【1】三流詐欺師〈煙狐〉の災難
春の終わりののどかなある夜、帝都の下町にある安酒場で、一人の男がテーブルに突っ伏していた。
短い黒髪に無精髭の、三十代半ばの男だ。
男には幾つも名前がある。本名も勿論あるが、本名より偽名の方が使うことが多い。職業は偽名の数だけある──つまりは、本職詐欺師である。
そんな彼の通り名は〈煙狐〉といった。
「おい、オヤッサン。ビールもう一杯……」
「あんた、それぐらいにしときなよ。せめて、食い物ぐらい腹に入れなって」
「心労で、飯が喉を通らねぇんだよ」
帝国人は心労で食事が喉を通らずとも、ビールなら喉を通るのである。
豆の皮を剥いていた店主は、ため息まじりにビールを注ぎ、ついでに剥いた豆の薄皮を小皿にのせて、〈煙狐〉の前に置いてやった。
〈煙狐〉は唇を尖らせる。
「……そこは、剥いた豆を寄越すとこじゃねぇのか、オヤッサンよぉ」
「タダでくれてやるんだからいいだろ別に」
「しけてんなぁ」
ボヤキながら、〈煙狐〉は突っ伏していた上半身を起こし、豆の薄皮をしゃぶった。豆の味がするような気がしないでもない。
モムモムと薄皮を噛み締めていると、店の扉が開いて一人の男が入ってくる。
緩く波打つ金髪の、整った容姿の男だ。
「聞いたよ、フックス〜。なんか、すごい大仕事が回ってきたんだってぇ?」
「ハーゼか。どこで嗅ぎつけてきやがった」
ハーゼは端麗な甘い顔に、いつもポヤポヤとした笑みを浮かべている優男だ。
職業は結婚詐欺師。つまりは、詐欺師である〈煙狐〉と同類である。
なおこのハーゼ、顔は良いが頭は良くない。
結婚詐欺師になったのも、本人が望んだのではなく、寄ってくる女全ての期待に応えようとした末路であった。
「誰に聞いたんだったかなー、えーっと、昨日寝た子がこの辺牛耳ってる連中の下部組織と繋がってたみたいで、その辺から色々?」
「……お前、いつか刺されて死ぬからな?」
豆の薄皮をビールで流し込み、男は数日前の出来事を思い返した。
* * *
数日前、詐欺師〈煙狐〉は追い詰められていた。
狭い個室。椅子に縛りつけられた彼の向かいに座るのは、フード付きローブを身につけ、口元をヴェールで隠した怪しい雰囲気の男女。
何があったかというと……まぁ、仕事でしくじったのである。
〈煙狐〉はあまり同職の者とはつるまず、単独での仕事を好む。ただ、その時は手がけた詐欺に他の組織が絡んでいたから、保険のために同職者と手を組んだ。
最悪、そいつを切り捨てて逃げればいい──などと思っていたのは向こうも同じ。
手を組んでいた同業者に切り捨てられ、詐欺をしかけた貴族に捕まり、そして今、ここで尋問を受けている。
目の前に座っている男女は、貴族の家に仕えている人間には見えなかった。こっち側の人間だ──しかも、荒事慣れしている。
女の方が口を開いた。
「貴方の素性は分かっています。通称〈煙狐〉。この帝都周辺で活動している詐欺師だとか」
顔の下半分が隠れているので分かりづらいが、女の声の感じから察するに、意外と若いと感じた。キリッとした涼やかな目の上には、少し太めの眉毛がのっている。
〈煙狐〉はヘラリと笑った。愛想を振り撒こうと思ったわけじゃない。敵意を見せたら殺されそうだと思ったのだ。
(さて、どうやってここを切り抜けるか……)
〈煙狐〉は決してキレ者ではない三流詐欺師だ。
たとえばチェスなら、数手先まで考えることができない。
目の前の問題をかわせばそれでいい──そういう生き方をしてきた彼は、今も深く考えず、その場しのぎの嘘をペラペラ口にした。
「仲間には隠していたんですがね。俺にはもう一つの顔があるんです」
「ほう?」
男の方が、面白がるような声をあげる。
〈煙狐〉はソワソワと辺りを見回すような素振りをしてから、小声で言った。
「……実は、俺は皇帝陛下直属の諜報員でして、最近は陛下の命令で、帝国暗部を牛耳る裏組織に潜入していたんですよ。そいつらが、陛下の命を狙っているという噂がありましてね」
