【3】刮目せよ、美少年
試験会場であるセルビアの森に一歩入ったティアは、その場で足を止めて、手渡された布袋を開けた。
森に入って、たった一歩である。当然に試験官のヘーゲリヒとレームの姿は見えている。
ヘーゲリヒが眉を吊り上げた。
「せめて、我々の見えないところまで進んではどうかね?」
「……なんで? わたしが一番最後だから、誰も困らないよ?」
「心情的な問題だよ、君ぃ。我々が落ち着かないではないかね」
心情的。難しい言葉だが、それはピッタリだとティアは思った。
「うん。それ、しんじょー的な問題」
どういう意味かと、ヘーゲリヒが片眉を持ち上げる。
説明は苦手だ。ティアは懸命に言葉を選んだ。
「試験官の見てる前で襲いかかってくる受験者って、あんまりいないと思ったの。しんじょー的に」
──森の中に隠された〈楔の証〉というメダルを手に入れて、明後日の正午までに戻ってくる。
──試験中に怪我をしたり死んだりしても自己責任。武器をはじめとした私物の持ち込みは全て許可する。
それがこの試験のルールだ。
つまり、自分以外の受験生の足を引っ張ることは禁止されていない。それこそ、持ち物を奪って殺しても、失格にはならないのだ。
人は誰かに暴力を振るう時、他者の目があるとそれを躊躇う習性がある。
人目のつかぬ森の奥に進めば進むほど、その危険性が増えることをティアは理解していた。
「だから、大事な物を確認するなら、ここが一番安全」
黙り込むヘーゲリヒをよそに、ティアはその場にしゃがんで、受け取った袋の中身を確認する。
(袋の中身は、地図と、携帯食糧と……これが、鍵?)
それは手のひらに乗るぐらいの大きさの、扇形の木片だった。表面には細かな模様が刻まれていて、手のひらサイズの円盤を、同じ大きさで四等分したように見える。
ティアは木片の模様を指でなぞったり、匂いを嗅いだりしてみたが、特に仕掛けの類は見当たらなかった。これが鍵なら、変な鍵だ。
つぎに地図。〈楔の塔〉の東に広がるセルビアの森は、空から見ると縦に長く伸びていて、北に行くほど山岳地帯も増えていく。試験会場はその南端の比較的なだらかな土地だ。
地図には全部で三箇所に×印がつけられていた。そこに〈楔の証〉があるのだろう。
「〈楔の証〉って、全部で三個しかないの?」
「その質問には答えられない。自分の目で確かめたまえ」
ティアの呟きにヘーゲリヒが素っ気なく言う。
ティアはうーんと唸りながら地図を睨んだ。
(地図の見方、教わってきて良かったなー)
試験会場は比較的なだらかな土地ではあるが、それでも北に行くほど高低差が出てくる。
会場自体はそこまで広くないが、高低差のことを考えると、移動時間はそれなりにかかるだろう。
それこそ、最も遠い×印を目指したら、かなり時間はギリギリになるはずだ。
また、地図の端には「緊急時は南を目指すこと」と書いてあった。
「そろそろ出発したらどうかね?」
「はぁい」
ヘーゲリヒに急かされ、ティアは地図、携帯食糧、鍵の入った布袋を限界まで小さく畳み、肌着の中に隠した。大事な物は肌身離さず、だ。
これで良し、とティアは鼻から息を吐き、そして試験官のヘーゲリヒとレームに元気良く手を振る。
「いってきまーす!」
「……早く行きたまえよ」
「危なくなったら、南に逃げるのよー」
しっし、と犬を追い払うような仕草をするヘーゲリヒと、助言をしてくれるレームに背を向け、ティアは森の奥に進んでいく。
目指すは、一番近い場所にあった×印だ。
* * *
ペタペタと頼りない歩き方で森の奥に進む少女、ティアの姿が完全に見えなくなったところで、試験官のヘーゲリヒはため息をついた。
メルヒオール・ジョン・ヘーゲリヒは、〈楔の塔〉指導室の室長であり、この試験の合格者達を指導する立場の人間だ。
つまり、あの受験者達の中に、未来の生徒達がいるということである。
いっそ全員不合格であれば、ヘーゲリヒの仕事も少なくて済むのだが、それでは塔の運営が傾くことも彼は理解していた。
「まったく、子どもというのは扱いづらくてかなわん。受験資格は十六歳以上にするべきだ……そう思わんかね、レーム君?」
「いやぁ、あはは、私が受験したのも、あれぐらいの年だったので……」
レームが少しだけ眉を下げて笑う。
彼女は前髪が短く眉毛がよく見えるので、その角度が何よりも雄弁に彼女の感情を語っていた。
ヘーゲリヒはフンと鼻を鳴らす。
「だからこそ、分かるだろう。こんなもの、子どもが受けるような試験ではないのだよ」
「あのぐらいの年だからこそ、切磋琢磨できるっていうのも、あると思いますよ。私がそうでしたし」
アンネリーゼ・レームは優秀な魔術師だ。才能があり、情熱があった。彼女ほどの才能の持ち主など、そうそう現れるものではない。
黙り込むヘーゲリヒを、レームが下から見上げる。
先ほど見た、あの白髪の少女と同じ目だ。
挫折を知ってもなお、真っ直ぐな目。
「ヘーゲリヒ室長。私は〈楔の塔〉に来たことを、後悔なんてしていません。今も、昔も」
希望を抱いて〈楔の塔〉の門を叩く者。
他に居場所がなく、〈楔の塔〉を死に場所に定められた者。
そのどちらが不幸なのかを、ヘーゲリヒは考えない。考えても仕方のないことだからだ。
* * *
「一番近い×印〜、目指して上って、トットコトー♪」
それは、この帝国でよく聴く童謡のメロディを元にした替え歌だ。
能天気な替え歌を口ずさみながら森を歩いているのは、襟足だけ髪を長く残した白髪の少女。
その姿を、木陰からジッと見ている少年がいた。
(あいつ馬鹿だろ、なんで歌いながら歩くんだよ。自分の居場所、全力で教えてるようなもんだろうが。しかも、一番近い×印とか、目的地言っちゃってるし!)
