴァーは動じることなく、詠唱を始める。


(あ、この詠唱……!)


 ティアはその詠唱を知っている。一度聞いて、ちゃんと覚えた。

 フレデリクと初めて会った日の夜、彼が使った飛行魔術の詠唱だ。


「ぬぅん!」


 裂帛の気合いと共に、オリヴァーは空高く飛び上がった。

 レンが「すげぇ」と驚きの声をあげる。


「あれって飛行魔術じゃん。難しいんだろ?」


「うん! 飛んでる! オリヴァーさん、すごい! 飛んでる!」


 レンとティアは思わずはしゃいだが、セビルは空を仰いで眉根を寄せた。


「確かに飛んでいるが……あれは……」


 オリヴァーの体は高く、高く飛んでいった。とても高くだ。

 そこそこ視力の良いティアの目にも、オリヴァーの姿は小さな点にしか見えない。

 そうして、オリヴァー・ランゲはどこまでも高く、高く、高く飛んでいき…………。


「うぉぉぉぉぉぉ!!」


 雄叫びをあげて、上空から真っ直ぐに降りてきた。

 上空から落下する勢いを利用した槍の一撃。その威力は確かに凄まじいだろう。

 だが、オリヴァーが落ちてきたのは、彼が飛び上がった地点である。

 レンが引きつった顔で呻いた。


「ただ高く跳んだだけじゃん……!」


 そう。ものすごく高く跳躍しただけなのである。

 槍を握り、着地したオリヴァーは、体勢を立て直し、スッと槍を横に振って構えた。


「否。一歩分、前進している。空中で懸命に腕かきをした甲斐があった」


「上空でそんなことやってたの!?」


 レンが叫ぶ横で、ティアは想像してみた。

 とてつもなく高く跳躍し、そして上空で一生懸命泳ぐみたいに腕を動かし、一歩分の距離だけ進んで着地──ティアが求める飛行魔術とは、だいぶ違う。


「槍を落とさぬよう空中で腕かきをするのは、困難であった。習得には随分と時間を費やしてしまったが……今の俺は、完璧な腕かきをマスターしたのだ!」


「なんで、そこに時間を費やしちゃったんだよ……」


 レンが悲痛な顔で呻く。

 オリヴァーはまた槍をクルリと回し、兄に突きつけた。今度は槍を落っことさなかった。


「見たか兄者! この天まで届く跳躍力と一歩分の距離が、俺の歩みだ!」


「…………」


 フレデリクはオリヴァーに言葉を返さず、口の中で小さく詠唱をした。

 あれも飛行魔術だ。

 フレデリクが軽く地面を蹴るのと同時に、その体が地面の上を滑るように高速移動する。

 飛行魔術で低空飛行しているのだ。そのままフレデリクは突きを放つ。

 オリヴァーはそれを首を捻ってかわしたが、オリヴァーが回避するのとほぼ同時に、フレデリクの体がフワリと高く浮き上がり、オリヴァーの体を飛び越えた。

 そのついで、彼の長い足がオリヴァーの頭を蹴る。

 オリヴァーはすぐに体勢を立て直して応戦した。だが、フレデリクの槍は容赦なくオリヴァーの体を突き、時に体術を交えて蹴り飛ばす。

 セビルが険しい顔で呟いた。


「……いかんな。飛行魔術だけでなく、槍の腕前でも力の差は明らかだ。まともにやり合っては勝てんぞ」


 ティアには武術のことはよく分からないけれど、フレデリクとオリヴァーを比較すると、フレデリクの方が圧倒的に動きが滑らかに見えた。

 槍は一度突きを放つと、穂先を手元に引き寄せる一手が必要になる。その引き寄せの動作がフレデリクは速いのだ。

 時に飛行魔術をまじえて、突きを放った姿勢のまま跳躍し、敵の死角に回って次の攻撃に移る。


(飛行魔術の小回りの利かせ方が、すごく上手……ハルピュイアより、飛ぶの上手かも)


 いつだったかヒュッターが言っていた。〈楔の塔〉には、飛行魔術が飛び抜けて上手い者が二人いると。

 一人は長距離飛行が得意。そしてもう一人は小回りの効く飛び方が得意──間違いない。後者がフレデリクだ。

 オリヴァーとフレデリクはかなり体型が似ている。細身で長身。手足が長い。

 だからこそ、動きの違いがよく分かる。

 フレデリクは、長い手足と槍のリーチの長さをしっかりと活かしている。そこに飛行魔術の機動力を組み合わせているのだ。

 フレデリクの槍が強かにオリヴァーを打つ。

 よろめくオリヴァーの腹を、フレデリクは容赦無く蹴り、その勢いでクルリと後ろに一回転して着地した。


「まだやるつもり?」


「あぁ、まだだ。俺は〈赤き雨〉のオリヴァー! 兄者が俺を認めてくれるまで、俺は引かぬ!」


「そう、それじゃあ……」


 フレデリクが槍を構え直す。ゴゥッと強い風が吹き、彼の淡い色の髪をなびかせた。

 そうして髪が逆立つと、彼はオリヴァーにそっくりだ。ただ、その目に宿る殺気は比較するまでもない。

 フレデリクが低い声で告げた。


「お前の顔面を陥没するまで殴り飛ばして、血の雨を降らせてあげるよ」


 ティアは思わず呟く。


「ピョェェェェ……〈赤き雨〉って、オリヴァーさんが材料だったんだ……」


 材料、とレンが真顔で復唱した。


前へ目次  次へ >>  更新