大嘘である。帝国暗部を牛耳る組織には幾つか心当たりがあるが、そいつらが皇帝の命を狙っているかどうかなんて、知ったこっちゃない。
「この屋敷に、組織の一員が逃げ込んでいるという情報を得て、俺は奴らの目を欺くべく、詐欺師になりすまし、詐欺を仕掛ける振りをして組織の一員を確保しようとするも、奴は俺の正体を見抜き……」
なんで敵の目を欺くのに詐欺師になるんだ。もっと他にやり方があるだろう──なんてことは考えない。とにかく、雰囲気と勢いでこの場を凌げれば良いのだ。
〈煙狐〉は自分を切り捨てた同業者の男を、裏組織の一員に仕立てて、それっぽい話をペラペラと語った。そうして逃げるチャンスが来るのを待つ。それが〈煙狐〉の作戦だった。
すると、ヴェールをつけた男がどこか楽しげな口調で言う。
「つまり、その方は、皇帝の命を守るために動いていると」
「えぇ、その通りです。俺ほど皇帝陛下に忠誠を誓っている人間は他にいませんよ。皇帝陛下バンザーイ! って、縛られてるからバンザイできないんですけどね、あはは」
「わはははは!」
男は喉をのけ反らせて大笑いをし、隣に座る女に言った。
「聞いたか、ハイディ。この男は、余に忠誠を誓っているらしいぞ」
(……んん?)
なんだか変な話の流れになってきたぞ……と困惑する〈煙狐〉の前で、男がヴェールに指をかける。
「実はこちらにも、もう一つの顔があってな」
男の手がヴェールを剥ぐ。
その下にあるのは、彫りの深い精悍な顔だ。
「余はシュヴァルガルト帝国、第一六代皇帝レオンハルト・アロイス・マクシミリアン・ベルント・クレヴィング! 世に言う黒獅子皇とは余のことである!」
〈煙狐〉はポカーンとした。
それから三秒して気づいた。これは、気の利いたジョークなのだ。
「ははー、これは恐れ入りました陛下。いやぁ、頭が高くてすみませんねぇ、こうも縛られてちゃ平伏もできませんで」
「ふむ、確かに……余の忠臣にこのような扱いは相応しくないな。よし、ハイディ。この者の縄を解け。宮殿で丁重にもてなそうではないか」
これはつまり、この荒事慣れした連中の本拠地に〈煙狐〉を連れて帰って、尋問するという流れだろうか。
(いや、今すぐ拷問って流れにならなかっただけ、ラッキーだな。あとは媚びを売りまくって取り入るか、隙を見て逃げるか……)
ハイディと呼ばれた眉毛の太い女が、静かに立ち上がり、〈煙狐〉の拘束を解く。
〈煙狐〉は逃げるチャンスを探したが、ハイディは油断なく〈煙狐〉の一挙一動を観察していた。下手に逃げようとしたら、後ろからブスリと刺されそうだ。
(……今はこの、なんちゃって皇帝陛下に愛想を売っておくか)
〈煙狐〉はハイディという女に見張られながら、馬車に乗せられた。
そうして半日ほど馬車に揺られて辿り着いたのは、立派な宮殿だ。裏組織の隠れ家には見えない。
宮殿の中に通され、着飾った綺麗な姉ちゃんに酌をされながら酒を勧められたあたりで、流石の〈煙狐〉も何かおかしいな? と気がついた。
気がついた時には、もう遅すぎた。
「さて、〈煙狐〉よ。その方は余の忠臣であると申したな」
〈煙狐〉をここまで連れてきた、なんちゃって皇帝陛下──もとい黒髪の男は、たっぷりと毛皮をあしらった豪奢な服に着替えていた。
〈煙狐〉が今まで詐欺の獲物にしてきた、成金連中とは違う。
豪奢な服も装飾品も、あるべくしてそこにあると思わせる風格。
男の腰のベルトには短剣が吊るされている。その紋章は、皇帝のみに許されるものではないか。
(おい、おい、おい、これってまさか……)
黒髪の男がパンパンと両手を叩いた。
すると、酌をしてくれていた綺麗な姉ちゃん達がサッと部屋を出ていく。
部屋に残されたのは〈煙狐〉をここに招いた男と、壁際に控えている眉毛の太いハイディという女だけだ。
「さて、余の忠臣に命じる」
男は白い歯を見せて笑った。まるで獰猛な獅子のように。
──黒獅子皇。それが、この帝国の現皇帝の通り名だ。
「貴様はこれより、〈楔の塔〉に教師として潜入せよ」