【6】腕かき=平泳ぎの手の動き
ティアがフレデリクと言葉を交わしたのは、入門試験を終えた日の夜。
ティアをおんぶして飛行魔術を使ってくれた、ニコニコ優しくて背が高いお兄さん──それが、フレデリクに対するティアの印象だった。
そのニコニコノッポさんが、今は全くニコニコしていない。
「気持ち良く寝てたって言うのに……」
無意識にティアの喉がピョロロ……と鳴った。
強い生き物に萎縮する時の、情けない声だ。
「不愉快すぎて頭がどうにかなりそう……ねぇ」
笑みの形に細められていた目が、ギョロリとオリヴァーを睨む。
「今すぐ僕の前から消えて?」
その声に込められた特大の怒りには、ハルピュイアのティアを怯えさせるほどの圧があった。
ティアはピョエェェ……と鳴きながらセビルの背中に隠れようとし、レンと頭をぶつけた。レンも全く同じ行動をしていたのだ。
レンは「あれやばい、絶対やばい」と青ざめガタガタ震えているし、セビルは「穏やかではないな」と硬い顔をしている。
そんな中、特大の怒りを向けられているオリヴァーだけが、いつもと変わらない泰然とした態度だった。怖いもの知らずすぎる。
「兄者。俺は兄者の力になるべく、こうして馳せ参じたのだ」
「兄って誰のこと? 人違いじゃない? 帰ってくれる?」
「見習い期間を終えたら、俺は討伐室で兄者と共に戦線に立ちたい」
「お前が討伐室……?」
真摯なオリヴァーの言葉に、フレデリクがピクピクと頬を引きつらせた。
その表情と全身から漂う空気が、怒りと苛立ちと不快感を撒き散らしている。もはやそれは、殺気の領域だ。
「討伐室は魔物と命懸けの戦いをする戦闘集団だ。お前はお呼びでないんだよ。ねぇ、役立たずは帰れって言わないと分からない?」
「俺は兄者の力になるべく研鑽を積んできた。決して、足手纏いにはならない」
「へぇ……?」
フレデリクが口の端を持ち上げる。
楽しいから笑っているのではないことは、誰の目にも明らかだった。
「だったら、表に出なよ。お前の実力を測ってあげる」
リカルドが扉を押さえた姿勢のまま「フレデリクさん……」と控えめに声をかけた。
どこかたしなめるような響きのある声だが、フレデリクはリカルドに冷めた目を向ける。
「ちょっと外に出てくるから。あとよろしく」
「ヘレナさんが怒り……えぇと、悲しみ? ますよ」
「ヘレナがうるさいのなんて、いつものことでしょ。適当に言わせておけばいいよ」
そう言ってフレデリクは廊下の壁に刺さったままの槍を引き抜く。
そこでようやく彼は、ティア達の存在に気づいたらしい。
「あれ?」
フレデリクがおっとりと首を傾げてティアを見る。
その表情に、先ほどまでの怒りはない。初めて会った時のおっとり顔だ。
「どこかで会ったっけ…………あぁ、そうだ。思い出した。歌が上手な子だ。この間は素敵な歌をありがとう」
返事の代わりに、「ペフゥ、ペフゥ」という声が出た。
まだ、先ほどの恐怖が抜けきっていないのだ。
フレデリクが困ったように眉尻を下げた。
「驚かせちゃってごめんね。ちょっと危ないから、〈白煙〉に戻った方がいいよ。できればこの馬鹿も引き取ってほしいところだけど……」
「俺は帰らんぞ、兄者」
「……これはもう、始末しないとね」
再び滲み出た殺気に、ティアはブルブル震えた。
* * *
第二の塔〈金の針〉を出てすぐのところにある、広い訓練場で背の高い兄弟が向き合っている。
片や兄。討伐室所属のフレデリク・ランゲ。
片や弟。見習い魔術師オリヴァー・ランゲ。
二人は共に、訓練用の槍を手にしていた。刃を潰し、上に革を被せた物だが、それでも直撃すれば骨は折れるし、当たりどころが悪ければ死ぬこともある。
「ピロロロロロ……大変なことに、なっちゃった……」
仲良しかと思っていたランゲ兄弟は、あまり仲良しではなかった。
少なくともオリヴァーは兄を慕っているのだろう。だが、兄のフレデリクはこれっぽっちも好意的には見えない。
フレデリクが槍を体の周りで回した。ヒゥンと気持ちの良い風切り音がする。
「まずは、お前から打ち込んでごらんよ。どれだけ上達したか、見てあげる」
「分かった」
オリヴァーは一度頷き、兄と同じように槍を回す。落とした。
「ピロロロロ……オリヴァーさん、緊張してる?」
「否。俺はいつも、二回に一度は落とす」
槍を拾いながらキリッとした顔で応じるオリヴァーに、レンが天を仰いだ。
「じゃあやるなよ。こういう大事な場面でさぁ……」
フレデリクは最早、汚物を見るような目で弟を見ていた。視界に入れるのも不快と言わんばかりの表情だ。
だが、オリヴァーは動じることなく、詠唱を始める。
(あ、この詠唱……!)
