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【18】心を込めて、歌ってあげる


 ティア達を追いかけてくる雪猪は興奮状態にあるのか、ブフォブフォと息を吐き、口から白い泡をふいていた。


(多分、あの氷の魔物の眷属なんだ)


 言うなれば、雪猪にとってジャックは親玉だ。だから、ジャックを倒され、ティア達に怒っている。

 そうでなくとも、雪猪は人を凍らせ砕くことが大好きな魔物なのだ。今の雪猪は暴走する冬の悪意と言っていい。

 あの巨体と勢いは、それだけで脅威だ。セビルも無理に曲刀一本で立ち向かおうとはしなかった。

 ティアは走りながら、ポケットに飴の小瓶がちゃんとあるかを確かめる。

 手元にある飴は五粒。これを使えば、雪猪に対抗できる。


(……でも)


 正体がばれたら、〈楔の塔〉にいられない。飛行魔術を覚えられない。それは困る。

 ハルピュイアの冷酷な本能が、レンとセビルを殺しちゃえばバレないよ。と囁いた。


(しないよ。だって、嫌だもん)


 ティアは、歌と空と楽しいことがあれば、それでいい。

 レンとセビルは「楽しい」だから、大事にして良いはずだ。


「ティア、レン、あそこだ!」


 先を走るセビルが、道の妨げになる枝を曲刀でバサバサ切り落とし、前方の岩と崖の間にある切れ目を指さす。

 僅かな隙間だ。人が一人、入れるか否かぐらいの幅しかない。


「あれだけ狭ければ、巨躯の猪は入ってこれんはずだ!」


「セビル、お前、入れんのかよ!」


「お前達が先に入って、わたくしを引っ張れ!」


「ピヨップ! 分かった! 引っ張る!」


 まず先にレンが、続いてティアが、岩場の隙間に滑り込んだ。二人は小柄なので、簡単に入れる。

 最後にセビルが曲刀を鞘に納めて、隙間に体を滑り込ませた。やはり、ギリギリだ。尻が引っかかっている。


「わがままボディですまんな!」


「わがままなのは、ボディじゃなくて性格だろ! ティア、せーので引っ張るぞ!」


「うん! せーの!」


 レンと声を合わせて、二人はセビルを内側に引っ張り込む。三人はもつれるようにして、中に倒れ込んだ。

 一応洞窟と呼んで良いのだろうか。ジメジメとして冷たい場所だ。広くはないが、三人が身を寄せ合って座るぐらいの空間はある。

 外からは、雪猪のブフォブフォという鳴き声と足音が聞こえた。

 三人は息を潜めて、雪猪が遠ざかるのを待つ。


「行ったかな?」


 レンが小声で囁いた。ティアは首を横に振る。


「ううん。まだ、ウロウロしてる」


 ティアは耳が良いので、獣の足音がよく聞こえた。

 先ほどの興奮状態からは脱したようだが、雪猪はこの周辺を徘徊している。

 岩の切れ目から見える空の色を見て、セビルが険しい顔をした。


「そろそろ日没が近いか……流石に、ここで夜を越すのは厳しいな」


 あれだけ走り回った後だというのに、レンとセビルの体は、少し冷たくなっていた。

 洞窟の中は気温が低く、そして湿っている。ティアは気にするほどでもないが、レンは寒そうに指を擦っているし、セビルは指を開閉して血の巡りを気にしていた。

 岩の切れ目から空を仰いだティアは、ふと気がついた。自分達の周囲で何かがキラキラしている。


(何あれ? キラキラ? さっき、こういうの見たような……)


