【2】ハルピュイア運動能力テスト
〈楔の塔〉の城塞の中は結構な広さがあるので、訓練に使える広場が幾つもある。
そんな広場の一つで、ティアはセビルにパンチを繰り出していた。
セビルは両手に革のグローブをつけて、それでティアの拳を受け止めている。
「ピョフッ! やぁっ!」
「踏み込みが浅い!」
「ペフポッ!」
「良いぞ、その勢いだ!」
「ペフポー! ……あ、レンだ」
辿々しくセビルに拳を繰り出していたティアは、動きを止めてレンに手を振る。
「ピヨップ! おはよう!」
昨日のことなど忘れたような朗らかさだ。
こちらだけ気まずそうにしているのも悔しいので、レンは余裕たっぷりの美少年スマイルで片手を振った。
「おう、おはよ。何してんのお前ら?」
「ティアの身体能力を確認していたのだ」
セビルはチラリと周囲を見る。
全く人がいない訳ではないが、話し声が聞こえない距離だ。それを確認して、セビルは言葉を続けた。
「ティアは走り方が辿々しかったであろう? それが以前から気になっていたのだ。あれでは腰を悪くする。そうでなくとも、正体を隠したいのなら、自然な走り方を習得した方が良い」
それは確かに、とレンは思った。
ティアは歩く時も走る時も、腕は振らずに後ろに伸ばし、あまり膝を曲げず前傾姿勢になって、ペタペタ走るのだ。
どことなく鳥の歩き方に似ているが、彼女の正体を考えれば納得のいく話ではあった。ハルピュイアは下半身が鳥なのだ。
「それで、自然な走り方は習得できそうなの?」
「ピロロロロ……すぐには無理かなぁ」
レンが訊ねると、ティアは眉根を寄せて難しい顔をした。
「今のわたしの状態って、人の皮を被ってるみたいなものだから……」
ティアは言葉を探すみたいに、ピロロロロ……と唸る。
これは最近気づいたことだが、ティアの「ピロロロロ……」は、人間でいう「うーん……」に相当することが多い。
「えっとね、レンより一回り大きな鳥のぬいぐるみを用意して、綿を抜くでしょ。その中にレンが入って、鳥と同じ動きしろって言われても難しいよね?」
「あー、なるほど? つーか、お前、ぬいぐるみは知ってるんだ?」
ティアは人間の娯楽用品に関する知識が疎い。それは、正体を知る前から気づいていたことだ。
ただ、流石にぬいぐるみは知っているらしい。
こいつの人間に関する知識って、どこで身につけたんだろう。とレンが密かに思っていると、ティアは何故か不本意そうな顔をした。
「…………ペフゥ」
今の「ペフゥ」はちょっとため息混じりの声だ。
拗ねた時、ションボリした時、計算問題につまずいた時、あまり嬉しくない気分の時に出る。
特に最後に「ゥ」が濁っているほど、不満が強い。今は結構濁っていた。
「別に馬鹿にしたわけじゃねーよ。お前が何をどこまで知ってるか、把握したいんだって」
「……レンやセビルみたいに走るのは、ちょっと難しいよ」
(あれ?)
ちょっと拗ねた顔のティアから、何か話を無理やりそらしたような空気を感じた。
気にしすぎだろうか、と悩むレンの横で、セビルが革のグローブを外しながら言う。
「ティアの身体能力は決して低くないぞ。わたくしとレンを担いで、一晩歩いたぐらいだからな。筋力と持久力は大したものだ。そこで、簡単な運動能力テストをしたのだ」
「ふーん。それで、どんな感じだったんだ?」
「上半身に筋力がある。特に腕や肩の力が発達しているな。だが、体の使い方が拙く、瞬発力や跳躍力は低い」
セビルは自身の腕を動かし、物を投げる仕草をしてみせた。
「肩の力はあるのに、物を投げるのは下手。腕の力はあるけれど、パンチに威力がない。おそらく、今までそういう動作をしてこなかったのではないか?」
「うん。しない」
ティアがコクンと頷く。
まぁ、それはそうだろう。空を飛ぶには翼を使う。その間、物を投げたり、殴ったりはできないのだ。
セビルが腕組みをし、教官のような口調で言う。
「つまり、ティアは人間の体の使い方を分かっていないのだ。そこは、訓練次第で多少は上達するだろう…………ただ、ティアよ。お前にその意思はあるか?」
「ないよ!」
即答だった。
レンは思わずツッコミを入れる。
「いや、ないのかよ。えーっと、走ったり、物投げたりは、できても別に困らないんじゃないか?」
「だって、わたし、空が飛べればそれでいいもん。ハルピュイアに戻ったら、そういう動作、どうせしなくなるし……」
その言葉に、レンはドキッとした。
ティアは、いつまでもこの姿のままでいるつもりはない。飛行魔術を覚えたら、もう人間の振りをする必要はないのだ。故郷に帰って、それっきりなのだ。
(なんか、それってさ……)
レンは少しモヤモヤしたが、セビルは特にガッカリした様子もなく、「そうか」とあっさり返した。
「訓練に使える時間は有限だ。何に時間をかけるかは、お前が決めるが良い」
「うん! 飛行魔術!」
ティアの答えは明確だった。
本当に空を飛びたくて、それだけのためにティアはここにいるのだ。
そのことに、レンはほんの少しの寂しさを覚えた。
レンは魔術が学びたいけど、それ以外にも〈楔の塔〉で欲しいものはある。上手く言えないけど、同じ見習い同士の交流とか、勉強以外からも得られる何かだ。
(ティアは、そういうのいらないのかよ)
レンは俯き黙り込む。
すると、すぐ近くで「ペフフフフ」という声がした。ティアが何やら得意気な顔でレンを見ている。