ティアはその詠唱を知っている。一度聞いて、ちゃんと覚えた。
フレデリクと初めて会った日の夜、彼が使った飛行魔術の詠唱だ。
「ぬぅん!」
裂帛の気合いと共に、オリヴァーは空高く飛び上がった。
レンが「すげぇ」と驚きの声をあげる。
「あれって飛行魔術じゃん。難しいんだろ?」
「うん! 飛んでる! オリヴァーさん、すごい! 飛んでる!」
レンとティアは思わずはしゃいだが、セビルは空を仰いで眉根を寄せた。
「確かに飛んでいるが……あれは……」
オリヴァーの体は高く、高く飛んでいった。とても高くだ。
そこそこ視力の良いティアの目にも、オリヴァーの姿は小さな点にしか見えない。
そうして、オリヴァー・ランゲはどこまでも高く、高く、高く飛んでいき…………。
「うぉぉぉぉぉぉ!!」
雄叫びをあげて、上空から真っ直ぐに降りてきた。
上空から落下する勢いを利用した槍の一撃。その威力は確かに凄まじいだろう。
だが、オリヴァーが落ちてきたのは、彼が飛び上がった地点である。
レンが引きつった顔で呻いた。
「ただ高く跳んだだけじゃん……!」
そう。ものすごく高く跳躍しただけなのである。
槍を握り、着地したオリヴァーは、体勢を立て直し、スッと槍を横に振って構えた。
「否。一歩分、前進している。空中で懸命に腕かきをした甲斐があった」
「上空でそんなことやってたの!?」
レンが叫ぶ横で、ティアは想像してみた。
とてつもなく高く跳躍し、そして上空で一生懸命泳ぐみたいに腕を動かし、一歩分の距離だけ進んで着地──ティアが求める飛行魔術とは、だいぶ違う。
「槍を落とさぬよう空中で腕かきをするのは、困難であった。習得には随分と時間を費やしてしまったが……今の俺は、完璧な腕かきをマスターしたのだ!」
「なんで、そこに時間を費やしちゃったんだよ……」
レンが悲痛な顔で呻く。
オリヴァーはまた槍をクルリと回し、兄に突きつけた。今度は槍を落っことさなかった。
「見たか兄者! この天まで届く跳躍力と一歩分の距離が、俺の歩みだ!」
「…………」
フレデリクはオリヴァーに言葉を返さず、口の中で小さく詠唱をした。
あれも飛行魔術だ。
フレデリクが軽く地面を蹴るのと同時に、その体が地面の上を滑るように高速移動する。
飛行魔術で低空飛行しているのだ。そのままフレデリクは突きを放つ。
オリヴァーはそれを首を捻ってかわしたが、オリヴァーが回避するのとほぼ同時に、フレデリクの体がフワリと高く浮き上がり、オリヴァーの体を飛び越えた。
そのついで、彼の長い足がオリヴァーの頭を蹴る。
オリヴァーはすぐに体勢を立て直して応戦した。だが、フレデリクの槍は容赦なくオリヴァーの体を突き、時に体術を交えて蹴り飛ばす。
セビルが険しい顔で呟いた。
「……いかんな。飛行魔術だけでなく、槍の腕前でも力の差は明らかだ。まともにやり合っては勝てんぞ」
ティアには武術のことはよく分からないけれど、フレデリクとオリヴァーを比較すると、フレデリクの方が圧倒的に動きが滑らかに見えた。
槍は一度突きを放つと、穂先を手元に引き寄せる一手が必要になる。その引き寄せの動作がフレデリクは速いのだ。
時に飛行魔術をまじえて、突きを放った姿勢のまま跳躍し、敵の死角に回って次の攻撃に移る。
(飛行魔術の小回りの利かせ方が、すごく上手……ハルピュイアより、飛ぶの上手かも)
いつだったかヒュッターが言っていた。〈楔の塔〉には、飛行魔術が飛び抜けて上手い者が二人いると。
一人は長距離飛行が得意。そしてもう一人は小回りの効く飛び方が得意──間違いない。後者がフレデリクだ。
オリヴァーとフレデリクはかなり体型が似ている。細身で長身。手足が長い。
だからこそ、動きの違いがよく分かる。
フレデリクは、長い手足と槍のリーチの長さをしっかりと活かしている。そこに飛行魔術の機動力を組み合わせているのだ。
フレデリクの槍が強かにオリヴァーを打つ。
よろめくオリヴァーの腹を、フレデリクは容赦無く蹴り、その勢いでクルリと後ろに一回転して着地した。
「まだやるつもり?」
「あぁ、まだだ。俺は〈赤き雨〉のオリヴァー! 兄者が俺を認めてくれるまで、俺は引かぬ!」
「そう、それじゃあ……」
フレデリクが槍を構え直す。ゴゥッと強い風が吹き、彼の淡い色の髪をなびかせた。
そうして髪が逆立つと、彼はオリヴァーにそっくりだ。ただ、その目に宿る殺気は比較するまでもない。
フレデリクが低い声で告げた。
「お前の顔面を陥没するまで殴り飛ばして、血の雨を降らせてあげるよ」
ティアは思わず呟く。
「ピョェェェェ……〈赤き雨〉って、オリヴァーさんが材料だったんだ……」
材料、とレンが真顔で復唱した。