「一番近い×印〜、目指して下って、トットコトー♪」
(出発順の話になった時だって、このままじゃお前が一番不利なんだんぞ、ってこっそり合図してやったのに、全然気づかないし……あいつ絶対アホだ。本物のアホだ)
「上って、下って、トットコトー♪ トットコトコトコ、トットコトー♪」
それにしても、なんだこの歌は。と少年は半眼になった。
適当な替え歌のくせに、やたらと上手いのだ。
彼は音楽に関する知識などないが、それでも一つ一つの音が正確かつ繋げ方が滑らかで、音の膨らませ方が上手いと感じた。
(うわ、すげーうま……って聴き入ってどうする、オレ……あー、どうするかなぁ。声かけるか、ちょっと待つか……)
「トットコトコトコ……ピョッ?」
歌が途切れる。白髪の少女を見守っていた少年は、ハッと我に返った。
見れば、少女の前方に一人の男が佇んでいるではないか。茶髪の中年男性で、見るからに荒事慣れしている雰囲気がある。腰には剣をぶら下げていた。
「やぁ、お嬢ちゃん。君は最後に到着した受験者だね?」
「うん、はい!」
男は黄ばんだ歯を覗かせて、いかにも貼り付けたような愛想笑いを浮かべていた。
あぁ、なんて胡散臭い愛想笑い!
(……あのオッサンは受験番号十六番。連番で似たようなやつがいたから、間違いなく雇われたクチだ)
迷っている暇はない。くそっ、と毒づきつつ、彼は腹を括った。
(こうなったら、超絶美少年が本物の愛想笑いを見せてやらぁ! 刮目せよ、美少年スマイル!)
* * *
その茶髪の中年男性は、ニコニコしながらティアに訊ねた。
「君は、受験は初めてかい?」
「うん、初めて。オジサンは?」
「あぁ、オジサンも初めてなんだ。どうだろう、ここは協力して合格を目指さないかい?」
「うん、いいよ」
ティアがあっさり頷くと、茶髪の男は出会い頭から浮かべていた笑みを深くした。
「ありがとう、私はザイツだ。ところで、君は鍵の仕掛けにはもう気づいたかい?」
「鍵の仕掛け?」
鍵と言えば、円を四等分して飾り彫りを施したような、あの木片だ。今はティアの肌着の中に隠してある。
あの木片に、何か仕掛けなどあっただろうか? 首を右に左に傾けるティアに、ザイツは身を屈めて小声で言った。
「あの鍵、裏面の溝が動くんだよ」
「なんと!」
「動かし方にコツがいるんだ。教えてあげよう」
そう言ってザイツが手のひらを差し出したので、ティアは男の手を握った。
ザイツが困惑したようにティアを見る。
「あー、お嬢ちゃん?」
「握手! 仲良くしましょうの時は握手!」
「いや、そうじゃなくて、鍵を……」
ザイツが何か言いかけたその時、パタパタと軽い足音が聞こえた。
ティアは握手をやめて、パッと振り向く。
こちらに駆け寄ってくる少年がいた。綺麗な金色の髪を背中まで伸ばした少年だ。年齢も身長もティアと同じぐらいで、質は良いがブカブカの服を袖を捲って着ている。
少年の顔にティアは見覚えがあった。
(あの子は確か、ルール説明の時に、わたしに手で合図をしてた……)
少年はティアの前で足を止める。風になびいていた艶やかな金髪が、サラサラ、フワリと広がった。
息を切らしていた少年は、緑色の目をキラキラさせて、ティア達を上目遣いに見る。
「ボクも仲間に入れてくださぁい」
すごい猫撫で声だ、とティアは思った。