「なんだよ、ティア」
レンが少しつっけんどんに言うと、ティアはセビルとレンに近づき小声で言った。
「あのね、セビルは計測しなかったけど、わたし、足の指の力は、ちょっと強いんだよ」
「は? なんだそりゃ? 足の指?」
そんなの得意気に自慢するようなことだろうか? レンにはいまいちピンとこない。セビルも同じようだった。
「ふむ。手の握力ではなく、足の握力までは、気にしていなかったな」
「ハルピュイアは足の鉤爪が武器だから、足の指の力が強いの。レンとセビルを掴んで飛べるよ」
ペフッペフッ、とティアは得意気に喉を鳴らしている。
これはもしかして、レンと同年代の少年が、握力を自慢するようなものだろうか。
オレ、林檎を握り潰せるんだぜ! みたいな、そういうあれだ。
レンはふと、気になったことをティアに訊ねた。
「でも、ハルピュイアってさ、一応人間の手みたいなのあるじゃん? あれ、何のためにあんの?」
「分かんない」
「分かんないのかよ!」
「ピロロロロ……人間には、そういうのないの? 何のためにあるんだろ、っていう部位」
レンは真剣に考えた。
ものすごく真剣に考え、そしてハッと顔を上げた。
「そういや、オレ、なんで男は母乳出ないのに乳首あんだろ……って思ったことある」
セビルが「ふむ」と頷き、キリッとした顔で断言した。
「つまり、ハルピュイアの手は、人間の男の乳首も同然ということか!」
「ピヨップ! そういうこと!」
「いや、乳首とか言っちゃったのオレだけどさ!? それでいいのお前!?」
思わず叫んだレンに、周囲の視線が集まる。
いかんいかん、美少年が朝から乳首発言をしたら、流石に目立ってしまう──と反省し、レンは黙り込む。
ティアは人間の少女の手をニギニギ動かしながら、楽しそうに言った。
「だからね、ハルピュイアはあんまり手を使うの上手じゃないの。ちなみにわたしは、ハルピュイアの翼の先にある人の手は、手羽先の先にある手羽先だから、第二手羽先って呼んでるよ」
「第二手羽先」
レンは思わず真顔で復唱した。
第二手羽先──おそらく、人生でそう何度も聞かない単語である。
なら、人間形態の今は第二ではない通常手羽先で良いのだろうか。否、そもそも人の手は手羽先とは言わない。
レンが手羽先について真剣に考察していると、ティアがニコニコしながら言った。
「そういえば、ヒュッター先生は手羽先がカッコイイよね。鳥にモテそう」
レンは「んっふ」とふきだした。
そこにセビルが追い討ちをかける。
「確かに、ヒュッター先生は手が美形だな」
彼らの担当指導員カスパー・ヒュッターは、あまりパッとしない、適当さと胡散臭さが程々に滲み出ているオッサンである。
──だが、手羽先がカッコイイ。手が美形。
いよいよ堪えきれず、レンは腹を抱えてヒィヒィ笑った。
「お前らやめろよ、授業中にヒュッター先生の手を見たら、笑っちまうだろ……!」
笑いながら、レンはなんだかとても、参ったなぁという気持ちになった。
参った。本当に参った。今朝は、あんなにティアとの接し方についてグルグル悩んでいたのに。
(参ったなぁ……だって、楽しいんだもん。こいつらといると)
ずっと、こうやってくだらないことで笑いあえる時間が続けばいいな。なんて、甘ったれたことをレンが考えていると、背の高い男がこちらに向かって走ってくるのが見えた。
薄茶の髪をツンツンに逆立てた背の高い男──レン達と同じ見習い魔術師。自称〈赤き雨〉のオリヴァー・ランゲだ。
オリヴァーはどうやら走り込みをしていたらしい。オリヴァーはすぐには足を止めず、その場で足踏みをしつつ、レンとティアを見た。
「珍しいな。お前達も訓練中か」
セビルは訓練の常連なので、珍しくないらしい。
ティアが「ピヨップ!」と元気に挨拶をする。
「おはよう、オリヴァーさん。オリヴァーさんは、毎朝訓練してるの?」
「あぁ。いつもは魔術の訓練がメインなのだが、今日は魔力量測定があるから、走り込みを中心にしているのだ」
「魔力量測定?」
ティアが能天気な顔で聞き返す。
オリヴァーが足踏みをしながら言った。
「ヒュッター先生から、聞いてないのか?」
勿論、聞いていなかった。レンだけでなく、ティアとセビルもだ。
「……あのオッサン、絶対忘れてるだろ」
「まぁ、仕方あるまい。昨日は慌ただしくてそれどころではなかったからな」
ぼやくレンに、セビルがさほど気にしていない態度で言う。
ふと、レンは気づいた。
魔力量測定。つまりは、体内にどれだけの魔力を宿しているかを計測するのだが、人間と魔物では魔力量が全然違う。
「……おい、ティア。お前、魔力量測定して、大丈夫なのか?」
「大丈夫!」
ティアは自信満々の態度だが、そもそもこいつは魔力量測定の意味を分かっているのだろうか。
レンの懸念をよそに、ティアは能天気な顔でオリヴァーと話している。
「オリヴァーさん、なんで足踏みしてるの? ウキウキしてるから?」
「長距離の走り込みをしたら、突然止まるのではなく、こうして足踏みや歩きを挟み、徐々に脈を戻すのだ」
「そうすると、何か良いことあるの?」
「疲労が残りにくくなる」
「そうだったんだ! オリヴァーさんは、賢い!」
「あぁ、今度から実践すると良いだろう」
「ピヨップ!」
いざという時は、自分が上手く誤魔化さねば、とレンは心に誓った。