【19】失われた極彩色
「心を込めて、歌ってあげる」
本来の姿を取り戻した首折り渓谷のハルピュイア、フォルルティアは広げた翼でレンとセビルを包んだ。
そうして姿なき冬の子の冷気から二人を守り、大きく口を開く。
「アーァァァァァァアアー……」
薄暗い洞窟の中では、歌声がこもって反響する。その感覚がティアには懐かしかった。
ハルピュイアの棲処は首折り渓谷の横穴で、この洞窟ほどではないが、やはり声が反響するのだ。
「アーアァァァァァァ!」
ティアは歌を捧げることで、風の精霊に力を借りることができる。
だけど、この辺りにいるのは力の弱い下位精霊。下位精霊の力で上位種の魔物を追い返すのは難しい。
入門試験の人狼を相手にした時のように逃げだすのも、この状況では不可能だろう。
なにより、ティアはこの魔物に対し、強い嫌悪感を抱いていた。
嫌いだ。大嫌いだ。
(だって、あの子に似てる)
だから、明確な敵意をもって、悪意をもって、殺意をもって、ティアは滅びを歌う。
──涙の日、己の無価値を知るだろう(その皮を一つずつ剥いで)
──泥の中の花は誰に見られることもなく(その肉を一つずつ削いで)
──腐り溶けて混ざり合う(その骨を一つずつ溶かして)
ハルピュイアは一度に三つの歌声を同時に発することができる。
今のティアは、二つの異なる歌詞を同時に歌っていた。
一つの歌としての調和を保ちつつ、主となる歌詞に重なる二つ目の歌詞が、聞く者の心を静かに蝕んでいく。
* * *
これは、どういうことだろう? と冬の魔物ジャックは疑問に思った。
洞窟に人間を三人追い込んだと思ったら、一人は──否、一匹はハルピュイアだった。
ハルピュイアは下位種の魔獣だ。人間の姿に完璧な擬態をすることはできない。
(あの子も〈水晶鋲〉を穿っている? だから、こんな場所まで来られた?)
だが、仮に〈水晶鋲〉を使っているとしても、ハルピュイアが人の姿を取れる理由にはならない。
〈水晶鋲〉は魔物を弱体化させることで、活動範囲を広げる力しかないのだ。弱体化したからとて、人の姿になるわけではない。
ハルピュイアの歌声が、洞窟の中に反響する。
甘やかで、心地良くて、それなのにどこか薄ら寒さを覚える歌だ。
喩えるなら、美しい音楽を聴きながら、耳元でありとあらゆる醜悪な物語を聞かされているかのよう。それでいて、美しい音楽と物語を囁く声が不協和音にはならず、音楽として成立している。
その時、ジャックはハッとした。
気体となったジャックは洞窟の周囲と外の両方の感覚を共有していて、どちらの出来事も見えている。その視界が、洞窟の外を徘徊している雪猪の異変を捉えたのだ。
(雪猪が……苦しんでいる?)
雪猪は突如動きを止めて、苦しげな呼吸を繰り返していたが、やがてその場にバタンと倒れて痙攣しだした。
まるで毒でも飲んだかのように白目を剥いて泡をふき、ゴヒュゥ、グフュゥ、と不自然な呼吸を繰り返していたが、やがてその巨体は動かなくなる。
同時に、雪猪の胸部に刺した〈水晶鋲〉が砕け散った。
雪猪は、あのハルピュイアの歌に殺されたのだ。
(魔物を殺す歌……正確には、魔物を構成する魔力を暴走させて、内部から破壊する歌だ)
あれは敵を追い払うための歌ではない。
明確な殺意をもって紡がれる攻撃だ。
──自壊は自明、明日は来ない(剥いで削いで溶かして)
──どれだけの価値を纏っても(剥いで削いで)
──それはお前の価値ではない(溶かして溶けて)
雪猪を死に至らしめてもなお、死を招く歌は終わらない。
あのハルピュイアは下位種の癖に、上位種であるジャックを殺すつもりなのだ。
本来、上位種に下位種の干渉は通用しない。それなのに、ジャックを構成する魔力が崩れ落ちていく。
(どうして、どうして……)
今のジャックは〈水晶鋲〉で弱体化している状態で火炎球の攻撃を受け、かなり弱っている。だから、下位種の攻撃が効いているのだろうか?