『ふふ、うふふ』


 幼い笑い声が洞窟の中に反響する。

 あっ、と思った瞬間、岩の切れ目が──この場における唯一の出口が、氷で塞がった。

 分厚い氷が光を遮り、あたりはますます暗くなる。


『溶けちゃった。溶けちゃった。でも、それじゃあボクは死なないの』


 それは、先ほど火球を浴びて溶けた氷の魔物ジャックの声だった。

 レンが辺りを見回し、押し殺した声で呻く。


「なんだこの声……一体、どこから……」


『今度は、この洞窟ごと、ギュッとしてあげるね』


 その時、明確に辺りの空気が冷え込んだ。

 吐く息が、白く曇る。

 レンがハッとした様子で呟いた。


「まさか、あいつ……気体にもなれるのか!?」


 気体。その瞬間、ティアは思い出した言葉を口にする。


「蒸発!」


 氷は溶けて水になり、水を加熱するとモヤモヤの湯気になる。

 だけど、水はなくなった訳ではないのだ。モヤモヤの水蒸気は見えないだけで、ちゃんとある。


『うふふ、うふふ……春になって霜が溶けても、冬は何度だって訪れる。何度でも、何度でも』


 いつしか洞窟の中は、ハルピュイアのティアでも肌寒いと感じるほど寒くなっていた。

 ジャックは、この洞窟ごとティア達を凍死させるつもりなのだ。

 外に逃げ出そうにも、出口は分厚い氷で塞がれてしまった。しかも外には、雪猪が徘徊している。


「おい、ティア」


 レンがカチカチと歯を鳴らしながら、自分の上着を脱いでティアに押しつけた。


「お前が一番薄着なんだから着とけ。美少年の温もり付きだぜ? 高くつくぞ」


「ならば、わたくしはこれを貸してやろう」


 セビルがティアに赤い蝶のブローチを握らせる。

 先ほど火球を放った魔導具は、まだほんのり温かい。


「火球を放てるのは一度きりだがな。まだ多少は熱が残っている。レンと交代で握りしめるが良い」


 ティアはポカンとした。

 暗いところでもティアの目はよく見える。レンもセビルも顔が真っ白で、唇は紫色だ。ティアよりも、ずっと寒いはずなのだ。


「わたし、まだ大丈夫だよ。それより、二人の方が……」


 全てを言い終えるより早く、セビルがティアとレンを抱き寄せた。


「良いのだ。わたくしはお前達で暖を取る」


「美少年で暖を取るって、めちゃくちゃ贅沢だよな」


 筋肉質でしなやかなセビルの腕が、二人をしっかりと抱きしめる。レンがギュッとティアの手を握る。

 ……寒い日に、首折り渓谷で姉達と羽を寄せ合ったことを思い出した。

 ハルピュイアの羽は水に強くてフカフカで、包まれると、とても温かくて幸せな気持ちになれるのだ。

 今のティアは、肩にレンの上着をかけて、手にセビルのブローチを握りしめている。フカフカの羽はないけど、温かい。


『うふふ、うふ……良いな、良いな、ギュッとするの』


 氷で覆われた洞窟に、ジャックの羨ましげな声が響いた。

 人の熱を求め、奪う魔物は、見えない腕を伸ばすみたいに、洞窟の中に冷気を送り込む。

 レンとセビルの体が、どんどん冷たくなっていく。

 ティアはさっきしてもらったみたいに、二人の体を擦ってみた。


(あったまれ、あったまれ……)


 セビルのお腹を擦ったら、セビルが小さく肩を震わせて笑った。


「……くすぐったい、ぞ、ティア……」


「セビル、あったかい?」


「あぁ……とても」


 セビルの声が、どんどん小さくなっていく。

 レンの方はもう意識が朦朧としているらしく、話しかけても曖昧な言葉しか返ってこない。

 ティアの喉が、恐怖に引きつった。


「あ……うぁ……あ…………レン、起きて、起きて。寝ちゃ駄目だよ。ほら、セビルのブローチ、ちょっとあったかいよ。上着も、わたしはいいから、レンが……」


 返事がない。冷たい。

 冷たくなった生き物は、首折り渓谷の底へ突き落とされるのに。


『うふ、うふふ……素敵。命の灯火が消える瞬間……とっても素敵』


 ティアは腕を伸ばし、グッタリしているレンとセビルを正面から抱きしめる。

 本当に微かだけれど、反応があった。二人はまだ、生きている。

 命の灯火は、消えていない。


『良いな、良いな、羨ましいな』


 レンとセビルは、一緒にいると楽しい。だから、殺さないと決めた。


(それだけじゃない。楽しいよりも、ちょっと特別)


 だから「殺さない」ではないのだ。「死んでほしくない」のだ。


『ボクもギュッて……』


「うるさい」


 感情のこもらぬ声で呟き、ティアはギョロリとその目を洞窟の外──凍りついた岩の切れ目に向ける。

 暗闇の中、琥珀色の目が爛々と輝いた。

 ティアはブーツと上着を脱ぎ捨てて、ポケットに手を伸ばす。

 小瓶の中には、飴玉が五粒。


「お前に、レンとセビルは殺させない」


 飴を一粒口に放り込み、噛み砕く。

 口いっぱいに広がる、花の香り。酩酊感。

 少女の華奢な腕から飛び出す、純白の羽。

 ブーツを脱ぎ捨てた素足はブツブツと粟立ち、鱗に覆われ、鋭い爪を持つ鳥の足に変わる。

 ティアの胸を占めるのは、解放の悦びを上回る激しい怒り。


(殺意)を込めて、歌ってあげる」


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