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【20】人の皮の代償

 オレは、何を見ているんだ。とレンは自問自答した。

 これは、寒さが見せる夢だろうか。それも、悪夢の類の。

 ティアの顔をした魔物がいる。腕からは白い羽が生えていて、その羽がティアの腕の中に吸い込まれるように消えていく。

 少女の細い腕は皮膚がパクリと裂けていて、そこに羽が収まっていく光景は、率直におぞましいと思った。


「うー、うぎゅぅぅう……うーっ、うー!!」


 魔物が苦悶の表情で唸る。ティアの顔で、声で。

 ピヨップ! と朗らかに笑う顔は、笑みを失くすと、こんなにも冷たい印象になるのだと、今更レンは思い知る。


「あぎゅぅぅぅ……うぅー……ふぅっ、ふぅっ……」


 レンの目の前で、ティアの姿をしたバケモノが何かを取り出し、口に放り込んで噛み砕く。

 すると、少女の腕から再び白い翼が飛び出した。それだけじゃない。足元に違和感があると思ったら、足まで変形している。鋭い鉤爪のある、鳥の足だ。

 その魔物の名前を、レンは知っていた。幼い頃、本で読んでもらったことがある。


(……ハルピュイア)


 ハルピュイアはその大きな羽を折りたたんで、レンとセビルを包み込んだ。

 恐怖のあまり声も出ないレンに、魔物がティアの顔を近づける。

 怪しく輝く琥珀色の目が、怯えるレンを覗き込み……。


「ふんふんふんふんふんふんふんふん!!」


 高速で頬擦りをした。ちょっと痛い。

 続いてティアはセビルにも同じように頬擦りをする。

 物凄い、高速だ。


「あったまれ、あったまれ、あったまれぇ……!」


 琥珀色の目をした魔物が、必死の形相で言う。


「あのね、わたし、羽の先っちょに人間みたいな手があるけど、二人を羽で包んでるから、手で擦ってあげられないの」


 フンワリした羽が、レンとセビルを抱きしめるように、包み込む。

 羽も、魔物の体も温かい。

 セビルが硬い声で、魔物に問う。


「ティア、お前は……魔物だったのか?」


『不思議、不思議だね。どうしてかしら?』


 洞窟内の冷たい空気が微かに揺れて、セビルの声に被せるようにジャックの声が響き渡る。


『ハルピュイアは、人の姿になれないよね?』


 そうだ。ジャックの言う通りだ。

 ハルピュイアは下位種の魔獣。魔物としての力は然程強くなく、完璧な人の姿に擬態はできない。

 だけどレンの知るティアは、どこから見ても人間の女の子だった。

 レンの疑問を、皮肉にも魔物のジャックが代弁する。


『どうして君は、人間になれたの? どうして君は、人間の振りをしているの?』


「……人間に、風切り羽根を切られたの」


 レンは咄嗟に、自分を包むティアの羽を見る。確かに、何ヶ所か不自然に短くなっている箇所があった。

 レンは実家で見た光景を思い出す。大商人だったレンの父は珍しい色の鳥を飼っていて、その鳥は飛んで逃げないようにと風切り羽根を切られていたのだ。


(それと同じことを、ティアにした人間がいる?)


 ティアが魔物だという驚きで、レンはまだ混乱していた。

 それでも、頭の中の冷静な部分が状況を把握しようと思考する。

 ティアはハルピュイアで、魔物だ。そして、風切り羽根を切る行為はペットの鳥にする行為だ。

 それではまるで……。


(人間が、魔物を飼ってた、みたいじゃんか……)


 自分の知らないおぞましい闇を覗いた気分になり、寒さとは別の意味でレンは体を震わせた。

 彼は入門試験で、本に封印した蛇の魔物が〈楔の塔〉の魔術師に使役されるところを見ている。風切り羽根を切ったハルピュイアを飼うのは、それとはまた違う生々しさと、根底にある人間の欲を感じた。

 ティアは切実な声で、独白を続ける。


「もう飛べないの。でも、飛びたいの。飛べなきゃ、首折り渓谷に帰れない。お姉ちゃん達にも会えない……だから、飛行魔術を覚えるために、人間にしてもらったの」


『ハルピュイアが、人間のフリしてお勉強? ふふ、うふふ……無理じゃないかな。だって魔物は人間に依存し、執着するもの……』


 ジャックがあどけない声で笑う。

 どこまでも場違いな無邪気さで。


『ねぇ、君達は、ハルピュイアの執着の形を知っている?』


 今までティアに語りかけていた声が、レンとセビルに向けられる。

 息を呑む二人に、ジャックは告げた。


『ハルピュイアはね、人間の男を攫って繁殖するんだよ。首折り渓谷に連れ込んで、交尾して、衰弱したら、後は首折り渓谷にポイ!』


 耳を塞ぎたくなるほど醜悪な魔物の生態を、ジャックはどこまでも楽しげに語る。

 嘘だ、という叫びがレンの喉元まで出かかった。だけど、声にならない。

 魔物の生態は、少しだけ共通授業で学んだ。

 ジャックの言う通り、魔物は何らかの形で人間に依存する。

 人間を食べないと生きていけないとか、血を啜らないと生きていけないとか、或いは繁殖に必要だとか。


(嘘だ、嘘だ、嘘だ……)