否、それだけじゃ、ない。
雪猪が死んだ辺りから、歌が変わった。
歌う歌が変わったわけじゃない。だけど、何かが変わった。
(指向性……今、この歌は、明確にボクだけに向けられている)
最初は広範囲に拡散していた歌が、今はジャックただ一人だけに向けられているのだ。
今のジャックは気体化しているが、意識の塊となる核のような部分がある。
その位置を、あのハルピュイアは明確に理解し、そこに向かって歌を飛ばしている。
『お前がどこにいるか、分かってるぞ』
柔らかな手で頭を掴まれ、耳元で囁かれた気がした。錯覚だ。
今のジャックには体がないけれど、背筋がゾクリと震えるような感覚がする。
恐怖からくる悪寒の震えと、快楽からくる愉悦の震えを同時に感じたみたいな、そういう震えだ。
(あのハルピュイアは、弱い魔物じゃない)
僅かな声の質を変えて、込める魔力を調整して、そうしてたった一人に届けることで威力を高める歌。
なにより、その歌声に込められた魔力量が尋常ではない。弱体化しているとは言え、上位種に影響を与えるほどに強いのだ。
『噂に聞いたことがあるよ』
ジャックは気体となった己の体を必死で維持しながら、洞窟内に囁く。
『高い魔力と指向性を持つ歌声のハルピュイア……ハルピュイアの女王』
下位種の魔物は、強い力を持つ変異体が生まれることがある。
ハルピュイアの場合、それは女王と呼ばれていた。
ただ、一つだけジャックの知識と噛み合わないものがある──その羽の色だ。
『おかしいな……ハルピュイアの女王は、極彩色だと聞いのだけど?』
ハルピュイアの女王は、遠目にも分かるほど鮮やかな、極彩色の大きな羽を持つという。
だが、今ここにいるハルピュイアは髪も羽も、真っ白だ。
「色は、あげたの」
魔物を殺す歌を維持しながら、白翼のハルピュイアが答えた。
ハルピュイアは一度に三つの声を同時に発することができるという。歌に二つ、会話に一つ。
──最期の日、己の無価値を笑うがいい(その皮を焼いて)
──墓標なき土中の亡骸に(その肉を焦がして)
──誰が祈りを捧げよう(その骨を灰にして)
歌いながら、会話をしているのだ。このハルピュイアは。
「人の姿を得るためには、いっぱい代償が必要だった。色も、そう」
(色を代償? あげた? 誰に?)
ジャックの中に幾つもの疑問が浮かぶ。
〈水晶鋲〉無しで〈水晶領域〉を離れることも、ハルピュイアなのに人の姿をとることも、本来はあり得ないことなのだ。
その本来ならあり得ない、不可能を可能にする存在に、ジャックは一つ心当たりがある。
(まさか、あの子は……)
ジャックの中で何かが繋がりかけたその時、ハルピュイアの歌が止まった。
洞窟の中で、ハルピュイアが呻きながらうずくまる。その羽が、みるみる内に小さくなっていった。
* * *
ティアの心臓が激しく脈打ち、羽がざわめきながら腕の中に収まっていく。
元の姿に戻っていられる五分が過ぎたのだ。
「あぎゅぅ、うぅ……うーっ!!」
人の姿になる時は、腕と足が凄まじく痛い。
肉を切り裂き無理やり羽を押し込むような、骨を潰し、関節を捻って足の形を変えるような、そんな激痛が生じる。
「うぁぁぁぁ、うぅー、うぎゅぅー!!」
ティアが痛みに唸りながらのたうち回っていると、すぐそばで小さなクシャミが聞こえた。
クシャミをしたのは、レンだ。
ティアの羽が腕の中に引っ込んだことで、再び体が冷えてしまったのだろう。レンが微かに身じろぎをして目を開く。
同時にセビルも意識を取り戻し、薄目を開けてティアを見上げた。
「ティア、今、苦しむ声がしたが……どこか、負傷を……」
言いかけたセビルが息を呑んだ。
遅れてレンも顔を上げる。
「うぅ、寒っ…………おい、ティア、ちゃんと上着着てっか………………え」
薄暗い洞窟の中、二人は目を見開き凝視した。
ハルピュイアから人に戻る最中の、中途半端な化け具合のティアを。
痛みに顔を歪めて唸る、愛嬌を失くした魔物の顔を。