 ティアがハルピュイアだなんて、嘘だ。

 人間の男を攫って、犯して殺すグロテスクな生き物だなんて、嘘だ。

 嘘だと言ってくれ。とすがるような思いでティアを見上げる。

 ティアはいつものティアらしい朗らかさで言った。


「それならね、大丈夫だよ!」


 何が大丈夫なのかは分からないが、ティアがあまりにあっけらかんとしているものだから、レンはなんとなく流されてしまいそうになった。

 そうか、大丈夫なのか、と。訳も分からず安堵した。


 ──甘かった。


「だって、わたし、もう繁殖できないもん!」


 レンの顔が引きつる。セビルも同じように、硬い顔をしていた。

 ティアだけが、ニコニコしている。


「人に化けるために、繁殖能力を代償にしなきゃいけなかったの。だからわたし、卵は産めないよ」


 レンの喉が呼吸の仕方を忘れて、痙攣する。

 いろんな疑問が頭に浮かんだ。だけど、どれも上手く言葉にならない。


 ──そんなのあっけらかんと言うことじゃないだろう、お前は何を代償にしたのか分かっているのか、なんでそんなことをしたんだ、なんで繁殖能力を代償にしたんだ、なんでそんなことをされて、人間のオレ達に笑いかけられるんだ。なんで、なんで、なんで……。


 何から訊くべきか、何と声をかけるべきか、上手く思考がまとまらない。

 レンが黙り込んでいると、セビルが静かな声でティアに訊ねた。


「ティア、聞かせろ」


「なぁに?」


「お前は何故、そこまでして飛行魔術を……」


「空を飛びたいの。飛べなきゃ嫌なの。空を飛ぶことと、歌を歌うことが、ハルピュイアの全てだから」


 レンはかじかむ拳を握りしめた。

 お前は自分がどれだけ、不当で残酷なことをされたか分かっているのか? そう問い詰めたい。

 人間に囚われ、風切り羽根を切られて。

 人間の姿になるために、繁殖能力を奪われて。

 それなのに、ティアはどこまでも真っ直ぐな目で言うのだ。


「繁殖も大事だけど、わたしは空と歌の方が大事だったから」


 モフッ、モフッ、と白い羽でレンとセビルを抱きしめて、ティアは微笑む。


「だからね、安心だよ。レンにもセビルにも酷いことしないよ」


 微笑んでいたティアの顔が強張る。

 レン達を包む羽が震えて、少しずつ縮んでいった。

 ティアが歯を食いしばって、苦しげに唸る。


「うー、うぐぅ、ぅうううううう……」


 ティアの羽が消えていく。まるで、腕の中に収納されていくみたいに。先ほども見た光景だ。

 それは相当な痛みを伴うらしく、ティアの顔は苦悶に歪んでいた。

 ティアはフゥフゥと荒い呼吸を繰り返しながら、ポケットから小瓶を取り出す。

 薄暗いので見えづらいが、小瓶の中には飴らしき物が入っていた。


「ピロロ……飴、あと、三粒……」


 ティアが震える手で小瓶から飴を取り出す。

 レンはハッとした。


「待て、お前、ハルピュイアに戻るには、その飴がいるのか?」


「そうだよ。一粒五分だから、五粒で三十分!」


「二十五分だ、馬鹿! ……いや、残りは三粒だから十五分か」


 残り時間十五分で、この状況を脱するにはどうしたら良いか──レンの思考がようやく働き始める。

 ティアが飴を口に放り込み、噛み砕いた。

 その腕から飛び出した白い羽が、レンとセビルを包み込む。

 ティアは本当に、レンとセビルを温めるためだけに、ハルピュイアの姿に戻ったのだ。


「ハルピュイアの羽は、とってもあったかいんだよ。だから大丈夫だよ。きっと、死なないよ」


 そこまで呟き、ティアの顔が、クシャリと歪む。

 まるで、母親を失った子どものような頼りなさで。


「……死なないよね?」


 いつも底抜けに明るい声が、今は少し震えていた。

 寒さではなく、不安で。


「レンも、セビルも、死なないよね? 冷たくなっちゃ、やだよぅ……」


 ティアの正体とか、事情とか、聞きたいこと、理解できないこと、許容できないことが沢山ある。

 それら全てをひっくるめて、レンは思った


(……あーもう!!)


 それは、まだ咀嚼できないことを一度横に置いて保留にし、今すべきことに頭を切り替えるための「あーもう」だ。

 だって、レンは生き延びたい。ティアとセビルと一緒に。

 だからレンは、生き延びるために必要なことを考える。


「おい、ティア。ハルピュイアって何ができるんだ?」


「歌える!」


「もうちょい具体的に……」


「えっと、風の精霊に力貸してもらったり……色々?」


「雑!」


 レンは叫びながら頭を抱えた。

 ティアの歌で何ができるか、確認している時間はない。


(他に何ができる? どんな手がある? 羽があったかい。不思議な歌が使える。あとは……)


 レンはティアのこれまでの言動を振り返った。

 入門試験、耳が良かった。レンとセビルを同時におんぶできるぐらいには腕力がある。ただ、雪猪に対抗できるほどではないのだろう。

 風の精霊の力を借りられるということは、ある程度は風を操れるのだろうか? だが、空を自由に飛んだり、ジャックを吹き飛ばせるほどではないのだ。それができたら、とっくにティアがやっている。

 先のジャック戦では腕を凍らされたように見えたけれど、ピンピンしていた。


(多分、魔法攻撃に対する耐性が高いんだ。ってことは、ティアは魔力量はそこそこあるんじゃないか? 少なくとも、特殊効果のある歌が使える程度には魔力がある……多分、人間よりずっと魔力量が多い。それなら……)


 レンの表情が変わったことに気づいたのだろう。セビルが指を開閉しながら、薄く笑う。


「今のお前は、なかなか良い男の顔をしているぞ、レン」


「美少年って言えよ」


「知恵があるなら貸すが良い、美少年」

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